と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ああああああああああ玉砕に花開くである。選挙が終わって・・・。

2017年10月24日 13時59分00秒 | とーま君の流儀2017

選挙も終わった。玉砕した方々も多かったに違いない。しかし、玉砕しても花は咲く。季節が到来したら、必ず咲くのである。

 


 

玉砕して砕け散った方もいる。

高給取りの国会議員になってみたかった方も多かったであろう。

でも、勝負は時の運である。

ダメだった方には、また起き上がることもあるんだろうから、めげないで頑張っていただきたいと思った。

思ったが、これはボキも一緒である。ボキもまた、いろんな玉砕経験をしてきたからである。某大学大学院中退事件もそうだった。

しかし、諦めないでやってきたから、今のお気楽ジジイ生活がある。ダメならダメでいいのだよん。それだけが生きがいなんではないし。試験も時の運。受かるときもあるし、ダメな時もある。

高給取りの国会議員様とは、ここらあたりが違うのである。なにしろ、ボキは年金暮らしである。やっと生きているだけである。これからなにかになってやろうという気がさらさらないから、なかなか試験や生涯学習で成果をあげることができないのだ。

ま、しょうがねぇとはこのことでござる。

連日の選挙報道を見ていて、あるいは読んでいてそう思ったのだ。

なにもやることがないから、試験でも受けようかというのも本音を言えば、それなりに面白いのである。マジである。

今度はなにをやってみようかと考えてみるだけでも楽しい。

やっていること、やるべきことの範囲が広がっていくからである。

ヒマなジジイの道楽、時間つぶしと言ってくださっておおいに結構である。

真実だから。

わははっははっはははっはははっははははっはは。


世の中の多くの方々にご迷惑をおかけしていないぶんだけ、いいんだ・いいんだと自分に言い聞かせているけど。

犯罪行為だけはしないつもりだからだ。

当たり前である。

ジジイはそっと生きているに限る。

目立たないように、ひっそりとである。

竹林の奥深くで、粥でもすすりながらである。

それがボキにはふさわしいではないか。


これからgymに行く。

朝、7400歩くらいMetsで歩いてきたけど。

道の駅まで行ったのである。

気持ち良かった。

健康維持。

これもまたボキの生涯学習ごっこの大きな柱でもある。

最近は、午睡もしていないし。

快調である。


それではそろそろ出かけます。

 

 

 

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「ノボさん」という正岡子規と夏目漱石の交流を描いた伊集院静の小説を、試験が終わったから読んでいる(^_^)。

2017年10月24日 08時38分30秒 | とーま君の流儀2017

絵が見えるか、見えないかということが文章のコツなんだろうなぁ。

 

 

試験が終わったので、昨晩から好きな本を読んでいる。伊集院静の「ノボさん」である。正岡子規と夏目漱石の野球をめぐる交流(書き出しが)を描いている。

千葉市の古本チェーンで200円という驚異的な値段で買った。すぐにでも読みたかったが、試験があったので我慢していた。途中まで読んでいたので、続きからである。

で、昨晩から堰を切ったように読み始めたのである。

楽しいこと限りなし。伊集院静先生は、立教大学の野球部にもいたから、言わば専門家である。野球の好きだった正岡子規の野球のことに関しては。もっともあれか。立教大学の日本文学科を卒業されているのだから、専門の文章もなかなかのものである。だから売れるのであろう。

話の展開も実に上手い。現代的な作家でもある。さすがに、さすがに。

なにがさすがにと思うかいうと、広告代理店でCMディレクターをやっていたからである。まるで、CMのような描き方である。

わかりやすいのである。絵が見える。つまり、読み手の想像力を刺激してくる。

文章を見て、読んでそれから絵が見えるかどうかということ。これが大事なのだと思っているから。事実、伊集院静先生によると、文章は可能な限りわかりやすく書けていないとならないそうである。確かに、絵が見える。彼の作品からは。文字情報から、そういう絵がはっきりと見える。

正岡子規の俳句もこれだそうな。伊集院静先生によると。実際、正岡子規は次から次へと俳句がアタマの中に沸き出でて、それを筆写していたからである。なるほど、これならわかる。あれだけの作品群を、少ない時間で書いていったのであるから。

これこそ、時間を有効に使っていった見本であろう。

天才だからできたのである。それはそれで納得できることである。

短い一生を精一杯送ったのである。しかも、死病である。血を吐きながらの闘病生活は、迫ってくるものがある。

それでいいのか?そんなんで、いいのか?そんな自堕落な生活を送っていていいのか?

そういう迫り方をしてくるのが、正岡子規である。

だから、ボキは嫌いだったのである。そんなに深刻に迫られたら、ボキだって逃げ出したくなってしまう。オイラは、そもそもが自堕落で、ダメジジイで、どうしようもない悪業三昧の救いようのない人間だからである。

マジメに生きてきたわけではないからである。

上から目線で、他者批判なんぞできないからである。国会議員の選挙とは違う。

自分の行為に恥ずべきところがナカッタら、初めて他者批判ができるともバイブルに書いてあるではないか。だから、ボキはできないのである。他人のワルクチを言うことが。

ところがである。

この「ノボさん」という作品からは、もうちょっと違う絵が見える。

まだ最後まで読んでいないので、これ以上は書かない。これから楽しみで読んでいこうと思っている。

 

どーせヒマだし。

 

わははっはははっははははっはははっは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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10月23日(月)のつぶやき

2017年10月24日 06時09分05秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/