記紀を読むと神武天皇がたどり着いたのは葛城で、秋津島、と褒め称えたながめは、葛城・金剛の山並み。その後、崇神天皇の頃、中心地は三輪山の麓あたりに移り、敷島と呼ぶ。
天智天皇は葛城皇子と言われたくらいだから、葛城本流だ。
ちなみに葛城の考古学的発掘調査からでは、4世紀ころの製鉄民としての集団より前のものはまだなく、新しい。
箸墓は3世紀半ばだから、神武天皇到着が本当なら、もっと古くないと話が合わない。
神武天皇に先行してニギハヤヒがヤマトにきていた、とされ、神武とニギハヤヒは同じ天孫族ともされる。
葛城という場所もいまいち訳がわからない。三輪山とは奈良盆地を挟んだ向かい側で、吉野とはだいぶ離れている。大阪平野から隠れるように住む場所を選んだように思うのだが…
天智天皇は葛城皇子と言われたくらいだから、葛城本流だ。
ちなみに葛城の考古学的発掘調査からでは、4世紀ころの製鉄民としての集団より前のものはまだなく、新しい。
箸墓は3世紀半ばだから、神武天皇到着が本当なら、もっと古くないと話が合わない。
神武天皇に先行してニギハヤヒがヤマトにきていた、とされ、神武とニギハヤヒは同じ天孫族ともされる。
葛城という場所もいまいち訳がわからない。三輪山とは奈良盆地を挟んだ向かい側で、吉野とはだいぶ離れている。大阪平野から隠れるように住む場所を選んだように思うのだが…