今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 朽木 ( くつき ) 渓谷 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 信長のおもしろさは桶狭間の奇襲や 、長篠の戦いの火力戦を
創案し 、同時にそれを演じたというところに象徴されてもいいが 、
しかし 、それだけでは信長の凄みがわかりにくい 。この天才の凄
みはむしろ朽木街道を疾風のごとく退却して行ったところにあるで
あろう 。 」
「 信長は 、越前 ( 福井県・朝倉氏の本拠 ) を攻略した 。ときに信長
は三十七歳で 、同盟軍の徳川家康二十九歳の三河兵までかり催し 、
空前の大軍を編成して敦賀に集結した 。敦賀という土地は敦賀湾に
面して背後左右に山がせまり 、湾に面した平地がひどくせまい 。
その狭隘地へ軍勢が充満したありさまはものすごいばかりで 、その
熱気だけで 、敦賀のまわりの諸城が陥ちてしまった 。あとは東方に
そびえる木の芽峠の嶮をこえて越前平野に攻め入るばかりという時期 、
『 近江の浅井氏が 、敵にまわった 』 という報に接した 。
信長は猜疑ぶかいたちであったが 、このことばかりは 、とっさに
信ぜられぬといった表情だったといわれる 。 」
「 信長は 、退路を断たれた 。
このころ岐阜が信長の軍事的本拠で 、京都がその政治的本拠だったが 、
その岐阜 ― 敦賀間に 、浅井氏がいる 。敦賀にいる信長の背後の山河
はことごとく敵になったといっていい 。
敦賀の信長とその大軍は 、朝倉・浅井のはさみうちを受けるという
かたちになった 。包囲されて 、北方の敦賀湾に掃くようにして追い
おとされるという形勢になる 。
こういう状況下に置かれた場合 、日本歴史のたれをこの条件の中に
入れても 、信長のような蒸発 ( という表現が恰好であろう ) を遂げる
ような離れ業をやるかどうか 。 」
「 信長には 、参謀がない 。かれ一個の頭脳によって構成されていた 。
その処女作である桶狭間の奇襲以外は 、かれは無理ということをいっ
さいせず 、つねに堅牢な力学的計算の上に戦略が成立していた 。その
計算の数式の一要素が欠けても 、かれは行動をはじめなかった 。この
越前朝倉攻めは 、―― 北近江の浅井氏は中立する 。
ということを要素として構成した 。その要素がにわかに消滅して逆に
敵側の要素になったとき 、この人物は 、惜しげもなく作戦のすべてを
すてたのである 。 」
「 その行動はまったくの蒸発であった 。身辺のわずかな者に言いのこし 、
供数人をつれて味方にもいわず 、敦賀から逐電したのである 。信長は
中世をぶちやぶって 、近世をまねきよせようとした 。時代を興す人間
というのは 、おのれ一己のかっこ悪さやよさなどという些事に 、あた
まからかまっていないものであるらしい 。
同盟者の家康にさえ告げなかった 。家康は木の芽峠寄りの最前線にい
た 。もっとも危険な場所に置きすてられた 。
大久保忠教 ( 彦左衛門 ) が書いた『 三河物語 』にはこのときのことを 、
『 信長は 、家康を捨て置き給い 、沙汰もなしに退却された 。それが 、
夕刻のことである 。夜があけて朝になってから 、木下藤吉郎 ( 秀吉 )
のほうから使いがきて 、事情がわかった 』
と書いている 。秀吉も捨ておかれた 。ただし秀吉は信長の蒸発を早く
に知っており 、みずから志願して 、全軍退却の殿軍 ( しんがり ) をつと
めた 。殿軍は追撃軍を一手にひきうけねばならず 、全滅を覚悟せねば
ならない 。 」
「 『 どの経路をとるか 』
であった 。岐阜には帰れない 。京都ならなんとか帰れる 。ただし京都
に帰れるとしても 、湖北から湖東にかけては近畿最強といわれる浅井氏
の江州兵が充満していて 、ふつうの経路はとれない 。
『 朽木越え以外にはありませぬ 』
といってすすめたのが 、戦国きっての悪党といわれる松永久秀 ( 弾正 )
であった 。かれは京都西岡 ( にしのおか ) の出身といわれ 、かつて京都
を支配していた阿波の三好長慶の祐筆 ( 秘書 ) になり 、謀臣になり 、
やがて主家をしのぐ勢いになり 、足利将軍義輝を不意に攻めてこれを
殺し 、ついには主家の三好氏を没落させ 、大和一国のぬしになったが 、
東方から織田氏が勃興してきたため 、敵しがたいとみてすすんで帰属
した 。信長はこの松永久秀という人物の骨のずいまで見ぬいて使って
いるところがあったが 、ただ信長はその他人に恨みを買うことを恐れ
ぬ性質のため 、松永久秀を満座の前で 、『 この老人はその生涯でひと
のやれぬことを三度やった人よ 』
と 、その悪党ぶりをからかったことがある 。松永は深くそれを恨んだ
らしいことはのちのかれの反乱によってもわかるが 、しかしこの敦賀
の時期は 、信長の勢いに巻かれて 、しおらしく身辺に持していた 。
この久秀が 、
『 朽木 』
という耳なれぬ地名を口にしたのは 、根が京都人でもあり 、天下の
群雄割拠時代に京都を支配していた時期も長かったから 、京都から
若狭 ( 福井県西部 ) へ抜ける間道として 、湖西に南北ニ〇キロにおよ
ぶ『 朽木谷 』という長大な渓谷があるのを知っており 、その谷底を
ひとすじの古道が走っていて 、途中人里もあることを知っていたので
ある 。その間道は 、信長にとって意外にも 、京都の北東の八瀬・大
原に入ってくるという 。
信長が 、久秀を信用したというのは 、ひとつは火急の場合ということ
もあるし 、いまひとつはやはり人の将になる男だけに 、その猜疑ぶか
い性格とはべつの機能として 、人の心を楽天的に値踏みできて信用する
という 、矛盾した巨大な性格が信長にあったからであろう 。事実 、久
秀はこのとき『 蒸発 』する信長をもって 、かれの衰運であるとは見な
かった 。むしろ積極的に信長に自分の誠実さを売ろうとした形跡がある 。」
引用おわり 。