夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

先祖供養不思議な体験② 肉体は死んでも、人間は個性的人格として存続するのである。

2015年10月13日 20時14分22秒 | 真理の言葉
ある座談会で横に座っている人の手が僅かに霊動しているので、貴方には奥様が居られますか、そして娘さんもですかと尋ねますと、
いいえ、居ませんと答えられました。そうですかと言わないうちに、随分昔に離婚しましたが、事情があり、いまだに戸籍の上では夫婦ですと答えられました。奥様に大変な事情がありそうですが、奥様は現在ご健在ですかと尋ねましたら、分かれた妻には色々な事情があり悩みがありましたが、妻と娘の安否は解りませんと答えられました。その奥様と娘さんは貴方を頼っておられ今此処に来ておられますとお答えしました。すると大変驚かれた様子でどうしてそのような事が解るのですかと言われました。






肉体は死んでも、人間は個性的人格として存続するのである。

肉体は死んでも、人間は個性的人格として存続するのである。・・・・人間の魂には人格があり個性があるのである。
肉体が死んでも、人間は個性をもち人格を備えた実体として霊界に移行するのである。人間そのもには死はないのである。地球という天体に降りて来て、或る仕事をする期間だけ着ているところの宇宙服の一種が肉体であるのである。
地球生活は、魂の向上のための学校のようなものである。
一定期間地上で色々のことを修行し、勉強し、その環境条件の下に於いては、それ以上、その魂が吸収すべき勉学の要素がなくなれば、他の上級学校へ入学するために、今までの環境条件の学校から卒業して去るのである。
それを仮に吾々は『死』と呼ぶのである・・・・・端的に謂えば『死は無い』のである。
・・・・これを仏教では三途の川の手前の脱衣婆というのがいて着物を脱がせるというような喩えをもって説かれているのである。吾々の霊魂の肉体は物質的な衣服のほかに、エーテル体という半物資的エクプラズムの体をもっているが、
これには色々な過去の習慣なども印象されている。新しい魂の学校に入学するためにはそのような習慣の体も脱がせられなければならないのである。人生を支配する先祖供養









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