【武士の家計簿】磯田 道史 新潮新書
● 古文書の販売録で目が点に
神田古書店から取り寄せた販売目録に著者の目が釘付けになった。以下はその内容。
金沢藩 猪山家文書
入沸帳・給録証書・明治期書状他 天保~明治 一函十五万円也 天保13(1842)~明治12(1875) 36年分の猪山家記録
著者は、大枚15万円をはたいてこの古文書を購入。
虫食いが多く、読みづらかったそうだが、天保から明治までの36年間を刻んだ貴重な文書だ。
猪山家三代に亘っての記録を読んで分析した著者の手腕から、加賀藩士の暮らしぶりが鮮やかに再現された。
2003年、著者32歳のときに、この『武士の家計簿』は第2回新潮ドキュメント賞を受賞。
天保から明治までを駆け抜けた猪山家の算盤技術。
加賀藩の経営に参画した事務方官僚の卓抜さと、自ら付けた家計記録の歩みは当時共感を呼んで8万部の小ベストセラーになった。
定年1年前の私はそれに気付かず、還暦の夏の自適な暮らしをただひたすら待っていた。
●前田家は算勘技術を家風とし
これは、家風というより藩風といってもいい。
藩校「明倫堂」で算学・測量・天文学などを学ばせたが、その計算機はいづれも算盤だったろう。
今年は46年ぶりに皆既日食が観察されて話題になったが、209年前の加賀藩が日食の記録を残していて、それがコンピューター並み正確さであったことが地元紙で紹介された(2009/7/17 北國新聞)
加賀藩は経理と会計のプロとも言うべき御算用者(おさんようもの)を多く召抱えていた。
私が勤めた会社にもこうしたプロ集団がいた。
経理局のメンバーがそれで昭和40年代はじめは、まだパチパチとソロバンを弾いてたが、なかには1級建築士の資格をとった人もいて驚いた。
● 百万石 算盤係が家計簿も
その御算用者の中に猪山信之、直之(信之の嫡男)成之(直之の嫡男)がいた。
武士は代々の家録で、その給金は家につく。
実務系の下士の出世は機会と能力に恵まれることが肝要。
猪山家はその実力に恵まれた。
●赤門建て 知行取りへの出世道
著者の集めた古文書の一節
一、新知七拾石 猪山金蔵 金蔵儀、数年かれこれ役儀に情けを入れ、あい勤め候に付き、かくの如く新知これをくだされ、「溶姫君様ご住居付御勘定役」仰せ付けられる。只今迄、下し置かれ候切米は、これをさし除かる。
ここの「金蔵」さんは猪山金蔵信之のこと。
「溶姫」さんは徳川将軍家斉の娘。信之が有名になったのは、この姫君が加賀藩藩主の前田斉泰に嫁いだ際に建てた門にある。
これが東大の「赤門」だ。
正式の名は「旧加賀屋敷御守殿門」で国の重要文化財になっている。私も何度か見た門だ。
だから、本郷の東大キャンパスは、そのまま元、加賀藩前田家の上屋敷跡だ。
この一大イベントに伴う加賀藩の莫大な費用の切り盛りを信之が見事に果たしたことなどから知行地を与えられ七十石の藩士となった。
御勘定役となって溶姫側の身の周りの櫛、簪、硯箱までなど細部を含めた会計処理にもあたる。
ただ、江戸詰めという二重生活もあって、借金は嵩み本人側の内情は苦しい。
●ご嫡男 ご隠居さまの書記官に
直之も優秀で、マネジメントぶりが買われやがて藩主ご隠居の傍に仕える。
御次執筆という言わば秘書書記官のような存在になる。
仕事が経理であったため、自分の家でも緻密に家計簿をつけた。
その目的は多くの借金を抱えどうしていくかにもあった。
● 猪山家 年収2倍の借金が
江戸詰めの二重生活はきびしい。
直之は玄米22石と銀343匁を年2回に分けて支給されていたが、これで家格にあう生活は難しい。
彼には、年収の2倍をこえる借金があり、年18%の高利に苦しむ。
利子だけで年収の3分の1を充てなければならない。
● 親族の金子で支える武家社会
資金繰りに強力な味方は親族。
家禄では由緒筋目がものを言うから養子取りの相談など親類の付き合いは深い。
● 身内から町人からもカネを借り
当時の武士たちはどこからカネを借りていたのか。
天保13年の武士の負債からの割り出しによれば
町人 47・9%
役所9・6%
親類 31・1%
親類外 8.9%
村方 1・6%。
また天保14年7月の両替データから現在に換算した著者の考えがあったので備忘録として以下に。
小判一両=30万円
銀一匁=4000円
銭1文=47・6円
身内からの借金の割合が多く、役所からの援助は少ないことがわかる。
また武士は相身互いというわけで頼母子講もあったらしい。
相互扶助入札で順次カネを融通しあう。
村方というのは、知行地の農民から融通させるものだが、年貢米の上納を担保としている。
● 道具屋へ家財を売って 蝉時雨
サラ金などで借金地獄に苦しむ現在の様相は天保年間にもあったわけだ。
天保13年8月 勝手向仕方ニ付、着類并諸道具払物代并与三八様より御合力銀等覚帳
の記録文がある。
借金精算のために親族会議も開かれ、道具屋を呼び財産の処分を断行した。
著者はこの財産売却のリストをExcel(エクセル)を使って計算している。
財産は、唐詩選などの書籍。机、丸あんどん、赤絵徳利、 やくわん(薬缶)など。
薬缶などは7万2000円の値が付く。
蒔絵吸い物茶碗などの食器、茶道具などすべてを現在に換算すると計10255680円。
1025万円の金額。
● ご祝儀が身を軽くする秋の風
厖大な借金の内実は何か。
もののふの羽振りは祝儀交際費、だったらしい。
内情は嫁・姑の着物の買い物もまかりならずの状態なのに、なけなしのカネをはたいて祝いの鯛は買う。
祝儀交際費に最大の気をつかい親類、士族に接する。
それが家格と身分の証になる。
赤飯と鯛を欠かさず先祖、親類、神仏への年中祭事とした。
冠婚葬祭で葬儀などに費やす費用は年収の4分の1を使ったとのこと。
● 草履取り 暮らし向きは気が楽で
草履取りの暮らし向きは、ご主人さまより気楽だったようだ。
食事と衣服は与えられ給銀は83匁あり、月々50文の小遣いまで出る。
そのほかに祝儀金もあり、親元に帰ればそれなりの田畑もある。しょっちゅう土下座はしなくてはならないが、懐は、なにそれほどは苦しくはない。
給金ということばがあるが、東日本では金遣いの小判、西日本では銀何匁の世界だったらしい。
● 袴とは ご身分語る大道具
お刀よりも袴のほうが身分を語ることがあるようだ。
袴は同心や足軽のような一代限りの下っ端には許されない衣服であることをこの本で知った。
● 成之は 火吹き達磨に見込まれて
直之嫡男の成之は、幕末の世を生き、大村益次郎にヘッドハンティングされ 新政府軍会計方に任命された。
「兵を動かす天才」と司馬遼太郎は大村益次郎こと火吹き達磨の才能を高く評したが、軍事の補給、兵站、その総てに成之は信頼された。
大村のほうは元から加賀藩の御算用者の実力を知っていた節がある。
靖国神社の「大村益次郎」像の建立の中心人物は成之だったとのこと。
猪山成之は明治3年に海軍掛となって日本海軍の会計の任を担う。海軍省7等官となり大いに出世したとのこと。
ご尊父やご祖父もさぞお喜びになられたことだろう。
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● 古文書の販売録で目が点に
神田古書店から取り寄せた販売目録に著者の目が釘付けになった。以下はその内容。
金沢藩 猪山家文書
入沸帳・給録証書・明治期書状他 天保~明治 一函十五万円也 天保13(1842)~明治12(1875) 36年分の猪山家記録
著者は、大枚15万円をはたいてこの古文書を購入。
虫食いが多く、読みづらかったそうだが、天保から明治までの36年間を刻んだ貴重な文書だ。
猪山家三代に亘っての記録を読んで分析した著者の手腕から、加賀藩士の暮らしぶりが鮮やかに再現された。
2003年、著者32歳のときに、この『武士の家計簿』は第2回新潮ドキュメント賞を受賞。
天保から明治までを駆け抜けた猪山家の算盤技術。
加賀藩の経営に参画した事務方官僚の卓抜さと、自ら付けた家計記録の歩みは当時共感を呼んで8万部の小ベストセラーになった。
定年1年前の私はそれに気付かず、還暦の夏の自適な暮らしをただひたすら待っていた。
●前田家は算勘技術を家風とし
これは、家風というより藩風といってもいい。
藩校「明倫堂」で算学・測量・天文学などを学ばせたが、その計算機はいづれも算盤だったろう。
今年は46年ぶりに皆既日食が観察されて話題になったが、209年前の加賀藩が日食の記録を残していて、それがコンピューター並み正確さであったことが地元紙で紹介された(2009/7/17 北國新聞)
加賀藩は経理と会計のプロとも言うべき御算用者(おさんようもの)を多く召抱えていた。
私が勤めた会社にもこうしたプロ集団がいた。
経理局のメンバーがそれで昭和40年代はじめは、まだパチパチとソロバンを弾いてたが、なかには1級建築士の資格をとった人もいて驚いた。
● 百万石 算盤係が家計簿も
その御算用者の中に猪山信之、直之(信之の嫡男)成之(直之の嫡男)がいた。
武士は代々の家録で、その給金は家につく。
実務系の下士の出世は機会と能力に恵まれることが肝要。
猪山家はその実力に恵まれた。
●赤門建て 知行取りへの出世道
著者の集めた古文書の一節
一、新知七拾石 猪山金蔵 金蔵儀、数年かれこれ役儀に情けを入れ、あい勤め候に付き、かくの如く新知これをくだされ、「溶姫君様ご住居付御勘定役」仰せ付けられる。只今迄、下し置かれ候切米は、これをさし除かる。
ここの「金蔵」さんは猪山金蔵信之のこと。
「溶姫」さんは徳川将軍家斉の娘。信之が有名になったのは、この姫君が加賀藩藩主の前田斉泰に嫁いだ際に建てた門にある。
これが東大の「赤門」だ。
正式の名は「旧加賀屋敷御守殿門」で国の重要文化財になっている。私も何度か見た門だ。
だから、本郷の東大キャンパスは、そのまま元、加賀藩前田家の上屋敷跡だ。
この一大イベントに伴う加賀藩の莫大な費用の切り盛りを信之が見事に果たしたことなどから知行地を与えられ七十石の藩士となった。
御勘定役となって溶姫側の身の周りの櫛、簪、硯箱までなど細部を含めた会計処理にもあたる。
ただ、江戸詰めという二重生活もあって、借金は嵩み本人側の内情は苦しい。
●ご嫡男 ご隠居さまの書記官に
直之も優秀で、マネジメントぶりが買われやがて藩主ご隠居の傍に仕える。
御次執筆という言わば秘書書記官のような存在になる。
仕事が経理であったため、自分の家でも緻密に家計簿をつけた。
その目的は多くの借金を抱えどうしていくかにもあった。
● 猪山家 年収2倍の借金が
江戸詰めの二重生活はきびしい。
直之は玄米22石と銀343匁を年2回に分けて支給されていたが、これで家格にあう生活は難しい。
彼には、年収の2倍をこえる借金があり、年18%の高利に苦しむ。
利子だけで年収の3分の1を充てなければならない。
● 親族の金子で支える武家社会
資金繰りに強力な味方は親族。
家禄では由緒筋目がものを言うから養子取りの相談など親類の付き合いは深い。
● 身内から町人からもカネを借り
当時の武士たちはどこからカネを借りていたのか。
天保13年の武士の負債からの割り出しによれば
町人 47・9%
役所9・6%
親類 31・1%
親類外 8.9%
村方 1・6%。
また天保14年7月の両替データから現在に換算した著者の考えがあったので備忘録として以下に。
小判一両=30万円
銀一匁=4000円
銭1文=47・6円
身内からの借金の割合が多く、役所からの援助は少ないことがわかる。
また武士は相身互いというわけで頼母子講もあったらしい。
相互扶助入札で順次カネを融通しあう。
村方というのは、知行地の農民から融通させるものだが、年貢米の上納を担保としている。
● 道具屋へ家財を売って 蝉時雨
サラ金などで借金地獄に苦しむ現在の様相は天保年間にもあったわけだ。
天保13年8月 勝手向仕方ニ付、着類并諸道具払物代并与三八様より御合力銀等覚帳
の記録文がある。
借金精算のために親族会議も開かれ、道具屋を呼び財産の処分を断行した。
著者はこの財産売却のリストをExcel(エクセル)を使って計算している。
財産は、唐詩選などの書籍。机、丸あんどん、赤絵徳利、 やくわん(薬缶)など。
薬缶などは7万2000円の値が付く。
蒔絵吸い物茶碗などの食器、茶道具などすべてを現在に換算すると計10255680円。
1025万円の金額。
● ご祝儀が身を軽くする秋の風
厖大な借金の内実は何か。
もののふの羽振りは祝儀交際費、だったらしい。
内情は嫁・姑の着物の買い物もまかりならずの状態なのに、なけなしのカネをはたいて祝いの鯛は買う。
祝儀交際費に最大の気をつかい親類、士族に接する。
それが家格と身分の証になる。
赤飯と鯛を欠かさず先祖、親類、神仏への年中祭事とした。
冠婚葬祭で葬儀などに費やす費用は年収の4分の1を使ったとのこと。
● 草履取り 暮らし向きは気が楽で
草履取りの暮らし向きは、ご主人さまより気楽だったようだ。
食事と衣服は与えられ給銀は83匁あり、月々50文の小遣いまで出る。
そのほかに祝儀金もあり、親元に帰ればそれなりの田畑もある。しょっちゅう土下座はしなくてはならないが、懐は、なにそれほどは苦しくはない。
給金ということばがあるが、東日本では金遣いの小判、西日本では銀何匁の世界だったらしい。
● 袴とは ご身分語る大道具
お刀よりも袴のほうが身分を語ることがあるようだ。
袴は同心や足軽のような一代限りの下っ端には許されない衣服であることをこの本で知った。
● 成之は 火吹き達磨に見込まれて
直之嫡男の成之は、幕末の世を生き、大村益次郎にヘッドハンティングされ 新政府軍会計方に任命された。
「兵を動かす天才」と司馬遼太郎は大村益次郎こと火吹き達磨の才能を高く評したが、軍事の補給、兵站、その総てに成之は信頼された。
大村のほうは元から加賀藩の御算用者の実力を知っていた節がある。
靖国神社の「大村益次郎」像の建立の中心人物は成之だったとのこと。
猪山成之は明治3年に海軍掛となって日本海軍の会計の任を担う。海軍省7等官となり大いに出世したとのこと。
ご尊父やご祖父もさぞお喜びになられたことだろう。
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