たとえ正体があったとしても、正体なんて流れてゆく温泉のお湯のようなもんだなぁ(^0^)
先日の太極拳懇親会で言われたことがある。「正体を言いたくないのか?」ということであった。ある先輩からである。仕事はなにをやっていたのかということだった。言わなかったからである。最後まで。どんな宴会に出ても、ボキはその手のことを言わないことにしている。理由は特にない。言っても仕方ないからだ。
そして考えた。
正体ってなにか?ということである。
なにがボキの正体なのだろうかと思ってしまったからである。
昔やっていた仕事のことを言うのが正体なんだろうか。否、現在やっていることを指しているのだろうか。
ボキはどちらかというと、現在やっている4種類の副業のことを指していると思っている。それじゃあアカンということなのだろうか。
結論から言って、定年前の仕事のことなんか絶体言いたく無い。だって、もう関係ないではないか。仕事の人間関係だけが、人生のすべてとはまったく思っていないからだ。そういう意味では、信用していないことになる。親族もそうである。姻族はもっと関係が薄い。ある意味割り切っているのだ。
つまり、縛られたくない。固定化された人間関係なんて、なんの意味もない。所詮、滅び去っていくだけではないか。死んだらオシメェなんである。一人で生まれて一人で死んでいくだけであるからだ。
したがって、ゼニも遺していくつもりもない。あ、もっとも最初からゼニはナカッタか。カミの毛もないしねぇ。最初はあったのだが。カミの毛。
わははっはははっはははっはははっははははははっはははは。
思い出だけを積み重ねていきたい。
旅の思い出である。
浮浪の旅である。
行き先もよく分かっていない旅が好きだ。綿密に計画を立てて、それこそ分単位で動いている御仁を知っているが、そんなの草臥れるだけだ。
北の方に行って見るかというだいたいの方向を決めて、フラフラとデカケルのが一番である。放浪の旅がいい。だって、人生だって決めたとおりの方向を保っているとは言えないではないか。
旅に出ると、特に旅館で正体をバラさなくても良いから気楽である。和風の旅館が好きである。オカミさんと世間話をしながら、美味い料理を食べて、温泉を楽しむ。風呂でも話をすることもある。良いお湯ですねぇとか言って楽しむ。まさに薄い人間関係である。お湯とともに、流れていってしまうだけの人間関係である。
それが良いのである。
たとえ正体があったとしても、正体なんて流れてゆく温泉のお湯のようなもんである(^0^)。
さ、これくらいにしよう。あまり根を詰めて打鍵していると目に悪い。白内障になっちまったジジイだからだ。無理は禁物。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ