13. 母、上京― 学生寮の寮母に
ある日のこと。信子は東京・池袋の教会で「寮母さん募集」の貼り紙をみつける。
募集していたのは「東アジア学生寮」という施設。戦争中、日本の兵隊が東南アジアへ赴いたため、混血児が多く生まれた。
戦後、この教会の加藤という牧師が東南アジアを巡った際、「この混血児たちを 日本で勉強させたい」という思いがつのり、教会のなかに 学生寮を開いたのである。
その「寮母さん募集」を見て、信子は母に提案してみた。母もすぐに承諾した。
「門司で苦労するより、こういうところで働くほうがいいと母も思ったんでしょう。料理上手な人ですし」
母は門司の家を姉夫婦に譲り、上京する。昭和42年、母・春子64歳のときであった。
「当時東京に出ていたのは私だけ。姉夫婦は門司、妹夫婦は小倉ですね。弟は九大(九州大学)を出てから新日鉄(旧・八幡製鉄)で働いていたので北九州。研究で東京の方にも来てましたけどね」
このときから 母の東京生活を信子が近くで見守ることになる。
母は学生寮に住み込み、三度三度の食事をつくった。
空き時間には学生たちに日本語を教えたりも。
「東南アジア学生寮」 といってもスウェーデン人やアメリカ人、中国人・・・と幅広い国の学生がいた。食事づくりは助手がついていたこともあったが、献立はすべて母が考えていた。
***
寮母時代の母・春子を知る人がご存命だったので、お話をうかがった。
林玲(はやし・れい)さん。昭和10年生まれ、山形県のご出身。上京直後は東京で知り合いも少なく、この池袋教会が心の拠りどころだったという。
当時、小学校教諭だった林さんは子育ての真っ最中。教会内のすみれ幼稚園に娘を通わせていた。
学生寮と幼稚園は棟つづき。春子とは毎日顔を合わせ、時おり娘の面倒をみてもらっていた。
そのうちに2人の距離は縮まり、春子は寮生のことで林さんに悩みを相談するようになる。
というのも、戦争遺児は殆どが1人親(たとえば母親がフィリピン在住など)で、なかには手を焼く問題児もいたのだ。
当時、寮母としての春子については、「とにかく指導力がすごかった」と元教師でもある林さんは語る。
「みんなを公平に、という基本的な姿勢ができていると思いました。ダメなことはダメ、とはっきりしているけれど、やさしかった。見ていて決して無理はしていない。楽しそうっていうか、余裕があるように感じました」
当時30代だった林さん。60代で自立して働く春子の生き方は女性として目標になったという。
春子のほうも 林さんに対してはよほど気を許していたのだろう。ぽつぽつと昔話を切り出すこともあったという。
「やっぱり人間は苦労しないとダメね」 (林さん 談)
(インタビュー当時) 80を目前にした林さんの心に、今なお鮮烈な印象を残す母・春子。その人間力は数々の試練を乗り越えてこそ 身についたものであろう。

東アジア学生寮で厨房に立つ母・春子 (上の写真は学生の1人と)。
学生たちにとっては ”日本のおかあさん”のような存在だったにちがいない。
14. 母の書道教室
学生寮の寮母として数年働いた頃、母・春子は体調を崩した。
さすがに70を前にして寮母の仕事はきついだろうと心配した信子が、「そろそろ潮時だから、やめたら?」とすすめ、母もそれに応じた。
当時練馬区の大泉学園に住んでいた信子は 母のために一部屋用意し、母を迎え入れた。
「お母さん、書道の資格取って、うちで書道教室やったら?」
台北の静修女学校時代、小宮先生に見込まれ、「君は書道を勉強して 将来は書家になりなさい」 と言われた母である。
東アジア学生寮の寮母時代も忙しい合間を縫って 細々と書道を続け、学生たちに教えたりもしていた。
母はすぐに資格をとり、信子の家の一部屋を利用して書道教室を始めた。
すると、思いがけなく生徒がわんさか集まってくる。
「母が 『この部屋狭いから』 と近くにアパートを2軒分借りて。1つは自分の家にして、もう片方をお教室にして始めたら じきに100名くらい来るようになって。初めは不安だったんですけど十分独立できるようになって。10年近くそこで教えてました」
晴れて書道教師として独立― 母は齢70になっていた。

書道教室の前で腰かける 母・春子。
「東大泉書道教室 指導 竹中秋・・・」とある。雅号に亡き夫・秋三の「秋」の字をつけたと思われる。
15. 理想の夫婦像― 光子のはなし
三女の光子は大学卒業後、附属中学の英語教師として小倉に残った。
そこで同僚の数学教師、西村文隆(ふみたか)氏と出会う。
2人は息が合い、すぐに結婚しようという話になったが。結婚前に光子の心臓の疾患が判明、医師からは「結婚はやめたほうがいい。出産が危険ですから」 と言われる。
光子はあきらめようとしたが、西村氏はどうしても結婚したかった。
そこで、
「もし結婚したら、僕が布団の上げおろしから料理まで 全部引き受けます」
と宣言。
これを約束したうえで、結婚した。
絶対に危険だと止められていた出産も 覚悟を決めて命がけで産んだ。
「その子がとってもいい子でね。こんなこと言ってました、
『日曜とか散歩に出るときに、私が危ない道でちょろちょろ前や後ろで歩いているのにね。お父さんとお母さんは必ず2人で手を握ってね、手をつないで歩いてるのよ』。
ほんとに2人は仲良かったですね。その1人娘もいい人生送ってますよ。子どもにも恵まれてね。妹の性格がよかったから、あんないい子が生まれたんだと思います」
この上なく幸せな夫婦だが、光子は嫁としての苦労を味わった。
お姑さんにいじめられたのだ。
実はお姑さんが気に入った人を嫁に迎えるつもりが、息子が光子を連れてきた。その嫁ときたら心臓が悪いうえに 英語教師の仕事を熱心に続けていたもんだから、何かにつけて気に入らなかったのだろう。
「私が思うに、妹みたいに性格もいいし素敵な女性なのに、何が不満なんだろうなーと」
それでも2人は幸せな夫婦だった。人生観、価値観ともに共通の何かがあったのだろう。
「もし次の世があったらね。どんな草むらをかき分けても私たちは探し当ててもう1回、一緒になろうって約束してるのよ」― 信子は妹からこんなことを聞かされていた。
「(つらい時に) 色々かばってくれたんでしょうね、ふみたかさんが。それにふみたかさんは料理好きなんですよ」
伴侶のサポートを得て、妹は教師として精一杯やっていた。学校以外にも週2回、同和部落に英語を教えに行ったりもしていた。
光子は同僚と結婚したということで、附属中学から普通中学へと転任する。そこでは「中学生のための英作文コンクール」に出場する生徒たちを指導し、毎年のように九州代表として全国大会へ送り込んだ。
「妹はどこの学校へ行っても九州代表として連れていくんですよ、教え子を。なにか特別なことやるの?って聞いたら。まず日本文で作文を書かせる。その作文で一番訴えるものがあるものを書いた人をコンクールに出すため、英語の特訓をする。発音とか直してね。それで代表になるんですって」
光子はコンクールの全国大会のときには引率の教師として上京、信子の家に泊まっていた。
共働きで忙しい生活のなか、姉との再会は何より心の安らぎだったのではないか。
「妹はとっても親孝行でしたからね。毎日母に手紙を書いてました。絵がうまいもんですからね、ちゃっちゃっちゃーと自分の似顔絵を描いたりね。ある時は庭で咲いた花の写真を貼ったりね」
光子はいつもハンドバッグに葉書をしのばせていた。「10分ほどありますから、お手紙します」 とまめに近況をしたためるなど、常に母を気遣っていた。
葉書が届くたび、母のところにいるお習字のお弟子さんたちが「先生、手紙ですよ。字がとっても上手ですね」 と手紙を母に手渡した。
蘇澳の小学校時代、「ここのきょうだいは下へ行くほど字が上手だな!」と校長先生が生徒の前で言ったのが思い出される。
母はいつも満足そうに光子の手紙を受けとった。母に似て、光子は手先が器用だった。
「私は器用じゃないんです。光子からはよくテーブルクロスとか編んだの貰いましたよ」
その後、光子はリューマチがひどくなってからも「手を麻痺させないように」とせっせと編み物をしていた。
寸分の時間を惜しまず働いてきた光子の身に、このあと次々と病がおそいかかる。
16. 公園の家
信子の自宅近くにアパートを借りてスタートさせた“母の書道教室”は大盛況だった。
だが、数年もしないうちに―。
「アパートの契約更新のときに、母は 『もう 貸せません』って言われたんです。やっぱり80歳くらいの高齢で ひとり暮らしっていうと、みんな嫌がるんです」
「じゃあ一緒にさがしましょう」 と 大泉学園あたりの物件を母と一緒にさがし始めた。
信子が同伴するので不動産屋は 「親子で借りる」 と思いこんでしまう。話しているうちに 母ひとりだとわかると、「申し訳ないけど、年とった人のひとり暮らしはお貸ししないんです」 と断られる。
「その母の落胆する顔をみて・・・なんかとっても くやしくってね。『母に家、買ったげよう』 と思ったんです」
ある日、信子は母と家を見に行った。そこは庭のない家だった。「ここどう?」 と聞くと母は首をかしげるので、気に入らないとわかった。
が、そのすぐ近くに 倒れかかったような ”空家” がある。
「あれ、なんだろう? と思って見に行くと・・・なんと 周りがぜんぶ公園なんですよ。この環境はすごい! と私が憧れちゃって」
正確にいうと、西と北の二方が公園に囲まれた公園隣接地だった。母にたずねると、あんまり家が古くてひどいので「そうね~」と反応はそれほど芳しくなかったが。
信子は直感で「この家、ほしい」と思った。
すぐに持ち主を探したが、近所に聞いてもどこへ引っ越したかわからないという。それからずっと家のチラシ(広告)を気にして見ていたら。
1年後くらいに「あの家じゃないかしら?」というチラシを見つける。
「もう小躍りするような気持ちですぐに見に行って。買い叩けばもっと安くなったかもしれないけど、こっちは狙ってたその家が手に入ると思って」
チラシを見つけるまでの間、信子は母のアパートに寄るときもわざわざ回り道をして、その家が「まだ売れていないな」と確認していた。それほど欲しかった家なのだ。
環境はいいし、書道教室の生徒さんが自転車をとめる場所もまったく心配ない。何よりも立地。今のアパートから離れていないから、生徒さんたちにも引き続き来てもらえる、と思ったのだ。
「母にね、『この家、買いたいと思うんだけど、修繕すればいいでしょ?』と言って。母も修繕費出して。家の代金は妹と折半して買ったんです。屋根を葺き直し、柱を整え、畳を入れ替えたりしたら・・・ こじんまりとした結構ちゃんとした家になりました」
なにより、窓からは公園が見える。母はこの家で書道教室を再スタートし、晩年を過ごすことになる。

新居(= 公園の家)に隣接した公園でたたずむ母・春子。
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