今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「生れてはじめて住んだ家」より。
「何にでも、《はじめて》がある。《はじめて》があって、そこから続きがはじまり、やがていつか終わる。記憶がなくたって、《はじめて》はあったはずである。たとえば、私は生れて数分後に、母親との初対面をしたに違いない。私の場合、自分の家で産婆さんに取り上げられたから、それは数秒後だったかもしれない。温かいお湯を張った盥(たらい)から抱き上げられ、タオルか産着(うぶぎ)にくるまれて、四月の朝の光の中で、私は母と《はじめて》会ったわけである。それから六十年、母と子の歴史があって、どっちが先にいくかは知らないが、やがて二人は別れていくことになる。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「何にでも、《はじめて》がある。《はじめて》があって、そこから続きがはじまり、やがていつか終わる。記憶がなくたって、《はじめて》はあったはずである。たとえば、私は生れて数分後に、母親との初対面をしたに違いない。私の場合、自分の家で産婆さんに取り上げられたから、それは数秒後だったかもしれない。温かいお湯を張った盥(たらい)から抱き上げられ、タオルか産着(うぶぎ)にくるまれて、四月の朝の光の中で、私は母と《はじめて》会ったわけである。それから六十年、母と子の歴史があって、どっちが先にいくかは知らないが、やがて二人は別れていくことになる。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)