わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

私たちは光の使者

2010-09-30 11:11:06 | 癒し
どんな

チャンネルに

自分を合わせてゆくかに

よって

その

想いの

波は

澄みも

汚れも

するのである


人間が

本来

どういうものかを

知っている

守護霊

守護神は

あなた方を

神の

光のなかへと

みちびいて

やまないのだ


そうして

汚れと

みえる

想念の

世界にすら

あなた方を

つかわして

光というものが

無限の

愛と智とを

含み

どんな闇をも

消し去って

光のなかに

溶け入らせることを

伝えるのである


あなた方は

光の

使者なのだ

神の愛を

伝える

使者なのだ


平凡な

日常のなかで

少しずつ

少しずつ

やさしさを

たくわえ

世界平和の祈りを

祈る時

誰もが

この

光の使者に

なっているのである


世界人類が

平和でありますようにという

ひびきのなかに

あなたの

本体が

結集されてゆくのである



神の子について(後篇)

2010-09-29 09:51:06 | 癒し
     (前日の続き)

 皆平等に神の子なんです。だから、神の子が神の子に呼び

かけるんですよ。例えどんなに腹立つ相手だって神の子

なんです。あなた方が道で会って、ああこの人は本当にいやだ

と思えば、ちょっと道をさけて会わないようにしようと思い

ますよ。だけども、そこを押してね、相手が知らん顔をしても

何をしても、やっぱり、おはようございますといって、それを

ずっと続けてごらんなさいな。やっぱりむこうもお早ようござ

いますと言うから。

 そこをね、いやな人だから挨拶するのをやめようとか、この

子はいじわるそうだからちょっとさけて通ろうとか、そう

思っちゃうとね、もういじわるなその子供しか見えてこない。

 その人しか見えてこない。それは、自分の中でかってに

その人の生命を判断して測ってやってることですよね。

 そんなもんじゃないんです。それがその人の本質だと

思ったら大間違いですね。


 それは、祈りによってそういう想いというのは消して

いただけるんだから、出たら、ああ消えてゆく姿だと思い

ながらね、非難されてもね、中傷されても意地悪されても、

明るい生命の源である神様が我々を受けとって下さるんだから

ということを信じて、信じ抜いてですね、私達は生きて

ゆかないと、とても自分を狭くしてゆくことになる。

 世界平和の祈りが、自分だけの平和の祈りになっちゃう。


 平和というのは、ただ単に事なかれ主義ではないんですよ。

 イエスが言ったでしょ、私がこの地上に来たのは、兄弟を

分かれさせて家を分かれさせて、争いを起こさせる為だ、

剣を投じる為に地上に来たんだという風なことを言います。

 何という言葉だと皆思いますよ。肉体もってる人はね。

 イエスがそんな人だったらついていけないと想いますよ。

でもそうじゃないんです。色んな事が起こるんです。本当に

真理に従おうとすれば。

 だけど、私達は神様に任せてるんだからね、お願いして

あるんだから、預けてるんだから、そこからの祈りであれば、

絶対に私達は間違った方向へ行きっこないんだ、そういう想い、

信仰、そういうものをもって進んでゆく時に、いつの間にか

分かれた家が握手するんですよ。気の合わなかった人と挨拶が

出来るようになるんですよ。一旦分かれさせるかもしれないよ。

 一旦辛いことをね、神様というのは降ろすかもしれないよ。

 だけども、決して分かれさせたままとか、喧嘩をさせたまま

とかね、そういうことは絶対にないんです。どこかで結んで下

さるんです。


 光を結ぶのが神様なんですからね。闇を降ろすのが神様じゃ

ないんだから。

 闇の問屋じゃないんです。光の問屋なんだよ。神様と

いうのはね。

 だから、そこに信をおかなきゃ何をおくんですか。そこへ

深く入ってかなきゃ何に入っていくんですか。そこを信じて

もらって、そうして道を説いてもらわないことには、神様の

光が途中で止まっちゃいますよ。


 信ずるということは、ただあなた任せじゃないんです。私の

信仰は駄目だけど、あの人の信仰はすごいから、あの人の

信仰の話を聞いたら少しは私の信仰がって、そりゃあ確かに

そうだけど、その人にいつまでも引っぱってもらってる信仰じゃ

ないんですよ。その人に開いてもらって、そして、自分でも

驚くような力が出て、神様ありがとうございますと言えた時に、

あなた方が輝くんだよね。

 その辺のことをね、きっちりと腹の中に入れて、そうして、

五井先生のことも神様のことも、向こうの世界のこともこの世の

ことも、色んなことを思って、説いて、祈ってやっていかなきゃ。

 我々の中の本心開いて下さるのは神様なんです。我々じゃ

ないんです。だから、任せるというのは、私がさっきあなた任せ

と言ったのはね、人に頼っちゃいかんということです。人に頼る

前に神様に頼らなきゃ。


 人というものはね、自分も含めて我がありますよ。想いがあり

ますよ。都合の悪いことはやっぱり避けて通りたい想いがある。

 皆そうでしょう。だから、そういう人を頼んだって、頼みきれる

もんじゃないんです。皆弱いんだから。信頼関係をこわせというん

じゃないんですよ。皆合い和して生きていかなきゃならないの。

 生命を尊敬していかなきゃならないの。けれども、そういう意味

じゃない。


 やはり、朽ちることのない生命というのは神様にしかない。裏切ら

れない愛というものも神様にしかないんです。我々はそこから愛情を

もらってる、光をもらってる訳でしょ。

 だから、そこへ帰っていかなきゃどうするんですか。そこへ信を

おいて初めて深く祈ることが出来る。そこを基盤にしなかったら、

誰々先生の言うことを基盤にしたら駄目なんです。

 私だって、私が喋ってると思ってない。私は場所なんだと

さっきも言ったけども、本当に私が喋ってるんじゃないんです。

 神様の流れのその光が来て、奥深いところから光が来て、私が

喋らせてもらってるんですよ。五井先生が偉いとか何とかと

言うけれども、そうじゃないんですよ。

 本当は、大きな深い働きというものは、底知れない神様の愛と

祈りと調和と、そういう皆を平等に愛する心、そこから出るんです。

 みんなその宝を持ってるんです。だからしっかりして下さい。

                     (了)

神の子について(中編)

2010-09-28 10:07:47 | 癒し
    (前日の続き)

 そりゃあ肉体人間ですからね、叩きながら痛みが来ますよね、

想いも来ます、寄って来ます。でもそれを上まわって倍して、

神様が私たちを愛して下さるということを思ってるから恐くも

何ともない。痛みなんて何でもないですよ。痛みというのは、

私は皆さんからのプレゼントだと思ってるね。

 だからね、晩年に色々痛んで痛んで、自分の奥さんだけには

本当に、痛いよ痛いよと言いましたけどさ、まあ声あげなきゃ

しょうがなかったけども、でも痛いから恨むということじゃ

ないですね。

 それよりもっと深いところで、私が神様に愛して

いただいてる。で、皆さんも神様に愛してもらってる同じ生命

だということが分かってるから、恨みっこないですよ。

 痛みなんてものはね、受けてしまってそれを浄めてゆけば、

上がっていってね、光になっちゃうんです。業というものも

そうなんですね。


 ただ、人間というのは、肉体というものといっしょに暮ら

してますからね。狭い箱なんだけども肉体というのは。

 だけど、肉体もって生きる以上は、やっぱりそれを大事に

してやらなきゃいけないというところもあるでしょ。

 可愛がってやらなきゃいけないというとこありますよね。

 だから、養いながら、又、そこに把われないというのもね、

非常に難しいことなんです。私が言いましたでしょ、いいこと

にも悪いことにも把われるなというのはね、それは真理なんだ

けど、そういう気持ちで祈ってゆけば、私がという気持ちを

向こうに受けとってもらって、神様に受けとってもらって、

そして、ただただ神様の器になるべき光だけが入ってくる。

 どういう働きが自分に出来るんだろうかとか、私はこれだけ

しか出来ないとか、色々自分を限定してやっていくと、もう

本当にほんの小っちゃな働きしか出来ないけども、そうでは

なく、神様に預けてしまって何でもやらせていただきますと

言うと、あの人がこんなことが出来るかなあというような

ことが出来ますよ。それがね神様の不思議なところ。

 神様の奇跡というのは本当はそういうことですねえ。神様の

奇跡というものを、皆いやしというものに求めるけれども、

本当は、人間の中に限りのない神様のエネルギーがあって、

そのエネルギーに動かされて、喜んで、あるいは無意識に

動いていく時に、我々の生命というものは喜んで、深くなって、

大きくなって、いつの間にかすごいところにいたとか、

いつの間にかすごい事をやらせていただいたとか、それこそ

奇跡でしょうね。


 人間というものは、いつも言いますようにね、この肉体の

五尺何寸の体だけじゃないんですね。いつも言いますでしょ。

 宇宙のように大きくもなれば、針のように小っちゃくもなる。

 もう融通無碍、それが人間の生命の本来なんですね。それが

神様に抱きとられている。神の子の本質はそういうもの

なんです。無碍なんです。ゆるしですね。そういうものを我々は

いただいて毎日を生きてる。

 だから、この真理というものは、本当に悟って明るくなった人

ならば、私でなくったってどんな人でも言いますよ。誰だって

言います。キリストだって釈迦だってこれを言ったしね。

 あるいは、今生きてる宗教者で明るい所へ行ってる人と

いうのは、絶対にここを言いますね。ここへ向かって皆が

ゆけるんですよ。何故ならば、皆が神様の器だから、神様の

子供だから。


 もう今日はね、何とか速く喋ろうというのをね、ゆっくり

喋ってね。でないと聴きとれないでしょ。原稿にも出来ない

から、ゆっくり喋ってますけどね。あんまり速くってね、

私のいつもの喋り方は迷惑かけてるからね。これの倍位の、

あるいは三倍位の速さで若い時喋ったと思いますね。

 五倍かな?高橋君なんか聴きとれなくってね、いらいらして、

本当にあの頃は録音技術も悪かったしねえ。私も

言いたかったしねえ。そしたら、五井先生聞き取れません

とかね。何言ってるんだか分からなかったけど、先生の情熱

だけ分かったとかね。後で言われてがっかりしたりして、

そういうことがありましたけどね。

 だけど、今私はゆったりしてますよ。向こうの世界という

ものは、本当にもう何の不安もないでしょ。安心だけでしょ。

 そういう意味でゆったりしてる。大安心の中へ帰ってきてる。

 その大安心というものは、こっちへ来ようと来まいと皆の

中にあるんだから、その大安心の中に抱かれた時に、ふっと皆

神の子になる。


 その神の子というのは、もひとつ言えば、意識しようと

しまいと、皆神の子なんだから。

 神の子というのは、特別に選ばれたとか、そういうものじゃ

ありませんよ。偉くなったとか、そういうことじゃないんですよ。

 心を素直にして、祈り心で神様を呼んで、そうして毎日

気持ちを豊かにして、明るく生きる。その時に皆神の子に

なるんです。


 私たちは、特別なんだとか、私達は五井先生に抱かれてるんだ

とか、神様の大愛の中にいるんだとか、だから、私達は他の人

よりも、もっともっと祈りを知ってるんだとか、そういうものを

高慢といいます。遜らなければいけません。遜るところが

ないとね、人間というのはどうにもなってゆかないんです。

 それこそさっき言った座からね落ちてしまいます。遜って、

そうして自分を低くして。

 ただ神様だけが絶対の愛でしょう。そこへ任せて生きて

ゆかないとね。そのことによって、あなた方の中にある

眠ってる、とてつもない力もエネルギーも、可能性も出て

くるんですよ。そのことによってのみ出てくるんです。

 分かりますか。それ以外に出てくるものは我なんですよ。


 決してね、才能とか力とか個性とか、そういうものを

否定はしません。それは神様から送られて来た贈り物

なんだから、それはそれでいいんです。だけれども、自分の

力でもってこれが出来たとかね、あの人の我を押さえつける

のに往生したとか、そう想っちゃうと後で苦しくなりますよ。

 皆同じ生命なんですね。だから、さっき言ったけども、

悪口言われて、やっぱりありがとうございます。足を踏まれて

ありがとうございます。と言えるところまで自分を精進させて

いく。出来る出来ないは問題じゃないんです。そういう風に

言える自分をいつか出して下さい。何生かかっても出して

下さい。その為に祈らせて下さい。そういう風に想うこと。

 そういう風に祈ること。それを目指すことね。それが我々の

領土を広くしてゆく。神の子の光を深くしてゆく。輝かして

いくということなんですね。皆に仕えるんですよ。皆に奉仕

するんです。

 我々の生命というものはね、我々だけのもんじゃない。皆の

もんですよ。世界人類の、人の為のもんでしょ。


 だから、どこでどんな風に私達は使われてゆくか分から

ないんです。使ってもらえるか分からないんです。それをね、

私はこういう風に生きたいんです。こういう風に叶えて下さい

と、そりゃあ幾分かありますよ。全部神様事で、神様の言う

まんまなんていったら、もう皆パニックになっちゃうからね。

 そこのところはちゃあんと守護霊さんだって守護神さん

だって、きっちりと分かってます。ちゃんとその辺は、採算が

とれてるんですね。


 だけど、決しておもい間違いをしてはいけないのは、我々の

生命というものは、神様から分かれて来ているけれども、

しかし、だからといって、高慢になって、我々は神様が付いて

いるから、何を言ったって業は消えるんだ、何をしたって我は

受けとってもらえるんだと思って、努力するということを

忘れたら、これはもうとてつもないことなんです。


 本心の座というものは、そういうもんじゃない。本心の座

というものは、そこも全部つき抜けて、空になって溶けてね、

解放されて、明るくなる、そういう座が本心の座ですね。

 それをやっぱり思わなければ。それを修行してゆくのが

この世の中の修行です。そこを目指してゆくのが祈りですね。

 さっきも言ったように、だから、祈りというのはね、何でも

放り込んでもいいんですよ。色々言ってもいいんですよ。

 あれが欲しいこれが欲しいと、色々言っても構わない。ただ

構わないけど、絶対に、神様がそれをどんな風に叶えるかと

いうのは、そこのところは任せてしまわないと。

 私達の想い描いたことからは、うんとかけ離れた答えが

返ってくる時がやっぱりあるんですね。


 その時に、どうしたら神様から離れないで、祈ってゆけるか

というのが、これが人間にとってはものすごい難題なんです。

 私と神様の祈りだけじゃあ、とてもじゃないけどやって

いけない。だから、世界平和の祈りがあって、神の子人間

というね、生長の家のああいうものをずっと噛み砕いて、

そうして、いい所だけを、透き通った所だけをとって、無理の

ないように、背伸びのないように、本質だけをとってね皆に

教えた。その平和の祈りがあるんですよ。


 だから、業だって我だってね、色んな人間が出していく

余分な想いだって、否定はしません。だけども、その色んな

我の上にあぐらをかいて、業の上にあぐらをかいて、弱いから

仕方がないんだじゃあやっぱりね、精進ということは出来

ないんです。釈迦が死ぬ時に、汝ら比丘よ精進せよと

言ったでしょ。我々は我々の本質を知って、その本心の座に

近づくように、光に近づくように、一瞬間でも長く光に

なる為に、我々自身の為にも、他の人たちの為にも、光に

なって動くことが出来るように、はたを楽にすることが

出来るように、働くということはそういうことですよね。

 愛をもってはたを楽にする。その為に祈るんです。その

為に光を望むんです。


 その事をおもい間違えしないで。決してへんな選民意識が

神の子じゃありません。

             (以下翌日に続く)







神の子について(前篇)

2010-09-27 10:52:37 | 癒し
 神様というもの、それから神の子というもの、これはもう

切り離せない。聖書やお経なんか読んでも、仏子とか神の子

とか書いてあって、何となく分かりにくいけれども、

くだいて言えば、皆平等に誰一人として違うということなく、

神様の子供なんだということですね。

 その神様の子供というのはどういうことかといいますと、

神様から流れてくる絶えることのない生き通しの生命という

ものを受けて、働く生命なんだということですね。


 神の子というものはね、皆が神の子になっちゃえば、

迷いがないんですよ。迷う必要がないんです。だけども迷い

ますね。世の中に生きてる以上はね。

 ただ何度も言うようだけれども、肉体を持ってる

我々自身を我々だと思ってしまうと、迷うんですよ。だから、

迷ったり悩んだり悲しんだり寂しくなったり、色んな事が

ありますよね。あるけれども、しかし、それが自分だと思う

心をちょっと横に置いて、本当の自分はどこだろうと訪ね

求める。

 それが祈るということなんですけれども、訪ね求めてずっと

旅をして行くと、そこに神様がいらして、そうして、神様に

愛されてる子供である自分というものがでてくる。

 そして、その喜びで一杯になり祈りで一杯になってる時に、

自分というものが消えて、光だけになって、そこにただある。

 あるいは、自分というものをなくして、無になって、一所

懸命何かやっている。そこに神様の生命が深く働いてゆく。

 その時、皆神の子なんです。


 みんな、どこどこの出身とか、何歳であるとか、経験が

どうであるとかいいますね。いいますけれども、そういう

ものは全然神様は頓着しない。みんな自分の流れから出てった

子供たちでしょ。みんな浄化をしてゆく役割を持ってる人

ですよね。皆そうです。そこを間違うと大変です。

 あの人は経験が浅いから、そんなことはとても出来ない

だろうとかね。誰が決めるんでしょうねえ、そういうことを。

 そんなことは決めちゃあいけないんですよ。流れという

ものがあるでしょ。気の流れというものがね。

 その気の流れというものはね、時に乱暴なことしますよ。

 この人にやらせときゃ間違いないというものをね、何を

まかり間違ったか、全然無神経な無責任なね、一見

そう見える人に任せて、もう会が滅茶苦茶になっちゃう

とかねえ、仕事が滅茶苦茶になっちゃったとか、ブツブツ

言うような事が出てきたりしますよ。本当はああいう人に

任せときゃとか思いますよ。


 ところが、そういう事を通して神様というのは、色んな

難しい人間の複雑な気持ちの有様だとか、それから人との

付き合い方とかね、いわゆる人生の苦労というものを味あわ

せる。この世に生きてる限りはやっぱりどこか皆人生苦労

しますでしょう。又、苦労しなきゃ駄目なんだよ。苦労

しないとねえやっぱり。

 すっといって良かった良かった目出度し目出度しだと、

何の深い喜びも湧いてこないということになりましてね。

 あるいは、色々悩みを持って来られたってね、その経験が

なかったら分からないということになりましてねえ。

 この何とかという本の中に五井先生がこう書いてますから、

それ読んで下さい、私は分かりませんなんてことになる。

 それじゃあ困るんですよ。確かにね、来られてどうしましょう

と言われた時に、それは五井先生と呼んで下さるのは

いいけどね、その人は五井先生よりも、あなた方の智恵を

借りたい。まず目の前にいる生きているあなた方のそういう

言葉を通して、何かすがりたい訳でしょ。

 ところがここに書いてありますって、もうオロオロ

しちゃって本持ってくる。持って来て下すって構いません。

 その本から光が出てるんだからそれでいいんだけど、

やっぱりあなた方の言葉で、あなた方の流れで、あなた方が

こうと思うことを自信をもって言うというところまで、自分を

高めていってはじめてね、言葉も生きるし、光も満ちてくる。


 それが出来なきゃ駄目なんです。講師とかね、それから、

お浄めをする人たちというのはね、我々ずれがというのは困る。

 その我々ずれを動かしてるのは神様なんですよね。我々ずれ

がと言っちゃうと、神様ずれがになっちゃう。神様をね、低くみる

ことになっちゃうんです。

 しかし、そうじゃない。やっぱり我々ずれの内容は未熟でも、

一所懸命やればね、そこへ神様の光がいく。そして、ああ、

あの人はあの先生は親身になって私のことを考えてくれた、

何だかこう生きる勇気が湧いてきたとか、あそこへ悩みを

置いてきてよかったとか。あとはお任せですよ。そこの

ところが皆もう一つ自信がもてない。


 私というものに把われたら、それはそうなりますよ。絶対に

そうなる。私はね、把われるものがなかったね。おもいは神様

だけでしょ。神様がいいようにして下さるんだから、この

世の中で皆が悪いと思うことでも、ああと思うようなことでも、

あっこれはと思ったら、やっぱりその通りにしましたよ。

 それは色んな相談が来るから、ああいやだなと思うこと

ありますよ。思うけどすっとそれが短く消える。何故かというと、

私がやるんじゃないと思うもの。いつも言うように、私は場所

だと思うのね。だから、五井昌久個人から智恵が出るんじゃ

ないんです。私は場所でカラッポになってて、そこへ空海さん

だの親鸞さんだの法然さんだのキリストだの、皆降りて

きて下さって、そこで私が、その人たちに智恵の言葉を

語るんですよね。私は語らせてもらってるんですよね。


 私は、天の私と地の私と合体した時にとよくいいました

けれど、本当の自分自身というものを見たら、これはもう安心

するより他しようがないんです。輝いてるから。

 皆輝いてますよ。輝いてますよといって皆にそれを見せて

あげたいけれども、まだそこまで時が来てなかったから。

 カラッポになってニコニコしてる五井先生というものを

通して、皆ここへゆけるんだな、ここを通して神様のみ許に

行けるんだな、そばに行けるんだな、一緒なんだなと

いうことを勉強してほしい。そう思いましたよね。

 みんな私が引き連れて引き受けて、自信がなかったら

出来ませんよ。神の子であるというそういう自信がなきゃあ、

そんなことは喋べれない。五井先生そんなこと言ったってと

思う。そういう想いも一杯受ける。だけども、私は間違いの

ない神様の愛というものを知ってしまってるから、その中に

いるから、それは皆が行ける場所だから、だから、自信を

もって、皆の中に神様の流れが入ってるんだよ、皆一人一人が

平等に神様の子供なんだよ、あなた方は光なんだよ、という

ことをずっと言ってきたし、今も言ってるし、これからも

言っていくんですけどね。


 でも、私がというのを消したら気持ちがいいんですよ。もう

大安心ですねえ。神様しか残らないでしょ。もう委ねちゃったら、

何と言ったらいいかしら、非常に生き生きしてくるのね。

 自分が疲れていても、別の体力がふっとちがう所から出て

くるんです。

 私がお浄めしますでしょ、してましたね。ああいうお浄めでも、

我とか業とかいっぱい来るんだから、肉体人間だったらとっくに

私は死んでますよね。あの時に私はそこにいないんですよ。

 あの時神様の心の中にすっと入っちゃってるから。だから、

私がやってるお浄めじゃないでしょ。神様の神界の流れの方から

流れてくる光ですよね。

           (以下翌日に続く)




言葉を超えた心

2010-09-26 12:14:49 | 癒し
 言葉で説明しつくせないことが、この世の中や、人間には

沢山あります。

 よく、あの人は論客だという言葉を耳にします。たしかに

雄弁な人の言葉は、ちょっときくと耳にさわやかなものです。


 しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた思想や哲学でも、

たとえば、人間やいのちというものを突きつめてゆくと、

どうしても答えが出てこなくなってしまうのです。


 なぜかと申しますと、これは、私達のいのちや、人間の存在

というものを科学的に説明しょうとするからであって、究極

まで参りますと、おのずから言葉にならない世界に突きあたる

のであります。


 そこで、ここからが宗教の領域ということになるので

ありますが、シュヴァイツァーが、生命への畏敬といったあの

言葉は、科学者として、また、一人の人間として、実に真理の

的を得た言葉だと思うのであります。

 
 人が、科学の究極まで人間というもの、いのちというものを、

それぞれの分野で追いつめたその時に、生れるものは、畏れを

もった沈黙でありますが、生命の畏敬という彼の言葉は、この

沈黙の前に、人間が発した尊い言葉であると思うのであります。


 ところで、ここまでのことではなくても、人間には、いわく

いいがたい思いというものがありまして、それは言葉では

表わせないということがいくらもあるのであります。

 目は口程に物をいうということは、我々が日常に経験して

いることであります。こういうときには、我々は、言葉よりも、

直接に、相手の心にじかに、自分の心をぶつけてゆくことに

なるのです。

 無言であっても、その無言であることが、百万言をついやす

よりも、その人の心をあらわしているということです。


 私ども、宗教にたずさわります者は、こうした心、言葉を

超えた人間の心というものに敏感でなければなりません。


 心というものを言葉でおおうことは出来ません。言葉を心で

おおうことを、むしろ、私達は心がけるべきであります。


 そして、自分の心と、人の心を大事にして、ともに祈りの

座につきながら、愛という人間の言葉を超えた神の心に、

すなおに溶け込んで参りましょう。

                   五井 昌久