「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

なごやかになれる人々となごやかになれない人 Long Good-bye 2023・09・07

2023-09-07 04:30:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんの「 月日の残像 」から 。

  備忘のため 、抜き書き 。「 女と刀 」と題した章のほぼ全文 。

  引用はじめ 。

  「 ほぼ三十年前の 、短い私の随筆が 、ある新聞のコラム

   で 、要約という形で言及された 。」


  「 私なりに要約すると 、湘南電車の四人掛けの席で 、

   中年の男が他の三人 ( 老人と若い女性と私 ) に 、いろ

   いろ話しかけて来たのである 。

    それだけでも 、いまはもうありそうもない 。長くて

   も二時間前後の 、いわば通勤圏の電車で相席の人に

   話しかけるなんていうことは 、酔っているとかすれば

   別だが 、それだってほとんどないだろう 。

    そのころだってやたらにあったわけではないが 、『 あ 、

   富士が綺麗だ 』 と誰かがいって 、『 そうですね 』 と

   いうぐらいのことは 、ごく普通の空気でなされたように

   思う 。いつの間にか 、人と人の閉じ方が強くなっている

   のかもしれない 。

   『 ああ 、まいった 。今日はえらい目にあった  』 と相手

   を求めて口をひらいた男にまず若い娘がつかまり『 いや 、

   今朝がた湯河原でね 』 という話に 、いつの間にか老人も

   加わり 、私にも目を向けるので 、私も 『 へえ 』 などと

   いっていた 。気の好い人柄に思えた 。

    ところがやがて 、バナナをカバンからとり出し 、お食べ

   なさいよ 、と一本ずつさし出したのである 。私は断った 。

   『 遠慮じゃない 。欲しくないから 』 『 まあ 、ここへ置く

   から 』 と男はかまわず窓際へ一本バナナを置いた 。

    食べている老人に 『 おいしいでしょう 』 という 。娘さん

   にもいう 。『 ええ 』『 ほら 、おいしいんだから 、お食べ

   なさいって 』 と妙にしつこいのだ 。『 どうして食べないの

   かなあ 』

    そのうち食べ終えた老人までが置いたままのバナナを気に

   して 『 いただきなさいよ 。せっかくなごやかに話していた

   のに 、あんたいけないよ 』 といい出す 。

    そのコラムの要約は 『 貰って食べた人を非難する気はない

   が 、たちまち 『 なごやかになれる 』 人々がなんだか怖い

   のである 』 という私の文章でまとめられている 。 」

  「 私はかつて 『 なごやかになれない人 』 の結晶のような

   人物を描いた小説をテレビドラマに脚色したことがある 。 

    脚本家になって一年目のことだった 。鹿児島の作家・中村

   きい子さんの 『 女と刀 』 である 。企画は木下恵介さん 、

   はじめの三回は木下さんが書き 、あとを引き継いで三十分

   二十六回のドラマだった 。 」

  「 小説は 、作者の母上の生涯を語ったものだが 、その 誕生

   ( 明治十五年 ) の五年前に西南戦争が起きている 。この戦

   争が 、この物語の底流から消えない出来事である 。

     贅言 ( ぜいげん ) だが 、大久保利通と西郷隆盛と いう 、

   同じ鹿児島の 、家も近い若い下級士族の青年二人が 、ほ

   とんど中心になって徳川の時代を終焉に導き 、明治新

   政府を樹立したのであった 。それが明治十年に 、大久保

   は新政権の最高位を占め 、西郷は反政府の士族たちの長

   となって 、戦い合うことになった 。

    熊本が主戦場となり 、西郷軍は敗走して鹿児島へ戻り 、

   力尽きた 。西郷は自刃した 。

    その西郷の許で戦って敗れたのが 、主人公の父であり 、

   作者の祖父である 。鹿児島でさえ賊軍呼ばわりされたと

   いう 。たしかに敗けは敗けである 。しかし 、だからと

   いって 、いさぎよく敗けたりはしない 、というのが 、

    その青年士族の 『 意向 』 であり 、新しい権力に無

   件でわが身をゆだねるなどということはあってはなら

   いといい 『 いくさとは 、ねばりという火をこころに燃

   やさねばならぬもの 』 、敗けても 『 おのれの意向は刀

   折れ 、矢つきても通さねばならぬ 』 というのである 。

    その 『 意向 』 とは 、慌てて西洋の仕組みを学びに行き

   『 一枚めくれば銀紙よりもまだ軽い 『 文明開化 』 などと

   いう 、毛唐どもの猿真似を 、まるで金のたまごのように

   持ちかえった大久保殿の気がしれぬわい 』という 、真向

   から明治新政府の西欧化 、近代化に叛旗を掲げるものだ

   った 。『 どうあろうとも西郷殿のお言いやい申したこと

   を 、きく耳もたなかった 『 日本 』 のやがてを 、わしら

   は見届けねばならぬ ( 略 ) このくろい目で確かめるまでは 、

   お互いに生きられるだけ生きのびることにいたしもそ 』

    その西郷殿の意向には 、今のうちに韓国を叩いておこ

   という 『 征韓論 』 もあり 、新政権にどのくらい対抗

   得る内容であったかは私には計り難いが 、一点 、新政権

   に勝るものがあるとすれば 、自分が生きて来た過去を素

   早く否定できない者たちの情念の重さのようなものでは

   ないかと思う 。

    さあ新時代だ 、髷を切ろう洋服を着ようという適応の

   さに 、人間そんなに簡単に変れるものか 、変ってたま

   かという 『 ついて行けない者たち 』 の誇りと無念の重

   がこの小説の柱である 。

    父の無念は 、『 意向 』 を 『 こころ 』 といい替えられて 、

    主人公に伝えられて行く 。第二次大戦の敗色が濃くなるこ

   ろになっても 、これは大久保たちのつくった 『 日本 』

   不始末で 、かかわりなどあるものか 、と軍需工場へ行って

   国のために戦うという娘に 、主人公は刀をつきつけて行か

   せぬといって押し通す 。周囲から非国民呼ばわりされても

   『 なんとよばれようがわたしゃ覚悟のうえでやったことじ

   ゃよ 』 と動じない 。

    敗戦になる 。すると周囲は一変する 。今まで命を賭し

   戦っていたはずの相手に 、これはもう無条件降伏なの

   から仕様がないと 、占領軍が持ち込んだ民主主義をぬけ

   ぬけと歓喜の両手で迎えてしまう 。その思想の深さも知ら

   ずに 、おのれのもののように振舞う 。『 敗けてよかった 』

   などという 。『 非国民は許せない 』 といっていたのは誰

   だったのか 。父が生きていたら 、大久保のつくった 『 日

   本 』 のなれの果てを見て憤死するだろう 、という 。

    そういう激しい女性だから 、実生活で周囲にいる者たちは 、

   たまったものではない 。

    生きるということは 『 ただそれだけにとどまる姿勢でなく

   して 、おのれの意 ( こころ ) を通して生きるという姿勢を

   貫かねばならぬ 』 。

    近隣からは 『 鬼婆あ 』 といわれ 、子どもと争い 、嫁とも

   戦い 、一番の災難は夫で 、ごく普通の平凡で小心な男なの

   だが 『 ひとふりの刀の重さほども値しない男よ 』 と見捨て

   られてしまう 。

    世間にも気をつかい 、細かな我慢を重ね 、時には小さな不

   正にも加担し 、怠けたり 、こっそり小さな愉しみを見つけ

   たりという 『 なごやかな人生 』 などに安住しようもな

   女性の生涯なのであった 。

    この脚色は 、一口にいえば 、鍛えられた 。なまはんか

   ものを書こうものなら激しい作者に𠮟りつけられそうで 、

   おびえながら書いた 。なにしろ私はといえば 、その 『 ひ

   とふりの刀の重さほども値しない男 』 の一人だから 、主

   人公の台詞ひとつひとつが私に向けられているようで 、

   叱咤の台詞を自分で書いて自分でへこんで 、あやまって 、

   時には𠮟りつける主人公と一体化したような錯覚があった

   りして 、やり甲斐のある仕事だった 。

    主人公のキヲは 、中原ひとみさんだった 。当時はもう

   可愛い少女ではなかったが 、それでも明るく柔らかな

   象の女優さんを 、強さのかたまりのような女性に配役した

   木下さんの感覚もすばらしかった 。老婆になるまでを 、

   見事に中原さんは 、やり通した 。春川ますみさんが演じ

   た 、ドサリとしたたかな嫁との激しい闘いのシーンなど

   も忘れられない 。もしこれが映画だったら 、木下恵介

   監督の代表作の一つになったかもしれないと 、ひそかに

   思っている 。

    というような訳で 、その後の私はこの作品にいくらか

   しばられている 。 」

  「 バナナをすすめられて 、欲しくないといった 。それは

   本心だった 。知らない人から簡単にものを貰って食べて

   いいのか 、という用心もある 。

    しかし 、気軽に他の二人が 『 おぃしい 』 『 食べなさい

   よ 』 と言い出すと 『 じゃあ 』 といって手を出してしま

   うのが 、まあ 、本来の私かも知れなかった 。しかし 、

   そこで 『 女と刀 』 の叱咤が甦るのである 。欲しくない

   なら 、その 『 こころ 』 を貫ぬけ 、と 。

    すると 『 あんた大人気ないよ 』 とかいわれはじめる 。

   次第に窓際のバナナが踏み絵のようになって来る 。

    つまり 、たちまち 『 なごやかになれる人 』 は 『 なご

   やかになれない人 』 を非難し排除しがちだから怖い

   いったのだった 。

    そのあとどうしたかは 、元の随筆でも書いていない 。

   途中の藤沢で老人が立上り 『 あんたがいらないなら私が

   貰うよ 』 とそのバナナをとって 『 ありがとね 』 と中年

   男に礼をいっておりて行った 。こういうのを見事というの

   だろう 。中年男と若い娘は雑談を続け 、共に横浜でおりて

   行った 。私はそれだけで疲れて 、『 女と刀 』 をやるのは

   大変だよ 、と溜息をつきながら川崎でおりた 。 」

   (  山田太一著 「 月日の残像 」新潮文庫 所収  )

   引用おわり 。

   ( ´_ゝ`)

     湘南電車の乗客四人のやりとり 、今の言葉でいうなら「 同調

   圧力 」。コロナ禍で右往左往していた頃 、よく使われた言葉 。

    人は忘れやすい生き物 。

    コロナなんてあったっけ 、地震なんてあったっけ 。

 

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