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オフィスオートメーション機器開発時代

2016-05-08 03:47:23 | Weblog

 おはようございます。

 私は当時、FFFプロジェクト、オフィスオートメーション機器企画、システム80後継計画、アメリカミニコン検討のプロジェクトに主要メンバーとして参画していたと言えるでしょう。もう昔のことですので細かい点は書いても間違ってしまうし、お世話になった皆さんの古傷を触るのか舐めるのか分かりませんが、富士通としてあまり触れられたくない話が多くなりそうですので、結果論のまとめだけで止めたくなりました。

 話を少し戻し、富士通を私が退職する数年前、370シリーズ対抗機種Mシリーズ群に富士通は社運を賭けたようでした。しかし開発計画に遅れが生じていました。アムダール博士が起業し、IBMをアメリカで脅かしていたアムダール社から導入した方式によって通産省の大型プロジェクトに参画したことは有名な話でした。富士通はアメリカベンチャーから技術導入し、370対抗機開発をしようとしていたわけです。

 しかし、富士通開発計画が遅れ、アムダール社へ納期通りに納入できないだけでなく、日本市場でも5シリーズからMシリーズにつなぐ最初の計画祖語が出てしまいました。営業やシステム部は困っていたわけです。私もシステム部にいた時、工場から当時の方式担当部長が計画修正の説明に来ていました。

 計算機事業のトップは池田さんでした。彼は東工大出身の天才でした。実験室で一人でコンピュータを開発してしまった人です。富士通の計算機は自然発生的に生まれ成長していたわけです。当時、神様のように、富士通の若手技術者からだけでなく、東大でコンピュータを研究していた人たちから慕われていた有名人でした。その池田さんは、アムダール社とその約束した見込み客に毎週のように謝りに行っていたようです。私が工場に異動したあたりからでしょう。

 心労が重なったのでしょう。アメリカ出張に出かける玄関で倒れてそのまま帰らぬ人になりました。倒れたと言う噂は工場に広がりましたが、まさかそのままになるとは私は当時思ってもいませんでした。池田さんが始めたUシリーズ、Vシリーズの事業はまだ赤ちゃんのような状態でした。だから後輩である岩井さんがUとVも主管する小型機事業部長になったと言っても過言ではないかもしれません。

 Mが遅れ、お化粧直しの8シリーズを急きょ出し、大成功したのです。逆にもしMの遅れが現実より小さく計画通りに近くなっていたら、8シリーズは生まれず、富士通は潰れていたかもしれません。有名なIBMからの訴訟によってMシリーズは売れても儲からないビジネスになってしまい、IBMへ支払った和解金で会社はお陀仏になっていたように私には思えていました。

 池田さんや岩井さんが当時どのようにUやVをしていくつもりだったのか、それは天国にいる彼らに聞かないとわかりません。でも私はアメリカの軍事産業のプレイヤーが提案してくれた、組み込みのシステムに使っていたHPのミニコンから市場に参入する協業計画を、アムダールやIBMとは全く別の話ですが、岩井さんが取締役会前に説明した通り、実行していたら、和解金も少なくできたように思えて仕方がありません。

 余談ですが、取締役会前日に岩井さんは取締役会のメンバーに説明しOKをいただいた、大丈夫だよ、と私の労をねぎらってくれました。しかし翌日夕方席に戻ってきて、済まない小寺君、ダメだった、不可解、とだけ言われ、頭を下げてくれました。池田さんが居なくなった影響はいろいろなところにあったのかもしれません。当時の岩井さんを思い出し、涙が出てきました。

 もうこの話の続きはなしにします。書けるのはここまでです。すみません。南無阿弥陀仏。

 

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5 コメント

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Unknown (ebisu)
2016-05-08 22:46:18
IBMの大型機の互換機路線がMシリーズでしょうか。
IBMの小型機は83年頃、システム34とかシステム38が出始めた頃ではなかったかと記憶します。RDBマシンで、ユーザーフレンドリーでした。コンピュータの専門家でなくても扱えるマシンでした。
そのころの富士通の小型機がどうであったのかわたしには知識がありません。
Vシリーズは79年に出ていますね。それよりも少し前のオフコンは8インチの固定ディスク40MBに交換できるハードディスク10か20MBのものがついていました。ソフトは8インチのフロッピーディスクでした。
79年に三菱製のダイレクトアドレッシングのオフコンを使っていました。そのあと80年に、コンパイラーマシンを輸入業務と納期管理用に導入しました。そして83年にNEC製の汎用小型機へと切り替えを検討したところで、上場準備中のSRLへ転職し、当時富士通最大の汎用大型機での統合システム開発を担当しました。
IBMのRDBマシンのような製品は当時の富士通にはあったのでしょうか?ユーザ部門の方からみると使い勝手がよくて魅力的なマシンでした。プログラムのコーディングが必要ありませんでしたから、引継ぎも簡単。
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RDMマシンなどにまつわる記憶 (tsuguo-kodera)
2016-05-09 04:24:06
 システム80は爆発的に売れたシリーズ。私の周辺時代の提案が岩井さんに生かされて多目的プリンタが装備されていたからです。データベースではなくオフコンの帳票処理を改善したのがメインの市場でした。
 FW-Vは4D思想、データベースを装備する計画でした。でもOSはUNIOSと言う古いV0シリーズの焼き直しでした。データベースが古いシステムでした。
 私たちシステム80後継検討会はIBMシステム80または当時流行りだった競争ベンダーのRDMマシンのデータベース管理を搭載することを提案しました。
 システム38はオブジェクト志向の大変開発コストがかかる機械、IBMですらそのあと出てきた36では従来のシステム3を踏襲した34路線に戻りました。38一発で没でした。
 私はやるなら簡易RDMを乗せたアメリカのベンチャーのマシンを主流に提案したのです。全く別の伝統的な会社からHPをまず狙う路線の中でRDMメインで販売する路線へとつなぐことを岩井さんに提案していたのです。
 富士通が直接38後継を開発するのは諦めたのは正解だったと思います。理由です。IBMのその後のシステムを見ても正しかったと思います。IBMはAS400でシステム80ユーザーをサポートすることになりました。
 AS400も良いマシンでしたが普通に作ればもっと売れた良いシステムになったのでしょう。ASは売れましたが、IBMの傍流の機械のままに終わったように見えています。
 またシャープに転社し最初にやったのが第五世代コンピュータ開発の委員でした。これはとてもあり難い仕事、委員手当もありました。国家プロジェクトはお金がかかると知りました。
 しかもメーカーではなく、産総研や東大東工大の先生が主導したプロジェクト、研究者が好きにやった国家プロジェクトでした。
 もし彼らのPLOROGの代わりに、メーカーがしたかった38対抗機をやっていたら世界は変わっていたのかもしれません。日本はできなかったのか知りませんが。(笑)
 5世代の処理系や専用マシンの開発は失敗したと私は思っていました。でも、研究者のその後の大学への再就職に貢献しただけと言えるかも。失敗が明確になり巷で言われだすと、研究開発者の育成が、すなわち大学の先生の育成が狙いだったと当時の国家プロジェクトのリーダーは終了の時は居直っていたのです。
 RDBや集合論DBやシステム38のオブジェクト志向を狙っていたら、少なくとも無駄な国費は減っていたはずでしょう。私はそのように研究会で発言し、第5世代でも悪口を言う者は出て行けとリーダーに罵倒されたのです。懐かしい話です。(笑)
 以上まとめると、岩井さんの下で、この記事で書いた4つのプロジェクトのテーマをすべて一つのプロジェクトだけで実現したかったのです。当然ワープロもアメリカのシステムと同じように普通にできるシステムです。
 当時そのようなシステムの典型的な例、アメリカのベンチャー企業、ワング社に一人で乗り込んで協業の可能性、アプリ導入を打診してきました。岩井さんに好き勝手やらせてもらっていたと言うことです。(笑)
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誤入力すみません (tsuguo-kodera)
2016-05-09 04:33:29
 急いで打ち、おまけに眠気で2か所38と打つべきところを80と打ってしまいました。エビス先生なら分かるでしょうし面倒ですので修正しません。悪しからず。(笑)
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御礼 (ebisu)
2016-05-11 23:39:23
富士通側の当時の商品戦略の解説、ありがとうございます。小型機の分野ではなじみがなかったので、知識がありませんでした。

IBMのAS400は91年頃に子会社で導入しました。親会社の関係会社管理部で仕事をしていたので、子会社の臨床検査システム開発の支援をしていました。AS400 は現場の人間に使いやすいマシンでした。
結局、簡易言語のACCESSが出てきて、90年代半ばにはRDBがパソコンベースで動くようになってしまったので、AS400のラインは自然消滅したのでしょう。
それにしても70年代の終わりから90年代半ばまでは、何が主流になるのか、次々に新しいものげ出てきて、めまぐるしい動きでした。

ところで、小寺さんは第五世代コンピュータ開発にタッチしていたのですか、驚きです。あれは失敗に終わりましたが、当時は別系統でトロン計画というのがありました。東大の坂本先生だったかな、まったくユニークなデザインのOSでした。米国の圧力でつぶされたようですが、あれが家電の世界で標準OSになってしまいましたね。ほんとうに強いものは、生き残るようです。

米国の圧力に屈しなければ、トロンが世界標準になっていたのかもしれません。インテルやアップルは消えていたかも。米国にとっては一大危機だった。

米国とこの次の戦場はどの分野になるのかわかりませんが、そのときに大きな判断を間違えないでほしいと思います。
AIで最終的な決着がついてしまうのかもしれません。この分野ではどうやら大きく水が開いています。
返信する
坂村先生の思いで (tsuguo-kodera)
2016-05-12 04:34:41
 坂村腱は私と同年代の人、彼が慶応相磯先生のドクターコースの時から実は凄い人がいると聞いていました。
 相磯研究室の1年後輩に私の同僚、日本のコンピュータの生みの親、電総研の和田先生の息子さんがいました。2年私が年上でしたので一応上司のような立場だったかもしれません。でも彼も一匹狼私以上の優れモノでしたが、会社では全く評価されませんでした。私のせいかも。(笑)
 和田先生のコンピューターは第一世代と言うべきコンピュータ。これも勿体ない技術でした。古い教科書やウィキペディアには出てくる人物でしょう。
 和田先生には電子化辞書でもお世話になりました。なお第五世代の東大和田先生とは別人です。こちらも間接的には良く存じているのですが、私は日本のコンピュータをリードしていた渡辺茂の系列の端くれかも。
 私が機械の4年生の時だったと思います。先生は体調を壊し、大学には出なくなりました。後を継いだのが仲良くして頂いた三浦先生と井上先生です。
 私はロボットもAIも大丈夫だと思います。三浦井上の後輩は皆さん優秀。今の東大も東工大も優秀な学生ばかりです。コンピュータと同じように何度もチャンスは来ますよ。きっと。その時どのようにしてチャンスをつかむかです。
 これはebisu先生の言う通りの、年配と若手のコラボで。五世代の間違えは天皇だったからでしょう。何時の時代も、万機公論に決すべし。(笑)
 第5世代のプロジェクトでは坂村腱も嫌われていたように感じていました。PLOROGよりトロン開発を言っていたのだと私は思っていました。
 私が嫌われたのは、OSと言ってもこのプロジェクトではオペレーティングシステムの略称だ、シャープの工場では大阪ミュージックホールだと言って、要するに分かりやすい論文やマニュアルや仕様書や報告書を書く能力をまず日本の研究者に教えるべきだ、良くプロジェクトの狙いや妥当性が理解できないと言ったから。考え方は全く今と変わりませんね。40年近く成長せず、少し巧緻になってきて、子供相手ができりょうになっただけなのです。(笑)
 なお坂村腱は東大に移り、お祝いに大型計算センターにお伺いしました。なお、トロンプロジェクトが縮小されたのですが、10年ほど前までJEITAなどの関係会社が支援するプロジェクトがありました。今は彼はハッピーのようですね。東大で情報の博物館の設立ができたのだから。
 またなおですが、通産からシャープに来た人が、かなり年上で私も懇意にしていただいていた人がいました。トロン普及の組織がJEITAの友人の努力ででき、シャープを退社したあとトップになりました。トロンが組込みシステムのOSとして使われている現状は自然と情報が入ってきました。
 日本としても恩恵はとてもあったと思います。トロンは十分に貢献したと私は思っています。製造自動化とロボットを支えたから。
 とにかく勝負は繰り返す。糾える縄のごとし。南無阿弥陀仏。
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