夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

食の喜び

2012年03月07日 21時57分21秒 | 日本の食文化

食事の時、幼子が口を大きく開き、喜びを表現している姿をみていますと、

その心を一心にして母を見つめ、微笑み信頼し、

求める者と与える母と一体となり不安、恐れ、穢れも無い、

其のままの常住坐臥の法性、真如、菩提の生活が今此処に観られ、

極楽世界が今此処に存在することを新ためて感じました。


大海のように広大で深い功徳

2012年03月04日 14時08分50秒 | 日本の食文化

道元禅師が食事を調える人は、功徳が大きいことを『典座教訓』で説かれています

(典座の心の用いかた)

お米をといだり、おかずを調えたりすることは、典座が自信で手を下し、よくよく注意し細やかな点まで気を配り、心をこめて行い、一瞬といえども、おろそかにしたり、なげやりにして、一つのことはよく注意し気をつけるが、他の一つのことには注意をおこたったりすることがあっては成らない。

典座の職責全うすることは、大海のように広大で深い功徳を積むことであり、この大海も一滴一滴が集まってできているのであるから、ほんのわずかのことでも他人にまかせてはならないし、また山のように高い善根を積み重ねることにおいても、大山はひとつまみほどの土が積もり積もって成ったものに外ならなのであるから、高い山のひとつまみの土ほどの小さなことでも、自分で積み重ねなければいけないのではないか。

『禅苑清規』に「苦い、酸い、甘い、辛い、塩からい、淡いの六つの味がほどよく調っておらず、また軽輭(あっさりとして柔らかである)、浄潔(きれいでけがれがない)、如法作(法にかなった調理がなされている)という、料理の三徳がそなわっていないのでは典座が修行僧達に食事を供養したことにはならない」と言っている。

まず米をとごうとしたなら、そこに砂が混じっていないかどうかよく見、さらに砂を捨てようとしたなら、そこに米が混じっていないかどうかよく気をつけ、このように念をいれてよくよく注意し、気を緩めることがなかったなら、自ずと三徳は十分行き届き、六味もすべてととのい備わってくるであろう。

道元禅師 典座教訓より

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ひな祭り

2012年02月27日 23時45分42秒 | 日本の食文化

あかりをつけましょう ぼんぼりに
   お花をあげましょう 桃の花
   五人ばやしの 笛太鼓
   今日はたのしい ひな祭り

迎えの車の中、3歳の女の子も5歳の男の子も仲よくひな祭りの歌声が響き

愛らしいさわやかな

邪気の無い世界に惹きこまれました。


大根さんの喜び

2011年11月19日 22時38分42秒 | 日本の食文化

奥様から買物の時、その美しい透きとおるようなスベスベした白い肌、青々とした葉を携えた大きい大根を持たされますが、その大根さんの喜びを思うとき、大根は漢方でも大事にされ、最近は特に色々な食材の栄養素などの分析が進み色々な条件 を付けて食べていますが、

<例えば緑黄食のカロチンは何々に栄養があるとか> 

本来の大根さんの喜びはその美しい透きとおるようなスベスベした白い肌、青々とした葉を大切にし、調味料等は最低限に使用し、体に良いとか等の条件を付けずに其のままに、素直に大根さんの素性、色を失はずに、その出会いを大切にして食する事が大根さんの喜びではないかと思え、自然もこの大根さんの喜びと同じでないかと思えます。


一品の芸術

2011年04月07日 22時23分59秒 | 日本の食文化

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日本の料理には、ひとつの器に盛り合わせる約束事に、季節の予感と旬の味わいを感じさせる山で採れたもの、里で採れたもの、海で捕れたものの三品を、三海の珍味として一つの器に出会わせることと聞いております。

また彩りも原色をさけ日本的な淡い中間色を重んじ、一つの真実性を大事にする為、同じ色、同じ食材を避け、

長年の蓄積で得られた食材と食材との相性を大切にして、

盛り付ける時にも、書道の一筆で書き上げるように、平面的でなく立て、横、厚みのある高低差のある4次元的な風合いを感じさせ、

今一瞬の、ひとつの出会いに永遠を感じられるように、

真な箸で器の絵柄を意識し一気に盛り付け、後は二度といじらない事が肝要だと聞いております。


江戸前 生(き)そばを考える

2011年02月25日 23時20分43秒 | 日本の食文化

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江戸時代にそば切りと云はれる新しい食文化が根付き、現代まで発展を続け沢山の人々に愛されていますが、そのそば切りについて私なりの思いを述べて見たいと思います。

皆様ご存知のとおりそば切りには、更科系と藪系との流れがございます

更科系は蕎麦の実の中心にある真白な部分を製粉し、藪系は殻も実も一緒に製粉したものです。

いわゆる田舎そばと云われるのはこの藪系に近いものです。

更科系の粉は一粒の実から少量の粉しか取れません又香りもほのかな香りで、ざる、もりなどの付け汁が美味しく頂けます。

藪系は香りが強く温かい汁と相性がよいです。

製麺の方法も江戸っ子の粋が感じられように山芋、アク、鶏卵等など使用せず、純粋な自然な水だけで素早く練り上げ、いわゆる寝かせたり、醗酵させずにそば切りしたら、短時間で茹で上げ、付け汁もあまり付けずに薫りを大切にして素早く戴きます。

このように西洋のスパゲッテイ、ラーメン、うどんと違い醗酵を待たず一切の濁りの無い純粋性を重んじた製麺の方法です。

舌で味を感じるより薫り、色、雰囲気を大切にした日本の精神性が伺えます。


忌火屋殿

2011年02月19日 21時00分31秒 | 日本の食文化

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今日”神々の饗”の著書を読み、伊勢神宮では神への神饌は忌火屋殿で忌火を使い忌火箸を使い調理されるそうです。

まさに清浄な場所で清浄な道具を使い調理されることを知り、「神火清明」 「神水清明」 「神風清明」 の真言がありますように日本の本質である清浄ということ大切にしてきた尊い文化がある事に気付かされました。


新年あけまして゜*。★おめでとうございます★。*゜

2010年01月02日 11時02分08秒 | 日本の食文化

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今年も次女の嫁ぎ先の実家より磯の香りただよう新鮮な魚を頂き調理して家族と喜んで膳を囲み頂きました。 ふと宮中の“菱はなびら餅”の事が思い出され女性を表わしたピンク色の柔らかい菱形の餅の中心に男根を表わした固い牛蒡を尽きさした素朴な新年の一品であります。日本が古来より瑞穂の国といわれ稲作を中心として歩んできた歴史があり、食生活も米を中心として成り立ってきました。“菱花びら餅“のなかにも水と火を用いて立ち昇る蒸気によって蒸されたものを何度も槌固められ一つの大きな餅となり、それを再び千切り丸めたものを、みんなと分かち合い仲良く食し合うなかに、男性も女性も共に団結して繁栄と平和の道へとの、祈りを込めた思いが伺えます。陛下も元旦より自らお一人で”四方拝“をなされ生きとし生けるもの有りとしあらゆるもの全てのものに祈りを捧げられ国民及び全世界の人々の幸福と平安を祈られます。菱花びら餅も宮中の新年の供物として神に捧げられ、神とともに食され新たな年をお祝いなされます。

日本の食事の精神性を考える

2009年12月13日 15時57分14秒 | 日本の食文化
よく懐石料理の原点は精進料理からだと言われていますが、私どもの幼い時分は台所(キッチン)と食事を頂く所とは明らかに隔てられた別々の場所でありました。
料理する場所は大地と接する同じ高さの土間であり、そこで井戸水か近くの湧き水を使い野菜を洗い竈門神が祀ってある竈門で杉の葉、木切れなどで火を起し調理していました。
食事を頂く所は一段上の囲炉裏端か座敷でした。明らかに調理する場所と同じフロアーでは食事する事はありませんでした。
私たち食事する人は料理がどのような過程をへて出来上がったかを知らないで、厳粛な雰囲気で緊張してその食事を頂きました。今その事を考えますと食事を頂く私たちは調理する人を無意識に信頼し食べていた事を感じ、其処にただ単に食欲を満たすだけでなく人と人の間の絆を築いていた事だと思われます。
動物の世界では狩りが終わると直ちに口と手足を使い調理し胃袋に納める行為が殆どと思われます。
即ち調理と食事とは同じ場所でありまた調理から食事までの時間と空間が同じであります。人類は調理から食事までの時間と空間が別々であり胃袋に納めるまでに食材そのものを創意工夫して時間をかけます。
頂くときにも、それぞれの国々で約束事があります。日本の懐石料理も茶料理により色々な作法、約束事がありますが、懐石膳も一つの膳を多くの人が囲むことではなく、ひとりひとり別々であり、また同じ料理であり平等であります。
その事は現在意識では慈しみを意識し、自分自身の内面で他(愛)を意識し、自分自身の内面で感じた心根(愛)を相手方に表現し、出会った人々と互いに信頼関係を築く事だと思われます。
料理の技術も自然色を生かし、為るべくエネルギーを消費せず無駄なく、また料理の温度は人肌であり、過激な味覚、表現は避け、一期一会の言葉がありますようにこの一瞬の”人(芸術)と食材(自然)”との出会いを永遠と考え、一点の料理に全てを託し、その意味からも同じ料理、同じ色を使用しない、調味料も控えめに使用するように考えられています。
また木の葉の葉脈が一枚一枚違うように唇などの五感の味覚だけで味わうよりも,その食材一つ一つの自然の風景を大切にし心の奥深いところで観じられるように表現されています。
このように食事を通じて自然を敬い、自然と人との調和を意識して、永遠の生命を感じていくことが日本の食事の原点だと思われます。