ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

猪名野神社 Ⅱ

2008-03-14 05:00:00 | 大阪にて
ボケてました。
昨日と今日の記事が逆でした。

        

猪名野神社の拝殿です。
拝殿と本殿をどう見分けるか解りますか?
『解りますか』と言うより『判りますか』の方の漢字が合ってるかも知れませんが、賽銭箱があるのが拝殿らしいです。

もう少し『解る』まで勉強したいと思います。

        

こういう曲線の屋根は造るのも難しいのでしょうね。

        

中を覗くと、何やらウチワみたいなものが並んでいました。

        

伊丹のあらゆる所にあった『鬼貫』という人の歌碑、工事中のようです。
この鬼貫と言う人って私は全く知らないのです。

        

復活した折には、鬼貫という人や歌について是非説明をお願いしたいと思っています。

             

天保11年庚子3月、山口善兵衛・・・、後3人の名前が連なっています。
その下に大和屋と横書きがあって、連々と沢山名前が書かれています。
最後の段には、石工の名前が、田口辰造・新助とあります。

阪神大震災でも倒れなかったのでしょうか。
だけど、天保の頃の物にしては彫が深いような気がします。
この墓石と比べると、どうしてもそう思ってしまいます。


        

これ等の絵馬は何処かの大学生の手によるものだそうです。

上手に描かれていますが、私はこちらの絵馬の方が斬新なところが好みです。

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金剛院

2008-03-13 05:30:00 | 大阪にて
猪名野神社を出て、南に向かって通りを歩いていくと左側にお寺がありました。
金剛院とあります。真言宗のお寺です。

        

2月中旬に訪れたので梅が満開でした。

            

今年は2月になってから寒くなったせいか、こちらの紅梅はまだ咲ききっていません。

       

表の塀などから連想するより、古いお寺のようです。
お堂の前に狛犬が写っています。
昔はもっと広い敷地があったのかも知れません。

       

少し離れた所から撮ると、鳥居まで写り込んでしまいました。
仏教と神道、古来からこの国を支配してきたイデオロギーです。

厩戸皇子と蘇我馬子VS物部守屋の戦いは、仏教VS神道の主導権争いだったわけで、こうして肩を並べて鎮座していると妙な感じを受けるのは私だけでしょうか。

       

町石卒塔婆の説明がしてありますが、この寺にあると言われる12町石卒塔婆はどこにあるのか判りませんでした。

町石というのは寺院までの参道が長いとき、目的地まであと何丁と示した道標です。
川西市加茂という所の阿弥陀寺に14丁を示すものが、中山寺に6丁を示すものが現存するらしく、その中山寺への道標ではないかと書かれています。

       

ここの神社は何という神を祀ってあったんでしょう。

       

どん突きの木々が猪名野神社、右側に金剛院があります。
猪名野神社からJR伊丹駅まで、このような感じで道が造られています。

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猪名野神社

2008-03-12 05:10:00 | 大阪にて
伊丹での仕事もいよいよ終盤です。
見せて貰えなかった重文や天然記念物も沢山有りましたが、この狭い地域で沢山の文化に触れたものと思います。

       

ここは猪名野神社、伊丹市の中では1番大きな神社かも知れません。
中野西から40分ほど南西へ歩くと到着します。

       

拝殿の他にいろいろな祠があります。
大地主神社、大地主などと言うと小作人をこき使った極悪人を連想させます。

鳥居の額には恵比須と書かれていました。

       

神明神社、賽銭が集まらないのか屋根が崩れています。

       

相殿社、貴布弥神社や塞神社、抜戸神社、熊野神社、立田神社に五桂皇子神社というのもあります。
神社のアパートですね。

       

有岡城の岸の砦跡があるらしいのですが、土塁はどこにあるのか判りませんでした。

       

だけど、土俵がありました。

       

見つけられたのは、鳥居などの残骸、サッサと片付けたらいいのにと思います。

       

赤い鳥居の稲荷神社もありました。

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小学校の梅

2008-03-11 05:20:00 | 大阪にて
先週の土曜日ごろからグンと暖かくなりました。
春を感じます。

♪~緑の風の吹くところ~♪

これは私が通った小学校の校歌の出だしです。
今もこの小学校のPTAのソフトボール部で遊んでいます。
長男が小学校に通いだしてから、かれこれ25年も遊んでいます。

小学校の頃は校庭に山羊や七面鳥やウサギ・ハトなどが飼育されていました。

今はウサギとニワトリが飼われているくらいかなぁ。

春には桜が美しい校庭なのですが、梅が植えられているとは知りませんでした。

       

なかなか美しく咲いていました。

       

今年は校庭の桜を撮ろうと思っていますが、今年は咲き出すのが少し遅いのだとか・・・

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熊野本宮大社 Ⅱ

2008-03-07 05:00:00 | 田舎
元々、この熊野大社は熊野川の中州にあったそうで、それがここ『大斎原(おおゆのはら)』です。
現在の熊野本宮の8倍の広さがあったそうです。



本当は大斎原まで歩いていけば良いのですが、時間が無くて望遠を使いました。
行けば石祠が2基あるはずです。

     

大斎原への道標、ここで見えている右の道を行き、開けた所で右を向けば鳥居が見えます。



本宮にあった八咫烏の説明です。『てにおは』が抜けてたり、『ですます』調が『である』調に変わったり、文章的には粗末な案内板ですが、意味は解ります。

本当かウソかは知りませんが、神倭伊波礼比古命(神武天皇)が東征した時、浪速の津で戦いがあるのですが、その戦いで五瀬命が敵の矢に当たり負傷します。
これは日に向かって戦ったからで、日を背に戦わなければならないとし、ずっと紀伊半島を回って東の熊野から大和の国に入ろうとしたのです。
高御産巣日神(古事記に出てくる最初の神)がここは荒ぶる神が多いので危ない、八咫烏を遣わすので、その後を着いていけと言われた・・・と古事記にあります。

古事記からした私の説明の方が詳しいし、神武天皇が迷ったというところが違いますが、まぁどっちも本当の話じゃないでしょうから、構わないのです。

日本サッカー協会のマークも八咫烏で、その説明もされていますが、相手チームのゴールをはずすことなく、きちんととらえて・・・とありますが、よくよく考えはったんやろうね・・・じゃぁ、自分のチームのゴールはどうなるのかな?

       

社務所で売られていた大漁旗、値段が少し高いような気がします。
まぁこれを付けておれば大漁間違い無しなら、安いものかも知れません。

家にも住吉大社の大漁旗がありますが、釣行時に持っていくはずも無く、ご利益に預かったことがありません。

    

ここにも八咫烏、望遠10倍の威力です。

    

これが今回のドライブの目的です。
前のカリブにも同様のものを貼っていました。

この交通安全のマーク、大阪ではあまり見かけません。
和歌山でも見かけへんなぁ。

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熊野本宮大社

2008-03-06 05:50:00 | 田舎
突然ですが、熊野本宮大社へ行ってきました。
何のためなのか・・・は、また後ほど。

       

本宮町は田辺市に編入されたのですね。

神門です。
右に『人生の出発の地』左に『甦る日本の心!』と大きく書かれています。

神道については、いくら本を読んでも理解することが困難です。

       

最初の写真で『これより中は撮影してはならない』と命令しています。
「難いこと言いなさんな」と言いたくなります。

       

2枚だけ撮りましたが、不敬罪にあたるのでしょうか?

       

こちらは拝殿、ここは撮影の規制がありません。

       

参道右側に掲げられていた大絵馬、左側に人が居て、なかなか退いてくれないので全体を写すことができませんでした。

       

上がるときは左側にある熊野古道の坂道を通りましたが、下りは階段を利用しました。

       

熊野本宮大社の名前に比べて質素さを感じる鳥居です。

       

写真の貼り付けが全く逆だったかも知れません。
ここからが参道ですね。

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神社?

2008-03-05 05:20:00 | 大阪にて
伊丹の中野西、天王子川の畔に遠くからも見える大木があるので行ってみました。
赤い鳥居が迎えてくれました。

            

遠くから見える木はこれです。
楠ですね。

       

中に上がると、赤い鳥居だらけ、大木の影で少し暗いです。

       

イヌマキとクロガネモチもあったようです。
現在放送されている大河ドラマでは、於一=篤姫の生まれた記念に植えられたクロガネモチの木は、彼女が今和泉島津家の幼少時代の頃に登って寝ていたという件がありましたね。

ここのクロガネモチの木はどれ位の年月を経ているのでしょう?

       

伊丹市はやはり古木などを保存しようという姿勢が強いと思います。
このような狭い土地で、お寺や神社に頼らず実行しています。
お寺や神社に依存すると、市民に見せないことが解ってるのかな?

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中野西で見つけた古いもの

2008-03-03 05:10:00 | 大阪にて
伊丹での仕事も一段落、中野西の2丁目は古くからの家が沢山あるらしく、同じ姓の家が何軒もありました。

この崩れてしまってる壁、中野西と中野東の境目の道を歩いていたので、この壁は中野東にあったものです。

       

何故か4~5m分だけこうして残っているのです。

       

この壁に覆いかぶさるように立っている木、赤い実が沢山なっていました。

       

これは1週間後、赤い実は鳥に食べ尽くされてしまっていました。
美味しいのかなぁ?

       

この木も相当な年数を経ていると思います。
ちょっとした祠があるだけ、この木のために土地を空けているような感じです。

       

幹は途中から切られていますが、枝は伸び放題、電線が危ないではないですか。

            

対面にあった常夜燈、右・中山寺、左・小濱となっており宝塚方面へ向かう道だったようです。

       

ここは中野西ではありませんが、この木も古そうです。
中野北にあった素盞鳴神社の近くにありました。

           

この木の横にこんな碑がありました。

天保2年に素盞鳴神社の杉山氏によって寺子屋が開かれ、なんとこの中野の地域だけではなくて、西野・東野・荒牧・萩野・鴻池池尻の子弟たちが通ったそうです。

荒牧などはかなり遠い、昔はこうまでして勉学に励まなければならなかったのですね。

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