「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・09・13

2013-09-13 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「生れてはじめて住んだ家」より。

「人間の死体というものを、はじめて見たのは、ちょうど五十年前の夏の朝だった。前夜の空襲で全焼した街には、いろんな死体が、いろんな姿で夏の陽光に照らされて転がっていた。私は十歳になっていた。たまたま、それまで近親に死んだ人がいなかったので、それはひどい衝撃でなければおかしいのに、私はそれほどではなかった。母の手をしっかり握ってはいたが、私の胸はさほど波立っていたとは思わない。――それよりも私は、何時間か前の夜空を思い出していた。逃げ惑う私たちの上に広がる夜空には、戦果を確かめていま帰ろうとしているアメリカ機の編隊があった。一つの市が丸ごと燃えている炎を映して、銀色の飛行機たちは、キラキラ輝いて美しかった。こんなきれいなものを見た記憶が、私にはなかった。私は、この美しいものを、いつまでも見ていたいと願った。その希みが届いたのか、銀色の鳥たちは、映画のスロー・モーションのように、ゆっくりと赤い空を過(よぎ)っていた。街が燃える音や、飛行機のエンジンの音や、きっとそこには恐ろしいくらいの音があったはずなのに、私の耳には何も聞こえなかった。むしろそれは、長い、長い静寂だったような気がする。私は、その静寂の中で、泣いていたのかもしれない。
 この世のものとも思えなかった美しさと、目の前の死体たちとが、どうしても私には結びつかなかったのだろう。唐突なようでもあり、妙に当り前のようでもある、この二つのものの関係は、その後ずっと私の中に、どうにも厄介な拘(こだわ)りとして残りつづけることになる。なぜあの飛行機たちは、あんなにも美しかったのか、どうしてあの死体たちは、怖くなかったのか。――半世紀経ったいまでも、私はその不思議について考えている。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする