夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

優しい、慈しみの月明かり

2015年12月25日 22時59分15秒 | 自然の育み・環境
優しい、慈しみの月明かり

二〇一五年一二月二十五日金曜日午後六時三十分、東の空に輝く満月、三十八年前の一二月二十五日のクリスマスの夜が今夜のような満月だったそうです。
買物を終え、明るさが微妙に違うのでふと見上げると厚い雲の合い間に煌々と大きな真ん丸い月が光輝いていました。
街での『月明かり』は、街全体が人工的な電灯により輝いているので明るいとさほど感じませんが、
街の人工的な光がない山里などの『月明かり』は懐中電灯が要らないほど明るいので、ありがたい事です。
古人は闇夜の中での自然な月明かりは有り難いと深く感じていたのではないでしょうか。
人々は月とは月暦、汐の干満等身近な生活に深く関わり、ある意味で生活の糧であり縁の深いもので有りました。
現代は昔ほど月に神秘性を感じることはなくなり、科学的、頭脳的な智覚で月を見つめるようになりました。
病院の産科でも不思議にも満ち潮時に出産が集中するようであります。
月は不思議な力を持っているようであります。
人類、自然環境は変化し続けていますが、月は千年の前も今も変わらずに人類を照らし、新鮮な息吹と慈しみを降りそそぎ、優しく導いているようであります。
月を頭脳明晰な知性的な心で感じることでは無しに、情感的、直感的に、月光菩薩、月愛三昧、月光摩尼の仏心を『清い心の湖面』に映し、その月の慈愛に満ちた清涼感を観じて、優しさ、慈しみを懐き人類の苦厄を除き、一切の病を癒し、世界の平和を祈ることが必要な時代であります。 

月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ。
                                                       法然上人

『注』
月光菩薩―・・・月の光のような優しい慈しみの心で苦しみを除く。
月愛三昧―・・・釈尊が阿闍王の身心の苦悩を除くために入った三昧。
          月光が人を慰めて熱悩を除くように、王の苦しみを除去したという如来大悲の三昧。
月光摩尼―・・・その光が月の光のように輝く宝珠をいう。熱毒に病む者が、この珠に触れるならば、清涼を得るという。
          千手観音の右手に持っている物の一つ。





闇の夜は 苦しきものを、いつしかと、我が待つ月も、早も照らぬか 
                                                   万葉集 作者不明

雨晴れて 清く照りたる、この月夜 またさらにして、雲なたなびき 
                                                   万葉集 大伴家持

久方の 月夜を清み、梅の花 心開けて 我思へる君 
                                                   万葉集 紀小鹿女郎

ぬばたまの 夜渡る月の さやけくは、よく見てましを 君が姿を
                                                   万葉集 作者 不明






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