ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕 【庄屋日記にみる江戸の世相暮らし】 成松 佐恵子 ミネルヴァ書房 

2009年10月17日 | 〔09 七五の読後〕
【庄屋日記にみる江戸の世相暮らし】 
                                          成松 佐恵子 ミネルヴァ書房

この本と「超リタイア術」(野口悠紀雄 新潮社)を併読していたら、野口本のなかにこの「庄屋日記」が「大変面白い本」と評価され、4ページにわたって美濃の庄屋の暮らしぶりと共に紹介されていた。 また 「江戸農民の暮らしと人生」速見 融 麗澤大学出版会という本にも
 (「庄屋日記」)は、 「本書で取り扱った美濃西条村の庄屋(権兵衛)の江戸時代後期三代にわたる日記を材料として、江戸時代後期五十年間の人々の暮らしを明らかにしたもので、ぜひ本書と合わせ読まれることを」期待し、両書を併読することにより「当時の農民の生活像が生き生きと浮かび上がってくるだろう」としている。
この著者、速見さんは成松さんの師匠に当る人。
まさに、二人のおっしゃる通りで、この庄屋日記の分析は力が入った作品となり、しかも面白い。
著者の成松さん自身も庄屋日記の魅力にとりつかれ作品までには10年の歳月を費やしたとある。
著者の母方も代々庄屋を勤めた旧家だったそうで、研究への熱意は、そんなところにもあったらしい。

● 寺五つ 馬一匹の輪中村
天和9年(1683)の検地によれば美濃国安八郡楡俣村の石高は1571石五斗五升。 
ここは関が原の近くにある村だ。
天下分け目の大合戦で落ち武者などが周囲には出没した一帯が幕府直轄地となり、譜代大名の代替統治となって、郡奉行を筆頭に、代官・手代、郡方同心などが郡役所を構成した。
村には5つの寺があるがなぜか、これらがすべて浄土真宗寺。
男341人、 女331人が住む。 家数 178戸 (検地帳に登録された高持百姓は67戸 自分の田畑を持たない無高百姓は106戸 寺5)の構成。
京都・奈良方面への出稼ぎ者は95名で生活の糧を補っている。
ただ村は「商人村中壱人も無」い状態で、大工、桶屋が一人づついるという典型的な米作りだけの農村だ。
また楡俣村全体で馬一匹しかいないという記録には驚いた。
輪中という低湿地帯で、農耕馬がいないというのはたいへんな人出もかかるだろう、流れる汗も多かったろう。
村の北部を三十一間の中村川が流れている。 

文化9年(1812)年の調べによれば この村の半分に近い325人が同村内の西条村に住んでいる。
西条村とは親の楡俣村の枝村にあたっている。

● 権兵衛の名前で刻む庄屋録
この西条村に西松権兵衛という庄屋がいて公私にわたる日記を文化7年(1810)~ 明治17年までの60年間を記録した。
稀に見る貴重な史資料だが、この埋もれた山を取り崩しながら著者はみごとに美濃地方の庄屋を中心とした農村の暮らしを再現させた。
この庄屋・西松権兵衛は400年前より士分を捨てて土着化し、村の開拓に力を注いだ人らしい。
権兵衛の名前で代々世襲した。
他に旅日記や各種祝儀受納帳、香典帳などが残らず保存されて当時の暮らしぶりを知ることができる。

● 島津藩 苦闘涙の川普請
本には薩摩藩の木曽川・宝暦治水工事が紹介されているが、この話はいま私が参加している古文書輪読の会でも幾度か聞いたことがある。
西条村からは20キロ南で工事は行われた。
薩摩藩のお手伝い普請は、「異国の丘」シベリア抑留を地でいくような治水工事であったらしい。
この話を小説化したのが杉本苑子の直木賞「孤独の岸」だが縁なく未だ読んでいない。
ぜひ、その機会を得たいと思っている。

● 洪水で検地帳をも持ち出せず 
輪中の土地柄は水害の歴史と重なる。
文化12年(1815)大垣藩から幕府に提出した水害被害届によれば濃州七郡村数252、被害石高 8万9300石 流失家屋 627戸。 いのちよりも大切な水帳(検地帳)も、あっという間の流水で持ち出せなかった。
 「水帳、名寄帳など流失した村は11か村を数えた」という。
「濃州各低地は悉く埋没し、岐阜より養父まで乾地なし」田畑は「水腐れ」の状態。と、当時の記録に残った。

● 庄屋殿 領主と村との潤滑油
戦国の世が明け、兵農分離となって侍たちは城下町に居住する。 幕藩体制の末端政治を庄屋が担う。
領主からの伝達の徹底、村民からの年貢や上納金などの納入責任。
宗門改めの行事などでは正式な役人接待の場を取り仕切る。
水引をかけた金100疋を御肴料とし、卵50ヶを籠に入れ、煎茶一斤を音物として届ける。
また年礼として大垣藩の大目付から同心まで酒を届けるのも欠かさない。
逃散などで、つぶれ百姓が村から出ても年貢は軽減されない。
庄屋をはじめ村全体の責任となって担うことになる。  
駆け落ちは、愛し合っている男女の色恋だが、同じ呼び名の欠落の場合は、住んでいる百姓が農村を逃げ蒸発する。
半年間は手がかりを求めて村中で探すが見つからない場合は人別帳の帳外願いを出す。
無宿人となるわけだ。
天保10年、一家で欠落したケースが2件紹介されていた。
こうしたことはどの村にもあった。
関東では

● 空っ風 風と出者(フトデモノ)が多くなり

ある日、ふっと若者が消える。
上州ではこうしたことを「ふとでもの」と称した。
こうして、群馬のつぶれ百姓の息子たちは江戸へ行くか博徒、悪党の群れへ混じってゆく者も多い。
このこと、【天保騒動記】(青木 美智雄 三省堂)に詳しい

● 水争い なだめすかして東西へ
庄屋さまの仕事はたいへん忙しい。激職だ。
庄屋、組頭(庄屋補佐役)百姓代(百姓代表)を村方三役という。
これら村方三役の名は、私が住んでいる埼玉の杉戸の地方文書の訴状などの中で 何回か、おめにかかった。
どこの田畑の仕事にも水は重要。 渇水での井戸をめぐる対立や水不足、分水、用水、普請工事などでの水争い揉め事が起これば、その裁きは庄屋の出番となることが多かったらしい。

● 村役人 フンと言っては米を撥ね
晩秋から新年の間にお城から米の納入総額が提示され、米が郷蔵の収められる時は藩の下っ端村役人が立ち会う。
品質不良のものがあれば、役目上、彼らは容赦なくこれを撥ねる。これを刎米(フンマイ)とした。
天保13年11月の当地の記録によれば66俵すべてが「御刎」で「壱俵も納り不申」撥ねられた状態。
ああ、情けなや。
こういう時も庄屋の出番となる。
彼らを予定外の中食などで接待し、帰りにはなんのかんのの理屈をつけては役人の懐への金子を用意した。
どうぞ、これで、おめこぼしを。
古川柳の「役人の子はにぎにぎをよく覚え」はこういうことからの生まれか。

● 西の丸燃えて千両冥加金
天保9年に江戸城西ノ丸が焼けた。
その普請のための上納金、冥加金が全国に通達され当地美濃一帯にも千両の上納が命じられた。
こうした上納金割り当ての一部調達も庄屋さまのお勤めでもあった。
江戸城再建のため「38歳の川路聖謨は、この西の丸再築御用掛となり用材の伐木監督として濃尾に出張」これは以前読んだ本の記憶の1頁だ。

● 春の村 番人もいた駐在所
「番人壱人御座候」 村には番屋があり庄屋の下働きの男がここにいる。
村で盗みなどがあった場合、犯人が村人であれば庄屋殿がこの男たちを使って内内に済ませる。

● 賭け事はまかりならぬと村役人
文政7年(1824)五人組仕置帳
一、 博突、惣而賭之勝負、三笠附類、或は商売に事寄、博突に似たる儀、何事によらず、一切不仕之、若違背之者あらば、早速可訴事
この三笠付とは俳諧の「前句の点取り」が博突がましきものとされ、白い眼で睨まれた。
でも当時流行っていたことがこれでわかる。
寺社修理などの富くじも賭け事扱いとされ、頼母子講の積み金をめぐる無尽も博突につながるからダメと言う。 
農民のストレス解消は祭りと賭け事。
庄屋はわかっているから黙認して庇い、度が過ぎなければ大目に見ているのだが、下っ端の村役人は目を光らせる。
禁令にしないと農業不精者がでる、つぶれ百姓がでて、やがて徒党を組み博徒となり強訴の例も他にあることで、そうなっては大変だの想いもあったろう。
ともかくコメの生産石高に影響してくることを武士側は恐れた とうとう、役人に捕まって「村下げ願」としてもらい下げに行くケースも多かったという。

昭和40年代の会社でも、酔余の上で口論から留置場に入った部下を部長が「貰い下げ」にいったケースはけっこう多かった。
会社とはなんだかんだといっても「我が社」のことであり、上下には、いまの職場では考えられない情味もあった。

● 裏門の藁篭にいた赤ん坊
庄屋の裏門近くにわら籠にくるまった捨て子がいる。
 「どうしても育てられず、庄屋さまどうかお願いします。お頼みします」という親心が透けて見えてくる。
養育費用を村で臨時徴収したら九貫目の大金がまたたく間に集まったという。
ここまで読んで、ひとつだけ他村における捨て子の例が紹介された。
武蔵国葛飾郡下高野村という文字が飛びこんできて「ナヌッ!」と思わず飛び起きた。
そう、この下高野村は私が現在住んでいる杉戸町の目と鼻の先にある。
文政11年(1828)同村で見つけれた十数通の書付をもとに捨て子事情が語られていた。
捨て子は養育手当3両で近くの農民が引き受けたが、ほどなくして死なせた。
役人に届けるにあたって杉戸、高野村の両庄屋が事を荒立てず、役人届けへの話の筋書きを仕組んだ。
その様子が書付の解説とともに添えられていた。

● 下女きよは柄杓(ひしゃく)片手にぬけ参り
文政5(1822)庄屋の下女のきよさん23歳は、主人に内緒でぬけ参りにでる。
ぬけ参りは明和8年(1771)がピークで200万人が伊勢へ抜けている。
お蔭参りともいわれる。皆、 なぜか柄杓持参ででかける。
おきよさんは、戻ってきても暇を出されていない。
抜け参りは、黙認されていた慣習だったらしい。
西松家のほうも50年の間に7回、ちゃんとした伊勢参りの旅を楽しんでいる。

● 和宮様御留 馬三匹をやりくりし
文久元年(1861)、皇妹和宮と将軍家茂との婚儀が村にも知らされ、庄屋はその助郷準備におおわらわ。
輪中組合10ヶ村が助郷へ。割り当て金は五両二分、四十人の人足を用意、馬も三匹やりくり、通行数日前から庄屋は夜まわりもする。
有吉の「和宮様御留」では替え玉説となっているが皇女が武家に降嫁し、関東に下向した唯一の例で、大河ドラマ「篤姫」と和宮のワンシーンが浮かんでくる。
● 助郷の持分三里十五町
私が住んでいる杉戸宿も日光例幣使や東北の諸藩が参勤交代などに使う街道沿いにある。
公務と称して宿場や助郷村は無賃同様で協力を強いられる文書記録に何回か接した。

● 村触れは 昼夜を継いで次の村
将軍家や御三家、天皇家などの不例があった場合は一切の歌舞音曲、鳴り物、肴商売なども営業停止となった。
大垣藩からの通達が出されると受取った村から留村まで回覧板方式で村継順がきまっていた。
受取った各庄屋は通達の写しをとる

● 花を活け 一句も詠んで菊作り
忙中の閑を得ることで 生け花会を作り、酒、弁当持参で俳諧を楽しむ。
この地は芭蕉の弟子、支考がいて 蕉風をひろめている。
先代の権兵衛さんは将棋が好きで数日家を空けることもあったそうだ。
 庄屋は隠居にあっては趣味人として生きている。

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  【天保騒動記】青木 美智雄 三省堂 









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