夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

愛国心と愛郷心とは異なっている。 (依存と甘えは愛の一種であります)

2016年05月31日 22時21分31秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
依存と甘えは愛の一種であります。

自己防衛の自我が強くなると他を強く意識して依存性が強くなります。
依存性が強いと他に対して反応が敏感になります。
その依存が満たされないと激しく意識の混乱が生じます。
その依存の対象を排除しようとして意識が高揚します。
依存の対象(他を受け入れる)に対して協調性が減退します。
しかしその依存が満たされると意識が安定しますがその依存が益々強くなり
最後にその依存の対象を自身の自我の内に呑み込もうとしますが、
元々その依存の対象と自分自身の自我とは相容れないものを深い心では理解しており、
この事を内面の潜在意識が認識していて現在意識の表面の心である自我が苦しみます。
これは認識していない内面の心である潜在意識と認識している表面の心である現在意識との抑圧、葛藤であります。
やがて隠されている潜在意識と現われている現在意識との間に厚い障壁が出来あがり、
いわゆる二面性を持つ人格のようなものとなって表現されます。
この二面性は時々対象性、非対象性となって入れ替わって表出します。
これは動物などには顕われることはなく人間特有の心の現象であります。
このような心は普段の健全な人間にも内在していて、これが強く作用すると普段の生活にも支障を来たすことになります。
このような悩ましい輻輳(ふくそう)している心を癒すには、心の奥底に内在する抑圧している心を浄める必要があります。
それには深い知らない心を認識させて導く精神分析、カウンセリング等と現在では様々な方法がありますが、
根本的には他に暗示を受けることなく、自分自身が理解して自らが癒すことが必要であります。
これを仏教では悟る(覚る)という言葉で表現しています。
『覚る』という言葉には既に『悟る』ことへの解答が心の中に存在しているということを暗示しています。
親鸞上人が小さな善行である雑行雑修をはなれ、唯ひたすらに阿弥陀仏に回向せと言ったことであり、
イエスキリストが第一の戒めは精神をつくし、心をつくし、力をつくして神を愛せよと言ったことであります。
神も阿弥陀仏も既にすべての人々、一切の衆生(有情、非情有りとしあらゆるもの)の中(うち)存在しているのであります。

人間は神の子であり、佛の子であり、素晴らしい無限の愛と無限の喜びに満ちた存在であります

このことを自覚するのが『覚り』であります。





愛国心と愛郷心とは異なっている。

愛国心と愛郷心とは、一つに重なり合っていることもあるけれども、それは本来異なるものであるのである。
自分が生まれ郷土が好きでなつかしく、その風景には無限の執着を感じるーこれは愛郷心である。
しかし単なる愛郷心の中には壮麗で偉大なるもの、権威をもち、理想をもつ無形の力を指す『国家』というアイデアがないのである。
愛郷心は、むしろ感覚的なもの、眼に見え、耳できき、手で触れる種類のものである。
それは『祖国』そのものではなく、祖国の中に含まれている色々の現象に対する愛である。
現象は祖国そのものではないのである。
しかしそれは祖国の中に含まれていて、祖国のいのちが産み出して来たいろいろのものであるから、
そういう『郷土愛』をわれわれは時々『祖国愛』と混同するのである。










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