ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕 【江戸期の俳人たち】  榎本好宏 飯塚書店

2009年09月26日 | 〔09 七五の読後〕
 【江戸期の俳人たち】  榎本好宏 飯塚書店

★ 目には青葉山ほととぎす初鰹 /素堂
これがいつしか 目に青葉、やまほととぎす、初鰹のリズムと変って覚えていた。
所詮、私の鑑賞観というのもこの程度のものだ。

★ 目と耳はいかが口には銭がいり/柳多留
という冷やかしもあった。
素堂という人、蕉門の客分的扱いの人だったという。

★ 越後屋にきぬさく音や更衣え /基角
「雨後」の前置きがあって作られた句。
衣替えの雨の季節に日本橋の越後屋からは、呼び声、話声、試着の音までも聞こえてくるという寸描。
伊達好みで洒落者でもあった基角は晩年芭蕉とはしっくりいかないこともあり蕉門からは遠ざかったとのこと。

★ 一鹽にはつ白魚や雪の前/杉風
この句は魚問屋「鯉屋」主人の作。
杉風は芭蕉翁を深川から臨終までを看取った人。
佃島の白魚漁は冬から初春にかけて行われた。
この句をどう解し、どう詠むのか。
露伴は「一鹽は一潮とありたし」とし上げ潮から川へやってくる初白魚と解した。
詩人の安東次男はひとつまみの塩だからこそ「はつ白魚」の風情が添うと解したと著者は紹介している。
杉風の心根を探るうえでの作家と詩人の違いもあって、だから俳句鑑賞は面白いとしているが、一読者には、そんな料簡のレベルには到達できそうもない。

★ かさねとは八重撫子の名成べし /曽良
 「小さきものふたり、馬のあとに慕ひて走る。一人は小姫にて、名を「かさね」と言ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、」
何度か読んだ「奥の細道」の那須野ー小姫かさね の一章だ。
本棚から取り出して読んでみた。
八重なでしこが句になっているので、何枚か重ねた衣装を連想しがちだが、「最後の一枚を白にする薄様」のように「かさね」には、におやかな情感が繊細にこめられていると著者は言う。なるほどねぇ。
● 発句とは客から主人に贈られて
● 脇句とは客に応えるあいさつ句
うした俳諧連句のことも私はうろおぼえの状態だからとてもこの卓見鑑賞との距離はだいぶ有る。

★ あき風やしら木の弓に弦はらし 
★ 鎧着てつかれためさん土用干 /去来  
若くして武士の身分をすてた蕉門十哲の一人、向井去来。
去来という人は 天文、暦学、神道、歌学までを身に付けながら句には武を選んでいて清清しい。 
嵯峨野の落柿舎をおとづれたのは3年前の紅葉の頃だったか。
玄関脇の土壁に在宅を知らせると云う蓑と笠が掛けてあった演出が印象的だった。
25年前に冬の落柿舎に入ったときは、案内表示が無ければ見過ごしてしまうほどの小さな墓が、実は去来のものであったことに驚いた。

● 杉戸宿 雪つむ上の夜の雨
これは凡兆の
★ 下京や雪つむ上の夜の雨
の上句を勝手に変えて口ずさんでみたもの。
 「雪つむ上の夜の雨」のリズム感がいい。
 同じようなリズムに「根岸の里の侘住居」というのもあった。 落語家・入船亭扇橋が詠んだ句だ。
これを用いると、「降る雪や」「初雪や」「降る雨や」を上につければ「なんとなく俳句らしく聞こえるでしょう」と、引退した圓楽さんが「茶の湯」のまくらで喋っていたことをふと思い出した。
上の句に下京とすることに芭蕉はこだわり、作者の凡兆はそれに不満だった由。
加賀の人、凡兆は、後年芭蕉から遠ざかり投獄なども体験、晩年は極貧不遇なうちに一生を終えたとのこと。
 【悪党芭蕉】嵐山 光三郎 (新潮社)に凡兆の句がいくつか紹介されていたが、好きな句が多かった。

★二、三枚絵馬見て晴るる時雨かな /也有
驟雨の雨宿り。
そのスケッチ的作品だが、わかりやすいからいい句だ。
以前から、この横井也有という人の生き様に関心があった。
也有は赤穂浪士の討入があった元禄15年(1702)に名古屋に生れた。
芭蕉が没して8年後の誕生となる。
尾張藩の重臣の家柄で也有26歳の時千石の家領を継ぎ、藩御用人や寺社奉行の要職にも就いた。
五十代になって支考の門を叩き、句に親しむほか和歌、漢詩、絵画にも親しんだという。
永井荷風は「日本の文明滅びざるかぎり、日本の言語に漢字の用あるかぎり、千年の後と雖も必ず日本文の模範となるべきもの」と也有の『鶉衣』を絶賛している。
未読だから一度読んでみたい。
也有の句がほかにも紹介されていた。
★ 足もとの豆盗まるる案山子かな
なんか寓話的味わい。
★ くさめして見失うたる雲雀かな
この人、花粉症だったかもしれない。
也有の句は、臨機応変に作るおおらかさがあり、あたたかみのある軽いところが好きだ。

● 小と多を結んで見せた健康訓
三十年前、岩槻から杉戸に引越した時、也有の十訓を知ってカミさんに書いてもらって鴨居の上に掲げた。
この人は人生の達人だ。以下のことばは、そのまま平成21年の御世にも通じている。

一、少肉多菜

一、少塩多酢

一、少糖多果


一、少食多齟


一、少衣多浴


一、少車多歩


一、少煩多眠


一、少念多笑


一、少言多行


一、少欲多施


★ 朝顔に釣瓶とられてもらひ水/加賀千代女
以前からこの句をくちずさむ時、なぜかひっかかる。
句は可憐な朝顔を読み込んでいるのか。
「もらひ水」をした千代さんの優しい心を言いたいのか。
子規は「俗気多くして俳句とはいふべからず」ときびしかったそうだが、このあたりのことを指していたのか。

★ 蜻蛉釣り今日は何処まで行ったやら
この句は、ご存じ加賀の千代女とひとつ覚えにおぼえていたが、「千代女の句でない根拠」があると本文で指摘されて、あれっと思う。
千代女と也有は一歳違い。赤穂浪士が本懐を遂げた翌年の元禄16年に生まれている。

★ 憂きことを海月に語る海鼠かな /召波
おめえはいいよ のんびり泳いで誰にも獲られない。
オレなんか砂に潜って隠れてても引っぱり出されて結局、三杯酢にされちゃうんだから。
愚痴る底のナマコと波上のクラゲがいる海の広さまで感じながら笑っちゃう句。
こういう句が好きだ。
この召波という人は、蕪村門下の俊秀の人だったという。
その他界を蕪村が
「我俳諧西せり」と嘆じた一文を本文から以下に。

 「預め終焉の期をさし、余を招て手を握て曰。叟とヽもに流行を同じくせざることを。と言終て涙潜然として泉下に帰しぬ。余三たび泣て曰。我俳諧西せり。我俳諧西せり。」

俳句の新運動にいっしょに参画できなかったのは残念と言い置いて絶息した召波に「蕪村は三たび号泣して、私の俳諧は西方浄土に去ってしまったと悲嘆にくれます」と著者は解説してくれた。
蕪村に心酔した召波の臨終のドラマは涙を誘う。

■■ ジッタン・メモ
著者の榎本さんとは、勤め先がおなじだった。
かって有楽町の銀座に新聞社の旧社屋があり、紫煙と喧騒の編集局の一角に著者はおられた。
お顔は存じ上げていたが、私よりは7つ年上の大先輩であり、食堂や廊下での行き違いはあっても口を聞いたことはない。
だが、酒友で親しい先輩たちからは、著者の俳句にまつわる挿話は何回か聞いた覚えがある。
読後になって、あっ、そうか、あの方だと思い当たった。

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