「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

三輪山 Long Good-bye 2023・09・30

2023-09-30 04:40:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの

  「 街道をゆく 」から海柘榴市 ( つばいち ) 」の一節 。

   備忘の為 、 抜き書き 。昨日の「 日本書紀 」のなか

   の噺 ( はなし ) の つづき 。

   引用はじめ 。

   「 噺 ( はなし ) を要約すると  、あるとき疫病が流行した 。

   何神のタタリのせいであろうということで 、帝の皇女を

   巫女にしてまつらせたところ 、すこしも降神せぬばかり

   か 、彼女は髪がぬけ落ちてやせ衰えるばかりであった 。

   代って 、どうやら偉大な巫女であったらしい帝の伯母の

   倭迹迹日百襲姫  ( やまとととびももそひめ ) を巫女にして

   憑神状態 ( かみがかり ) にさせたところ 、たちまち神の声

   あり 、彼女の口を籍 ( か ) りて 、『 若し能く我を敬い祭

   らば 、必ず当 ( まさ ) に自平 ( たひら ) ぎなむ 』( 『 日本

   書紀 』 ) と 、いった 。帝はおどろき 、誰 ( た ) が神ぞや 、

   と問うと 、神はいう 、『 大物主神と為 ( い ) ふ 』と 。

   ここで天孫系とは別系列の国つ神が 、崇神の王家にはじめ

   て入るわけであり 、このいきさつは 、崇神帝とその武装

   グループが大和以外の地 ―― 九州か 、あるいは満鮮の地

   であろう ―― からやってきたことをよくあらわしている 。

    さらによくあらわしているのは 、この噺の以下のような

   つづきである 。

   『 たれか 、大物主命 ( 三輪山 ) をまつる者はいないか 』

    と 、崇神帝はさがした 。古代信仰にあっては 、その神の

   子孫とされている血統の者 ―― 名負 ( なおい ) の氏 ( う

   じ ) ―― によってのみその神をまつることができる 。と

   ころが 、三輪山をまつっていたミワの族長の子孫は崇

   帝にほろぼされたかなにかで三輪の故地にはおらず 、崇

   神帝はそれをさがさせ 、やっと茅渟 ( ちぬ ) ( 大阪湾沿岸

   地方の古称 ) の地に大田田根子命 ( おおたたねこのみこと )

   という人物がいると知り 、それをよんで土地をあたえ 、三

   輪山にのぼらせ 、祭主にした 。 崇神帝も 、苦労した

    ついでながら 、崇神帝の名はミマキイリビコと言う 。この

   ミマは南鮮の任那( みまな )国のことでこの帝はここから

   きたという説を騎馬民族説の江上波夫氏はとっておられるが 、

   任那国号の成立はだいぶあとだから 、ちょっと無理なように

   思われる 。

    が 、崇神帝が 、軽快屈強の武装集団をひきいて大和へやっ

   てきたであろうことは 、大和の土着勢力から興ったとみる

   よりも征服形式としてはるかに自然である 。古代 、戦闘的

   性格のうすい農耕地帯に駆けこんできてこれを征服するとい

   う作業は 、大和一国の規模でなら 、五百騎もあれば十分で 、

   後世の軍事規模で想像するようなぼう大な軍団など必要がない

    はなしのついでながら 、ごく近世 、数億の民をもつ大明帝国

   をたおして清帝国をたてたのは 、満州にいた騎馬民族である

   ツングースの一派 女真族だが 、かれらは六十万から八十万程

   度の人口であった 。あるいはまた日本の戦国のころの備前国

   ( 岡山県 ) の大名 宇喜田能家 ( うきたよしいえ ) の家系伝説に

   も 、『 能家の先祖は元百済国の王子 。兄弟三人船にのり 、

   当国児島郡藤森に着船す 』とあり 、中世周防国 ( 山口県 ) で

   栄えた 大内氏も 、わざわざ誇って『 百済王子 琳聖 ( りんしょ

   う ) 太子の後裔 』と称していたが 、百済王子であることはあ

   やしいとはいえ 、遠いむかしは 二 、三百騎の武装隊が海岸

   から侵入すれば 、元来自衛力にとぼしい農耕地帯はかれらの

   侵略に対しお手あげであったであろう 。

    その古代的な形式が崇神王朝の成立であるという説は 、ごく

   自然なことといわねばならない崇神帝の和風の謚 ( おくり

   な ) を 、『 ハツクニシラススメラミコト 』 という 。『 日本

   書紀 』はこれに 御肇国天皇 という文字をあてる 。

     その帝の帝都が 、土着民ミワ族の故地である 三輪山 のふもと

   におかれ 、葛城の カモ族 を圧倒して 大和盆地を平定した 。

   さらに国中の平和を保つため 、大和の土着勢力から武器をとり

   あげ 、それを石上 ( いそのかみ ) の地に収納した 。という平定

   方式をとったのは 、秀吉の刀狩りを連想させる

    石上から三輪へ南下する途中 、道の左手に崇神帝の御陵がある

   私は兵隊にゆくとき 、葛城に住む外祖母がこの三輪にまでお詣り

   につれてきてくれたが 、そのとき 、この御陵をみて 、その樹叢

   のうつくしさにうたれた記憶がある 。いま車窓からのぞいても 、

   なおその美しさは衰えていない 。 」   

   引用おわり 。

 

 

   ( ついでながらの

      筆者註 :司馬遼太郎さん( 1923年 〈大正12年〉 8月7日

         - 1996年〈平成8年〉 2月12日 )の軍歴 。実戦

         は体験されていないよう 。

         「 1943年( 昭和18年 )11月に 、学徒出陣

         より大阪外国語学校を仮卒業( 翌年9月に正式

         卒業となる )。兵庫県加東郡河合村( 現:小野

         市 )青野が原の 戦車第十九連隊に入隊した 。

           ・・・

          翌44年4月に 、満州四平の四平陸軍戦車学校

         入校し 、12月に卒業 。

          ・・・

          司馬は 、軍隊生活になかなか馴染めず 、訓練

         の動作にも遅れが目立ち 、同期生のなかでも戦

         車の操縦はとびきり下手であったが 、『 俺は将

         来 、戦車1個小隊をもらって 蒙古の馬賊の大将

         になるつもりだ 』などと冗談を言うなど 、笑み

         を絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しに

         なっていた 。

          戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転

         属したが 、成績の悪かった者はそのまま中国に

         配属になり 、これが生死を分けた 。卒業後 、

         満州国牡丹江に展開していた 久留米戦車第一連

         隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される 。

          翌1945年に本土決戦のため 、新潟県を経て栃木

         県佐野市に移り 、ここで 陸軍少尉 として 終戦を

         迎えた 。

          以上ウィキ情報 。

         「 街道をゆく 」の一節に 、次のような記述があり

         ます 。

          引用はじめ 。

         「 私は満州へ行った 。

           最後は東満州の国境あたりにいて 、にわかに

          連隊とともに朝鮮半島を南下し 、釜山から輸

          送船に乗った 。私のいた部隊は 、当時の世界

          のレベルからみれば使いものにならない戦車を

          八十輌ばかりもつ戦車連隊であったが 、それ

          でも日本陸軍にとっては虎ノ子であったことは

          たしかで 、アメリカ軍の東京付近に上陸するの

          にそなえるため 、終戦の三カ月前にもどらされ

          たのである

           私どもの輸送船は新潟港に入り 、戦車をつみお

          ろしたが 、そのとき 、埠頭のむこうから一人の

          初老の将校がやってくるのがみえた 。私は最下

          級の将校だったから 、相手の年齢をみて大佐か

          少将だろうとおもって敬礼すると 、なんと少尉で

          あった 。それが叔父であった 。叔父との奇遇に

          おどろより 、こんな世界にもめずらしいほどに

          古ぼけた少尉が 、いまからどの戦場に出かけてゆ

          くのだろうということに興味をもち 、日本の戦力

          が底をついていることをこのときほど痛感したこ

          とはない 。

           『 朝鮮や 』

           と 、叔父は憮然としていった 。

           いまから思えば 、私どもの属した関東軍の主力が

          逐次南方へ間引かれ 、ついに私などの連隊を最後

          に満州がカラになってしまったあと 、日本陸軍は

          ソ連との国境を朝鮮でまもろうと思いつき 、そう

          いうことで叔父のようなひとたちを召集したのに

          ちがいない 。

          『 まあ朝鮮へゆくのもええやろ 。武内宿禰は百歳

          か二百 歳で朝鮮へ行ったというからな 』

           と 、叔父はむろん葛城の竹内のひととして武内宿

          禰が竹内で暮らしていたことを信じていたし 、そ

          れと自分の運命とが重なり 、一種落魄のおもいで 、

          そうつぶやいたのにちがいない 。

           ( いまから朝鮮へ行って帰れるのかしら )

           とおもったが 、叔父は私どもをおろした船で朝鮮

          へゆき 、その後ぶじ帰ってきて 、畳の上で死んだ 。

          五十代だったから 、年齢だけは武内宿禰にあやかれ

          なかった 。

           引用おわり 。)

 

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