今日の「 お気に入り 」は、山田太一さんの「 月日の残像 」から 。
備忘のため 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 映画は 、つくる時だけ人が集まり 、終れば散って行く 。
それはそうだが 、つくっている時の一時的共同体気分は
時にかなり強いものがあるし 、業界にいて歳月を重ねれ
ば 、一緒につくる仲間もできて来る 。 」
「 ひとりの 、たぶん三十代後半の男を思い出す 。ある映
画で助監督が足りなくなるということがあった 。そんなに
大作という記憶はないのだが 、チーフ助監督が別班を
つくって 、役者の演技をさほど必要としないロケーション・
シーンを撮りに行き 、もう一人の助監督が体をこわして
入院してしまったというようなことだったと思うのだが 、
四人編成が二人になってしまった 。通常ならあいている助
監督を応援に頼めばすむのだが 、どういう訳か撮影所の人
ではないその人がやって来た 。ヴェテランということだっ
た 。事実 、よく働く人だった 。
ところが撮影所のスタッフの評判は良くなかった 。声や
身振りが大きく 、目立つのである 。そのつもりはなかっ
たかもしれないが 、自分はいまここにいて 、こういうこと
をしているというアピールが頻繁になされすぎるように 、
私にも感じられた 。
椅子に掛けた監督がその人に小声でなにか指示をする 。そ
れを臣下の侍のように片膝ついて『 ハイ 、ハイ 』とうなず
き 、終りは 『 ハイッ 』 と大きめの声をあげて 、 その用事を
果すべくすっとんで行く 。
『 やだね 、万事おつくりで 』 とカメラマンが 小声で側の
撮影助手に憫笑するのを聞いた 。
私は自分がいつの間にか撮影所の内部の人間になっている
ことを感じた 。撮影所の空気がなにをどう感じるかを承知
していて 、それに教育されてもいて 、馴れて無理せずに
振舞っている 。今更私がおつくりをしようにも 、どの程度
の仕事ができるかできないか 、どういう人間かはとうに周
囲に見ぬかれているから飾りようもない 。その安息を感じた 。
もし自分がその人のように 、突然外から 『 ヴェテラン
の助監督 』 としてほうり込まれたら 、きっと私も自分
の能力をアピールするだろう 、働きを周囲に念押しし
たくなるだろう 、品よく控えめにしていたら 、自分の働
きを周囲は気づかないかもしれないのだから 。
飛躍するようだが 、アメリカの自己主張の文化にも 、
似たような 『 せつなさ 』 があるのではないだろうか 。
よくも悪くも歳月をかけて根付いた共同体を信じられず
頼れず 、ただもう一人で血も涙もないグローバルシステ
ムの前に 、裸で立たなくてはならないとなれば 、粋だ
とかシャイだとか謙譲なんていっていられない 。 」
「 なんであれ人間の営みは 、どうしても 『 陰の存在 』
を生むし 、必要ともしてしまう 。それを当然のこととして
生きるのでは満たされず 、誰しもが光を浴びずにはいら
れなくなるような孤独が 、今はいうまでもなく日本にも
ひろがっている 。 」
「 小道具係 。役者たちの帽子やバッグ 、傘から風呂
敷包みや本や下駄や靴を管理し 、セットを飾るあらゆ
る小道具も担当の範疇で 、食事のシーンがあれば飯
を炊き 、献立を用意し 、犬猫が出ればその手配も世
話もする 。どこまでも具体性から逃げられないその人た
ちが私は好きだった 。
ケーキを食べるシーンがあるとNGが出てもいいように
いくらか余分に買ってあり 、余ると食べに来ないかと
誘われたりした 。ある日 、先輩の助監督にたしなめ
られた 。
『 君はいまに監督になるのだろう 。彼らと親しみすぎ
てはいけない 。命令する立場になるのだ 。いまのまま
だと 、彼らは君を軽く見るだろう 』
しかし 、私は助監督室の映画論に加わるより 、小
道具さんといる方が楽しかった 。たぶん下町にうまれ
て 、親族に大学出もサラリーマンも一人もいない育ち
のせいだろう 。その結果 、軽く見られたかどうかは 、
監督にならなかったので分らない 。 」
「 『 陰の存在 』 もしゃべれば 、いくらでもしゃべること
はあるのだった 。
だったら話せ 、書けというのがいまの風潮だが 、話
のうまさと仕事での腕のよさは 、必ずしも一致しない 。
映画のスタッフの書いた本を読むと 、時折それを感
じる 。 」
( 山田太一著 「 月日の残像 」新潮文庫 所収 )
引用おわり 。