夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

目に見えないもの 二 ・・・・・物質の奥に神、仏の生命が輝いている。

2015年12月30日 12時42分04秒 | 真理の言葉
目に見えないもの 二 ・・・・・物質の奥に神、仏の生命が輝いている。
 
輝かしい新しい年がもう目の間に迫っています。
子供達も帰省が始まっています。まだ皆、帰省していませんが
昨晩は東京の次男より今揃っている家族に食事を誘われました。
孫たちは明日はハウステンボスへの気持で胸いっぱいのようです。


物質は無い・・・物質の極微の世界

石、鉄板の壁は物理的な力で粉砕しない限り通過出来ません。
物質でも分析、分解して極微の世界へと突き進むと波動(無)のみの世界が顕れます。
例えば薄いビーニル袋(0.001m)に水を入れると底から水は通過しません。
しかしエチレンオキシドガスは通過してガスが漏れ出でます。
物質の面を肉眼で見ると何も通さない面のように見えますが実際は極微の世界(原子、電子、中性子等)では無数の大きな隙間があります。
それを更に突き進むと光の波動のような無の世界が広がります。
縦、横、厚みの三次元の世界は物質を通過することは出来ませんが、それを超えた四次元の世界では、縦、横、厚みの壁を通過する事が出来ます。
例えば四次元の世界に存在している幽体、霊体(幽霊等)が鉄筋の壁を砕かずに通過し移動が出来ることと同じことです。




非風非幡
六祖、因(ちな)みに風、刹幡(せつぱん)を颺(あ)ぐ。二僧あり對論す、一りは云く幡動くと、
一りは云く幡風動くと。往復して曾(か)て未だ理に契(か)はず、
祖云く、是れ幡の風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くなり。二僧悚然(しょうぜん)たり。
無門曰く、
是れ風動くにあらず、是れ幡動くにあらず、是れ心動くにあらず、甚(なん)の處にか祖師を見ん。
若し者裏に向かって見得して親切ならば、方に知らん二僧 は鉄を買って金を得、
祖師は忍俊不禁(にんしゅんふきん)、一場の漏逗(ろうとう)なることを。


『注』
悚然(しょうぜん)―・・・しょんぼりと
刹幡(せつぱん)― ・・・寺に説法があるとき、これを広くしらせるための幡。
忍俊不禁(にんしゅんふきん)―・・・心をおさえることが出来ないこと。
漏逗(ろうとう)―・・・役にたたないこともらすこと。

            『無門関』第二十九則

無門はこれを批評して
『是れ風動くあらず、是れ幡動くあらず、是れ心動くあらず』と
祖師即ち六祖慧能の云った『心が動く』をも否定して了(しま)つたのである。これでは祖師の面目丸つぶれである。
祖師は慈悲の心禁(おさえ)へ切れずして一寸口をすべらかして『心が動く』なんて詰まらないこともらしたものである。

          『無門関』第二十九則




時間と空間と心と物質とは互いに対立せるものではなくして、
一つの無時間の還り、一つの無空間に還り、一つの無物質に還り、一つの無心に還り、
そこに生命の実相(本当のすがた)があり、それに於いてすべて一つのものである。
心が動く非ず『心』以前なるもの、本体一なるものが動いているのである。
萬法ただ神のすがた、萬物ただ仏のすがた、有情非情同時成道である。
すべてが神によって統一せられているが故に、観る心と観られる物とが別々に成らず、
吾らは風幡の動くを、動くとして知り得るのである。


幡をただの物質の幡として捉えると真実が見えない。
幡の奥に神、仏の本体が動いているのである。
物質は肉眼では有るように見えていながら実際は無いのです。
物質が無いからといって粗末にしてならないのです。物質とみえているものは本当は物質ではない、神の生命、仏の慈悲があらわれているのであるから
大切にして拝み感謝して使わなければならないのである。





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