夢!進行形。港が見える丘ガーデン

ミントさんの庭に憧れて、少しでもブルーガーデンに近づけるように日々奮闘する田舎のおばちゃんの日記です。

大阪中之島美術館 & モディリアーニ

2022年06月18日 20時20分34秒 | 美術鑑賞



さあ今日は雨もまずまずで
京都から大阪に向けて出発です。

構想から40年、今年の2月ついにオープンした
大阪市中之島美術館



美術館にしては珍しい黒い外観

そこに現れる



ネコは「シップス・キャット」と呼ばれ



ヤノベケンジさんの作品です。

さあ中に入ってみましょう。



モディリアーニ
愛と創作に捧げた35年―


以下は東京美術の「もっと知りたいモディリアーニ」
から一部引用しました。

(1884年~1920年)

モディリアーニはイタリアのトスカーナ地方の港町、
リヴォルノで、父方は鉱山を経営する実業家
母方は銀行家の比較的に裕福な家庭に生まれました。

彫刻家を目指していたこともあり
中央アフリカのガボンの仮面から影響を受け

(1911,12年頃)

この様な頭部の彫刻を残しています。
この頃からあのモディリアーニ独特の、顔の長い
人物像を描くようになりました。


1918年頃 おさげ髪の少女

ドイツ軍からの砲撃を逃れ
パリから南仏のニースに移り住む。
そこでは農夫や子供を描きました。

1918年頃 若い農夫

珍しく風景画も残しています。

1916年末頃、ジャンヌ・エビュテルヌと出会い
1917年6月、一緒に暮らし始める。

1919年 ジャンヌ・エビュテルヌの肖像


1917年 大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ


1917年 青い眼の女(ジャンヌ・エビュテルヌ)

この様にモディリアーニは、ジャンヌ・エビュテルヌを
数々描いています。
彼女を機縁として自らの創作の可能性をいかに
追求できるか、つまりジャンヌはモディリアーニの
芸術上の冒険を支える、あまりに繊細ながらも
ただひとりの確かな存在でした。



ニース滞在中に娘ジャンヌを出産。

1919年 自画像

明らかに自らの死期を悟って描いた自画像。
パレットや上着の念の入つた描写が目立つのに対し
顔は表情に乏しく、自画像でありながら自らを
内面まで掘り下げて描き表すことを
拒んでいるかのようである。


貧困と肺結核の末
モディリアーニは35歳の若さで
1920年1月24日、結核性髄膜炎で
妻ジャンヌのそばで亡くなる。

モディリアーニの死後、放心状態の彼女を家族が
自宅に連れて帰りましたが、モディリアーニの死の
2日後、彼女は妊娠9ヶ月だったにもかかわらず
5階の窓から身を投げてしまいます。

ジャンヌ・エビュテルヌは自らも画家であり
また藤田嗣治のモデルもしていました。


彼女はモディリアーニに描かれることで
愛を感じ、モディリアーニもジャンヌを描くことに
よって、彼の芸術を完結させたといえましょう。



モディリアーニに酔いしれた後は
お腹もすいてきたので・・・・
中之島美術館の直ぐそばにある


リーガロイヤルホテルの14階にある


皇家龍鳳でランチをいただきますよ~



写真を撮るのを忘れて半分かじった大根もち
舌を焼きそうなほど熱々の春巻き
どちらもおいひ~い!


クラゲ、鶏、えび
だったと思います。これも美味しかった。


鶏の皮と・・・・何だったっけ


右側はタイチリソース味
左側はマンゴーマヨネーズ味、濃厚~
これも美味い。


餡かけ焼きそば
これだけいまいちでした。


デザートのありふれた杏仁豆腐。
ところが
今まで食べた杏仁豆腐は何だったんだ~と
思うほど超美味しかったのよ。


お腹も美味しいものでいっぱいになったことだし
バスに乗って高知への帰路につきます。

それにしても
芸術を堪能し、美味しいお食事も堪能した
充実の2日間でした。

でもですよ
ただ一つ残念だったことがありました。
それはバスの発車時間に遅れてくる人が・・・・
それも同じ人が2回も。
ホテルからの出発時間が来ても
ルームキーを紛失して、返せなかったり・・・・
団体行動の鉄則は時間厳守
人に迷惑をかけないこと。

それにしても利用した2つのホテルの
従業員の方のサービスが良かったのよ。
これもコロナ渦で利用客が減っているせいでしょうか?


一人お留守番をしている
おっさん2のために
桂川サービスエリアで大好きな赤福
買いましたよ。
お陰で楽しい1泊旅行でした。


今日も来てくださってありがとうございます。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿