全くニュースにもならなかったんだろうと思っているのですが、7年前の4月16日にこの本の著者である高田渡が亡くなっています。高田渡を知ってる人もあまりいないんでしょうが、私ぐらいの年齢で、若い頃にフォークソングに触れたことのある人なら覚えている方もおられるでしょう。
私より3年前に岐阜で生まれた高田渡は、共産党員であった父親の影響を受けたと思われる行動を小さい頃からとっていますが、歌を唄うようになったころには、例え反戦歌・反権力の歌を唄ったとしても岡林(信康)や高石(友也)のようなストレート表現をするのではなく、皮肉や揶揄を交えながらのささやかな抵抗であったようなことを思い出します。
岐阜で8歳の時に母親と死別し、父親は持っていた広大な土地を保育園を造るために寄付してしまい、渡が13歳の頃に上京します。貧乏な生活の中、中学を卒業してすぐに『あかつき印刷』という新聞を印刷する会社に文選工として入社、3年間続けたその仕事は文章を書くのが好きだった渡には勉強になったようでした。この職場の中でピート・シーガーやウッディ・ガスリーというようなフォークの祖と呼ばれる人のレコードに出会いますが、そうこうしているうちに父親が亡くなり、一旦親戚が住んでいた佐賀の高校に入学しますが、すぐに辞めて東京に戻ってきてしまいます。
まぁ、高田渡の人生を語っても仕方がないので、紹介はこの辺りで止めておきますが、1970年に高校を卒業した私は父親の影響もあり(エレキギターを弾いていた、演歌ではあったが)、フォークソングに興味だけは抱いていました。“興味だけ”と強調したのは、実際にはサッカーの方が面白くて、そんな女々しいものには手を出す暇が無かったのです。
1969年から始まった中津川フォークジャンボリーは第3回のフォークジャンボリーで暴徒化した人々の占拠にあって、以降開かれなくなりますが、中津川には当時私も行ってみたいとは思っていたものでした。でも結局は中津川には行けず、大阪の天王寺公園などで開かれていた『春一番』コンサートなどには行ったりしていたものでした。中津川には近年になって名古屋赴任時代に、蕎麦打ち教室に何回か行く機会がありましたが、そこで知り合った人たちを見ているとフォークジャンボリーが開催された土地柄というものはまだまだ残っているんじゃないかと思います。
今は我が家にレコードプレーヤーがありませんから聴くことが出来ませんが、当時買ったレコードはいまだに家に置いてあります。高田渡が参加した武蔵野たんぽぽ団のレコードも2枚あり、何故かレコードと同じCDまで手に入れています。レコードとなればなかなか手には入らないので欲しいと思われる方もおられるでしょうが、もう少し私が持ち続けます。是非必要と言われる方がおられるのでしたら、私が亡くなった後、遺族と相談してください。
3枚あるCDのうちの右のものは71年のフォークジャンボリーのライブ、ジャッケトの左は加川良、右は吉田拓郎です。WATARUと書かれたジャケット、パッと見て何故漢字が『涙』なのか解らなかったのですが、『渡』だったのですね。
このアルバムの6番目の歌『ホントはみんな』は、平成になってから何処かのシチューのコマーシャルソングになった歌なので、一節だけですが、聞かれことがある人も多いと思います。10番目の『生活の柄』は明治時代の演歌師・山之口獏の詩に高田渡が曲を付けたものですが、デビュー当初から唄っていたのですが、高田渡の歌の中で私はこの曲が一番好きですね。
この頃のシンガーに多大な影響を与えたボブ・ディラン、岡林や拓郎も強い影響を受けた歌風に変わっていきました。
この本の中には出てきませんが、ウッディ・ガスリーやピート・シーガーよりもっと昔のロバート・ジョンソンのアルバム、今聞いたら何がなんだか解らないかも知れません。
さて、最初の写真にあるレコードのジャケットの裏面、本も裏面です。本のタイトルはバーボン・ストリート・ブルースですが、レコードのタイトルはヴァーボン・ストリート・ブルースであり、今ではバーボンのことをヴァーボンとは言いませんよね。
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