ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

歴史の折り返し点で

2010-09-17 05:00:00 | 読書
久野収と鶴見俊輔という2人の思想家の対談をべ平連の中川六平という人が企画し、朝日ジャーナルに連載されたものを単行本にしたのが1990年12月、今回文庫本に復活されたので読んでみました。


ベ平連などと聞くと、自分の高校生時代が思い出されますが、当時私はそういったものにトンと関心がないサッカー青年だったのです。それでも3年生になると人間とはどういうものなのか、どう生きていくのが人間らしいのかというような哲学的な思いも多少ともあり、大学進学のための勉強も少しは進めていたのです。まぁそのような興味本位の勉強なら大学へ行かなくても独学でも出来るとタカをくくっていたという面も持ち合わせていたのですがね。

この対談が行われたのは1989年、もう20年以上前のことでした。この年には中国で天安門事件(6月)が起き、ベルリンの壁が崩壊し(11月)、日本の昭和天皇が崩御した(1月)年であり、村上春樹の『ノルウェーの森』がベストセラーになり、バブル経済が幅を利かせていた頃です。90年に東西ドイツが統合され、91年に湾岸戦争が始まり、その年にソ連が解体されました。20世紀末の混沌とした世界の中、きっとこれから先どのように世界を見つめ、どのように自分の進路を取ればいいのかというような暗澹たる疑問に答えを見つけ出そうと試みられたのだと思います。

そのような現在とは全く違った状況において企画されたものなのに、何故この本をわざわざ選んだのか、全く不純な考えかも知れませんが、久野収といえば最近読んだ佐高信の本の中によく出てきた名前ですし、鶴見俊輔といえば『九条を守る会』の世話人です。どちらの人もあまりよくは知らなくて、2人が対談する本を読めば別々に読むよりは手っ取り早くその方達の考えが解るのではないかと考えたのでしょう。でしょうと、他人事なのは、そう深く考えたのではなく、勘みたいなものだったから。

             

資本主義から社会主義への移行が歴史の必然というマルクス主義が未だ生きていた頃(私はマルクス主義が死んだとは思っていないのですが)、ソ連の解体によって世界全体としては社会主義はもうダメなんだという気風が流れて出していました。

そんな気風の中で、アメリカの帝国主義的な戦争に反対し、日本の権力構造にメスを入れ続ける人達がどう考えていたかは非常に興味あることです。

バブル経済が破綻し、経済が停滞し続ける昨今、グローバリズムや新自由主義が新たな格差を生み私達を苦しめるているのに、そこへの抵抗軸が見えてこない。今や久野収氏はこの世の人ではありませんが、今ならどんな対談になっていただろうと有り得ない答えを求めて、私は考え続けねばなりません。何故資本主義こそもうダメだという気風が生まれないのか、そう考えるとバブル経済が彷彿としていたのは、社会主義の滅亡に対するお祭り騒ぎだったのではないか、もう資本主義は何をやっても崩壊はしないのだとタカをくくってたのではないかと思えてくるのです。

この本を読んでいると懐かしい名前がいっぱい出てきます。若い頃に出会った(実際に会ったのではなく)名前が多く、その人の著書を読んだという人もいれば、読みたいと思って手の出なかった人もいます。

今もこうして1冊の本を読めば、そこから次の本へと手を伸ばして、輪廻は果てしないのですが、こうも古い本になると(決して古くはないのですが)、例えばこの本に記されていた『歴史の進歩とは何か』という岩波新書に興味を抱いても、いくら探しても本屋さんには並んでいません。
同じ岩波書店の出版物なのですから、この本を出版した以上、この本の中に出てくる本を読みたいと思う読者が出てくるのも有り得ること、是非再版していただきたいものです。

            gooリサーチモニターに登録!