ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔10 七五の読後〕 【坂の上の雲と日本人】関川 夏央 文芸春秋 

2010年01月26日 | 〔10 七五の読後〕

【坂の上の雲と日本人】関川 夏央 文芸春秋 


● 大学に機動隊の頃、雲を書き

1968年、「坂の上の雲」はサンケイ新聞で連載が開始された。
この頃の社会は、今と違い騒然としていた。
この年の秋に、新宿騒乱事件があり550人が逮捕された。
東大、日大などの学園紛争が激しさを増し、沖縄返還運動やベトナム反戦などで街頭闘争とするデモと投石騒ぎもあり、反体制の空気が社会には生まれていた。
そうした中での、この新聞連載に一部からは「保守反動」というレッテルを貼る白い眼もあったらしい。
72年、その反体制の気運は去り、その後ロッキード事件・裁判に20年がかかり、バブル期に向かって日本は舵を切った。
72年に「坂の上の雲」は完結。
司馬さんはこの資料集めに5年の歳月をかけ準備をしたという。

● 「それから」が最後に読んだ愛読書

司馬さんが死ぬまで愛読していたのは、漱石の「それから」だったという。
彼を尊敬もしていたとも。
だが、「坂の上の雲」で主人公にしたのは漱石ではなく子規や秋山兄弟の3人だった。
四国松山の地で育った彼らの同心円の生きた世界をひろげた先に日露戦争があった。
一方、作者の関川は1986年から12年かけて劇画「坊ちゃんの時代(全5部)」を、谷口ジロー作画の協力で完成させている。
ここでは漱石が主人公となって同時期の文学者たちや世相が巧みに描かれていた。
司馬遼太郎が「子規」なら、関川は「漱石」でという了見が作者に働いたかどうかはわからない。

● 地誌なくて日本歴史とは言わず

1971年に「街道をゆく」が開始された。
いままでにこのシリーズの半分は読んだと思うが、この本が「坂の上の雲」とほぼ同時期に書かれていることに関川は注目している。
 「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている」の「坂の上の雲」の序章書き出しがあるが、この小さな国の文化基底をなしている各地の諸街道には、地誌がたくさん降り積もっている。
地誌の伴わない歴史は歴史とは言わない、と司馬さんは言う。
真之と子規が四国松山の同じ町内に、ほぼ同じ頃に生まれた。
その同心円上の世界の描き方と「街道をゆく」の思想はともに交錯を重ねる。
サンケイの文化部デスクの頃、福田 定一(司馬)は後年の「街道をゆく」に似た「日本列島の謎」の企画を提案し、裏街道とか脇の往還を歩くことを求めたが、カネがかかることからボツ扱いとなったことを、この本で知った。

● ご尊父の書棚にあった子規と蘆花

司馬さんのご尊父は市井の薬剤師。 その父の書棚にあったのが子規と蘆花だったという。
子規のつっばりん坊は、はじめ太政大臣をめざし、転じた文学では「座」の短詩型文学の革新をめざした。
私の父は市井一介の理髪職人。
その書架には漱石と真山青果と近代劇全集が並んでいた。
昭和7年、JOAK(NHK)の懸賞ラジオドラマに応募して父の作品は当選作となり、全国放送されたこともあった。
明治生まれの父たちが読んだ子規とか漱石とかの思想や生き方の影響はかなり 大きいものがあったと思う。

● 竜馬の土佐弁 雲でひろげて松山弁

竜馬は司馬さんが60年代後半に手を染めた人物。
 「竜馬がゆく」という題名に惹かれ、当時は夢中で読んだ一冊だった。 「ゆく」というタイトルの響きと意味合いは今でも忘れがたい。
司馬さんは土佐弁に果敢に挑戦して「ゆく」の作品の幅を広げた。 1970年代は井上ひさしの吉里吉里人、長谷川の漫画「博多ッ子純情」、映画「仁義なき戦い」の広島弁など方言の多様性が期せずして使われ地誌文化が大きく羽ばたいた年代でもあったようだ。

● 道三の史料たったの30行

梟の城、国盗り、竜馬で司馬作品を知り、夜を徹して読んだこともあった。
国盗り物語の主人公であった斉藤道三に残っている古史資料は当時の新聞の活字を使っても30行、500字程度のデータしかないそうだ。
あとは想像力を働かせて書き上げたというこの作家を当時から畏敬の念で眺めた。
1970年 「坂の上の雲」は佳境に入る。
当時、抱えた作品は、新聞連載 2、週刊誌2、小説雑誌、2。
 「花神」は朝日新聞に、「城塞」を週刊新潮に、「世に棲む日々」を週刊朝日に掲げた。
 「坂の上の雲」の2年前には「国盗り物語」を発表している。


● アラカンが圧巻だった天皇像

司馬さんが映画「明治天皇と日露大戦争」(1957年公開、渡辺邦男監督、新東宝)をどう思っていたかはわからないが、自身の「坂の上の雲」を映像化にしてはならないと遺言していたことは重視できる点だ。
嵐寛寿郎が明治天皇を演じたが銀幕の主人公に天皇を据えた初の映画化として話題となり、旅順港閉塞戦、二百三高地の激戦、日本海大海戦といった戦闘シーンが派手に繰り広げられていた。
鞍馬天狗のアラカンも力演していた。
私が見たのは小学6年生、土浦劇場という映画館でみたことを覚えている。
映画舞台の銀幕の傍で正座していた見ていた老婆たちが当時、話題になった。
この時の乃木役は笠智衆だったとばかり思っていたがこれは錯覚で、別の人がやっていた。
この年は、父が亡くなった年でもあった。

● 乃木将軍 意図して忘れられた人

乃木のこと。
軍服のまま常住坐臥であったという乃木希典は昭和陸軍の精神主義の源流のような人なのだろうか。
司馬さんの合理主義に合わなかったようだ。
ただ、反面「坂の上の雲」を描く筆さばきには明治のオプティミズムの肯定的視線があると作者は指摘している。
終戦後の戦後民主主義の時代には軍神乃木は意図して忘れられた時の人になっていたようだ。
でも、私はこの人の祖父の石碑から漢字を学んだことで無関心ではなかった。

● 碑は漢字覚えた第一歩

私の育ったのは土浦市田宿町。
家から眼と鼻の先に東光寺があった。
山門代わりとなっている入口に大きな石碑があった。
彫られた字をなぞって家へ帰り、「これは、なんと読むの」と親に尋ねた。たぶん小学校1~2年くらいの頃で、何回か往復してそれが長谷川金太夫という名前であることがわかった。
長谷川金太夫とは乃木希典を生んだ母親寿子の父。
常陸土浦藩士であり希典の祖父である。
この東光寺境内にある瑠璃光殿という本堂の右際に乃木とそのご子息の写真があり、なにか解説らしいものもあったが、子供だからよくわからなかった。
墓地には長谷川一族だったかどうか、鉄槍形の囲いの中に墓石群があった。
当時、寺の墓地は近所のこどもたちのかくれんぼなどでの絶好の遊び場だったが、ここはひときわ目立つ場所でもあった。
 「乃木さんの墓」で洟垂れ小僧たちにはその場所が通じていた。
長じて「高安犬物語」で直木賞を受賞した戸川 幸夫の「人間 乃木希典」を読んだ。
戸川は、東京日日新聞(現毎日新聞)の社会部長を勤めた人でもあった。
乃木の人柄や、殉死した希典と静子夫婦のこともこの本で知った。
戦場に消えた二人の子息の写真も思い出が蘇った。

  司馬作品の読書で中途で投げ出したものはない。
すべて面白かった。
だが70年代はじめの社会的空気からも影響を受け、自分たちのかっての遊び場と戸川作品からの乃木的イメージが「戦史にまれな無能司令部」と酷評されて、否定されたという単純な理由もあって「坂の上の雲」の読書だけは中途で挫折してしまった。

● 日露から60年経て「雲」を書き

「坂の上の雲」は日露戦争からちょうど60年目を経たところでの執筆となり、そして、敗戦から60年を過ぎて、NHK大河ドラマとして「坂の上の雲」が開始された。
ひとつの符節だろうか。
いまの日本は坂の上ではなく、大きな下り坂を下っている。
デフレと中流意識の崩壊と若者の非正規雇用などで社会は深い閉塞感が漂っている。
むくむくと沸き上がる青雲の志に憧れる気分みたいなものは誰の心にも少しはあるはずだ。


付言しておきたいことがある。

 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シ」。

明治38年5月27日、バルチック艦隊との日本海海戦での大本営への電文はよく知られている。
この電文は私でも子供心に諳んじていた。
秋山真之が部下の電文に加えて「本日天気晴朗なれども波高し」と加えたとされる。
だが、当時の読売新聞の電報報道によると「天気晴朗ナレドモ」は実は「天候晴朗ナレドモ」となっていた。
いつしか「天気」が「天候」に替わって用いられたのは、開戦を伝えることばの勇ましい響きによるものだったのであろうか。





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