出演:ヴィクトル・シェストレム, イングリッド・チューリン
『野いちご』、観ました。
細菌学者のイーサクは名誉博士号を授与されることになったが、その夜不快な
夢を見てしまう。死への怯えである。不仲が伝えられる息子の嫁と、車で出掛け、
途中で若い頃に過ごした別荘に寄るが、そこの野いちごの群がイーサクを過去に
誘う‥‥。
まだ若い頃に観てピンとこなかったクラシックの名作が、月日が経って改めて
観直したとき、初めて(その作品の持つ)“本当の意味”に気付かされることがある。
まして、この『野いちご』は“老い”と“孤独”がテーマの中核にあるからして、
当時20歳を過ぎたばかりのボクに理解出来なかったのも無理はない。主人公の、
死に怯える孤独な老人に“憐れみ”に似た同情をよせることは出来ても、当時の
(若い)自分には縁もゆかりもない、かけ離れたものに感じられた。だけど、あれから
ボクも随分と歳を取り、今は彼の姿を“未来の自分”に置き換えてみると怖くて
怖くて堪らない。考えてみれば、人の一生とは…、主人公の、それまで生きてきた
人生は何だったのだろうか。真実の愛と引き換えに、手に入れたのは偽りの愛…、
後は圧し掛かってくる“孤独”に耐え、忍び寄る“死の恐怖”に怯えて生きるだけ。
今さらながら、過ぎ去った人生の時間がひどく無意味なものに思えてくる。この
映画で感心させられるのは、現実と幻想、または現在と過去とが、巧みに交錯する
物語構成もさることながら、的確に配置された人物設定によって、主人公の心の
内側に隠された“人生の孤独”を浮き彫りにして描いていく点だ。例えば、旅の
途中で夏の別荘地跡に立ち寄り、主人公が野いちごの幻想から覚めて最初に出会う
3人の若者達は、1人の女性を正反対の男性2人が奪い合う――、若き日の主人公と
サーラ、それに弟のシーグフリドの関係。また、次に出会う、言い争いの耐えない
中年の夫婦は、かつての夫婦生活で確執の多かった、主人公とその妻の関係に
他ならない。そして、そんな“主人公の分身”ともいうべき中年男が、夢の世界
にまで登場し、遠い記憶の彼方から“妻の不遇の場面”に誘(いざな)っていくのが
恐ろしくもあり残酷だ。つまり、ここで主人公が出会う旅人達は、彼がこれまで
歩んできた“人生を映した鏡”なのだ。ベルイマンの演出は、その過程で主人公の
隠された本性を暴き出し、《偽善》という“偽りの仮面”を剥(は)いでいく。ただし、
この映画で唯一の例外として、主人公と対になって描かれている人物が一人だけいる、
メイドのアグダだ。主人公の老人とほぼ同年代だが、学はなく、(ここで見る限り)
近くに身寄りもいない彼女――。映画終盤、そんな彼女に主人公は冗談交じりに言う、
「私と君は、もう何十年もの付き合いだ。そろそろ名前で呼んでも良い頃だ」。すると、
彼女は、またいつもの調子で「先生は先生。呼び捨てなんてとんでもない。」と。
その瞬間、主人公ははたと気付いたように、晴れやかな顔になる。主人公は常に
“過去”を悔やみ、その過去に縛られ、逃れられずに生きてきた。しかし、アグダが
見ているのは、まぐれもなく“現在(いま)”‥‥、今宵、名誉ある賞を受賞した
博士である主人公の姿なのだ。やがてベッドに入り、眠りにつく主人公の寝顔が、
今夜ばかりはどこか誇らしく、安らかに感じられる。その記憶は懐かしい故郷の風に
乗り、優しかった両親の元へ帰還していくようだった。
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