「気」は粒子とか元素とかそんなものではないのではないのか。物体ではないとしたらナニカ。それが問題だ。
「気」というものがあるのかどうか、そんなことは知らない。しかし、脳がそういうものを感じるのかもしれないとは思った。今朝のことである。いつもどおりのウオーキングをやっていたらふと思いついた。
九十九里浜の田んぼ道で太極拳の動画(スマホにMP4で仕込んである)を見ながら、真似していた。変なジジイである。朝早いから、通りかかる人はほとんどいない。それに人口も少ないから、朝も早くから太極拳をやっている人もいない。で、太極拳で先生方が言われる「気」というものを考えていたのである。
病気だって「気」という字を使っているではないか。今の時代、胃潰瘍というのもあまり聞かなくなった。胃潰瘍もストレスとかを脳が感じるからなるのではないのか。医者の先生から怒られるかもしれないけど。
つまり物体としての「気」というものは、おそらく存在していないのだろうということである。波動とかというものとも違う。もっとも波動なんて言い始めると怪しげな宗教になってしまう。
むしろ自分の脳がそういうものを考え、感じるのであると思う。だから、「気」が大事なのだということなのだろう。だろうと言うのは、まだまだ学習途上でなんにもわかっていないからである。
柔道も然り。これもまた西洋体育学の知識で分析しようとするから、スポーツに堕してしまう。技は、なにもマニュアルどおりやっていれば良いのではない。マニュアルどおりやっていれば誰でも技がかかるってか?
そんなことはない。
技は脳が命じるのである。
今、ここで技をかければ良いという命令が一瞬のうちに脳から出てくるのである。無意識でかける場合もあるだろう。無意識レベルでかけることができるようでないと、かかるわけもないが。
うううううううううううううううむ。
そういうことに気がついていたら、もっと柔道の段位も向上していたのかもしれない。
もう遅いけど。
しかし、太極拳というものを教えていただいて感謝している。
師匠を持てたことで、謙虚な気持ちになることができた。しかもその師匠は太極拳メンバーの全員である。どなたが大師匠で、あちらの方が副師匠かなんてぇことは関係ない。知らないからだ。知る必要もない。
ボキはただひたすら教えていただいていれば良いだけである。生徒になったのである。しかも、大きな喜びがあるではないか。
コミニュケーションも拡大してきた。
いろんな方々との交流を経験させていただいている。これが一番ありがたい。人生後半の楽しみにしたい。適性はないだろうけど、なんとかついていきたい。しつこく。
もっともしつこいのは元々であるが。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ