江戸の役所を現在の国家官僚に見立てて解説してくれてわかりやすい
近世史学では名が知れた人と見え、読んでいて安心感がある。 なぜか読売新聞社からの刊行物が多い。
著者の「江戸お留守居役の日記-寛永期の萩藩邸」は忘れられないおもしろい本だった。
【江戸に学ぶ 日本のかたち】山本 博文 NHKブックス
■■家格
● 御三家に続く越前、会津藩
秀康を祖とする越前家(福井 松平藩) 秀忠の子、仁科正之を祖とする会津松平家。
外様では加賀百万石を筆頭に 前田、仙台、薩摩藩 他に米沢上杉家、津藩藤堂家、鳥取藩池田家、岡山藩池田家、広島藩浅野家、萩藩毛利家などの国持大名がいる。
■■ 老中
● 大臣は譜代クラスが担当し
閣僚と官房長官クラスにあたるところは古今要職となる。
江戸幕府の場合は、老中と若年寄がその責にあたる。
老中は幕政の実質責任者だ。
月一名が月番となって大名からの願い事や諸届を処理する。
事柄によっては老中全員の合議制を採って決めていたようだ。
老中は扇の要の役となるから三万石以上の譜代大名が担当、外様にはその資格はない。
● 老中の経費は自藩のお蔵から
将軍吉宗の孫にあたる松平定信は、親藩(御家門)に準じる 譜代の白河藩大名だった。
天明7年(1787)、老中職務に就いているが2ヶ月で2千数百両の経費がかかったと本文の記録にある。
それらの経費を幕府が面倒をみるというシステムにはなっていないから 譜代といっても三万石程度では大変な負担となる。
だが、三万石でも数十万石の大名に差配できるわけで、功名心も手伝って手を挙げたい殿様は多かったようだ。
以前読んだ本で知ったが天保改革の水野越前もその一人。
そのため選ばれた藩の財政は逼迫し、重臣たちは殿の着任に反対するケースも多かったらしい。
老中を経験した家が老中を継ぐケースも多く、それらの武家と同等家格を持つ譜代が老中候補生になった。
役職手当や諸大名からの贈答などはあったらしい。
贈答は必ずしも賄賂ではない。
贈答を礼儀と考える時代風潮のなかで考えるべきらしい。
ところで昨今、上司への中元、歳暮といった社内儀礼の風習は未だ健在なのか。
市場原理主義にもとづく風潮が強くなり正規、非正規などの言葉で取巻かれている社内では 環境下ではもはやとっくになくなったと推察してみるがどうだろう。
昭和四十年代の正月などには、部下が打ち揃って部長の家へ年始に伺う光景は珍しくもなかった。
部長のほうも、その都度、酒を出して部下に馳走。
その接客に奥さんは腕を振るったがさぞ大変だったろう。
私はその頃、労働運動などに血道をあげていたから、それらを体験したことはない。
でも、縁あって生涯の知己を得、師友と仰いだN元社会部長には私の定年後も数年間、歳暮は贈っていた。
● 譜代まず奏者番からはじまりて
奏者番というのは将軍に拝謁する大名を披露する役職で20名余りが就いていたという。
● ドングリの中から椎の実3~4人
奏者番を務める譜代から、選抜エリートが生まれる。
奏者番から寺社奉行へ。
そこから若年寄、大坂城代、京都所司代のどれかのコースにすすむ。
● 寺、浪花、京を過ぎれば御老中
寺社奉行、大坂奉行、京都所司代とそれぞれの奉行を経て老中になれる。
● 彦根藩 大老を出す家柄で
譜代筆頭にあたる彦根藩は三河以来の最高の家柄。
だから老中にはならず大老となる。
彦根藩伊井家は35万石の大藩。
幕末では桜田門外で血潮に染まり、戊辰戦争では官軍の先頭にあって大手柄を立てたという曲折の歴史を辿る。
■■ 奥祐筆
● せわしくも縁の下から力だし
大名からの諸届や願い事の処理や建白書などが出されるとそれぞれの部門に下げ渡し、討議の結果が戻ると、どの評議がよかったかの実質的判断をする役が奥祐筆となる。
知行割、大規模普請など多岐にわたるこれらの判断が将軍や老中の腹に治まって彼らの考えの基礎となる。
そのお膳立てを握るわけだがら、せわしい職務といえども隠然たる力は持てる。
できぶつの官僚でないと務まらない。
なんとなく 城山三郎の「官僚たちの夏」を思い出す。
■■ 旗本
● 旗本のできのいいのが番勤め
旗本は5000人ほどいる。
この中から江戸城内で将軍の警備にあたるものが選ばれる。
いわばボディガード役か。
両番と称された小姓組番・書院番の番士にはこの他にも仕事があった。
● 両番からのぼりつめれば町奉行
両番 → 布衣役 → 目付 → 遠国奉行 → 町奉行
旗本、御家人の出身者が一部の上級官僚となれる仕組みだ。
● 気配りが名奉行への道となり
奉行所の与力、同心に気持ちよく働いてもらう。
その環境と気配りができる人が名奉行資質となる。
反物一反に仙台平の袴地を配ったり、夜まで働く者には湯づけやマグロの弁当まで用意していたと本文にあった。
● 幕臣の登竜門は学問所
幕臣の間に学問奨励の気風を行き渡らせるために、旗本・御家人には試験所が 寛政4年(1792年)、松平定信の寛政の改革のひとつとして湯島に設立された。
学問吟味とした漢学筆頭試験。
その問題の一例が本文にあった。
「李広の広略、文帝に知らるるといへども、大ひに用ひられず数奇不遇遂に封候を得るあたはざるは何故にや、その説を聞かん」
李広は匈奴と戦って功績をあげた武将でこの子が李陵(中島敦「李陵」で知られる)。
四書五経などを読み解き、司馬遷「史記」などに通じていなければ答えられない。
「策題」というの小論文テストに相当したものがあって「雀冗費」「育人材」などの題に答案を出す。
良い成績であれば、家格が低くても認められ出世への糸口となる。
この試験が現在の国家公務員試験の源流となっているようだ。
探検家の近藤重蔵、遠山景晋(遠山の金さんのお父上)、狂歌師の大田南畝なぞは首席という抜群の成績であったらしい。
■■ 留守居役
● 留守居役 料亭政治のもと作り
幕府所役人への饗応、坊主衆などからの情報収集、各藩横並び主義での情報交換の場として料亭が使われた。
藩としての嘆願がある場合は家老からの上申となる。 天明2年、蜂須賀家の支出は月120両。 現在額換算で400万円というのが留守居役が使った金額。 今で言えば、少し前に取りざたされていた内閣官房機密費みたいなものか。
■■ 参勤交代
● 参勤を年務としたのが三代目
家光の時代に制度化された。
江戸から国元を隔年往復するのは大変だ。
陽春の頃に、国を出て、江戸に滞在し翌晩春頃に帰る。
1000人を超す藩士も従えての参勤江戸入りで費用は嵩む。
各藩の財政を衰弱させるのが幕府の目のつけどころというのは、俗説でむしろ幕府側では参勤の人数を制限するなどの動きもあったようだ。
藩の方では世間の目を意識し格式、家格を落とすわけにはいかない。
● 3年に一度でよいと春獄公
幕末、越前藩の藩主松平慶永(春獄)が政事総裁職となった。
外国勢力の武威に対して全国の武備を備えるために、幕政を改革。
その中に、参勤交代の緩和策があった。
1.諸侯の参勤を止めて述職となせ。
1.諸侯の室家を帰せ。
無駄な出費を抑え、各藩とも防備に力を注げというもので、江戸の妻子も帰国させた。
だが結局、参勤交代の廃止で幕藩体制のたがは弛み、幕府の強制力は急速に失せた 。
この決定は文久2年(1862)、維新まであと6年のことである。
【江戸に学ぶ 日本のかたち】山本 博文 NHKブックス
■■家格
● 御三家に続く越前、会津藩
秀康を祖とする越前家(福井 松平藩) 秀忠の子、仁科正之を祖とする会津松平家。
外様では加賀百万石を筆頭に 前田、仙台、薩摩藩 他に米沢上杉家、津藩藤堂家、鳥取藩池田家、岡山藩池田家、広島藩浅野家、萩藩毛利家などの国持大名がいる。
■■ 老中
● 大臣は譜代クラスが担当し
閣僚と官房長官クラスにあたるところは古今要職となる。
江戸幕府の場合は、老中と若年寄がその責にあたる。
老中は幕政の実質責任者だ。
月一名が月番となって大名からの願い事や諸届を処理する。
事柄によっては老中全員の合議制を採って決めていたようだ。
老中は扇の要の役となるから三万石以上の譜代大名が担当、外様にはその資格はない。
● 老中の経費は自藩のお蔵から
将軍吉宗の孫にあたる松平定信は、親藩(御家門)に準じる 譜代の白河藩大名だった。
天明7年(1787)、老中職務に就いているが2ヶ月で2千数百両の経費がかかったと本文の記録にある。
それらの経費を幕府が面倒をみるというシステムにはなっていないから 譜代といっても三万石程度では大変な負担となる。
だが、三万石でも数十万石の大名に差配できるわけで、功名心も手伝って手を挙げたい殿様は多かったようだ。
以前読んだ本で知ったが天保改革の水野越前もその一人。
そのため選ばれた藩の財政は逼迫し、重臣たちは殿の着任に反対するケースも多かったらしい。
老中を経験した家が老中を継ぐケースも多く、それらの武家と同等家格を持つ譜代が老中候補生になった。
役職手当や諸大名からの贈答などはあったらしい。
贈答は必ずしも賄賂ではない。
贈答を礼儀と考える時代風潮のなかで考えるべきらしい。
ところで昨今、上司への中元、歳暮といった社内儀礼の風習は未だ健在なのか。
市場原理主義にもとづく風潮が強くなり正規、非正規などの言葉で取巻かれている社内では 環境下ではもはやとっくになくなったと推察してみるがどうだろう。
昭和四十年代の正月などには、部下が打ち揃って部長の家へ年始に伺う光景は珍しくもなかった。
部長のほうも、その都度、酒を出して部下に馳走。
その接客に奥さんは腕を振るったがさぞ大変だったろう。
私はその頃、労働運動などに血道をあげていたから、それらを体験したことはない。
でも、縁あって生涯の知己を得、師友と仰いだN元社会部長には私の定年後も数年間、歳暮は贈っていた。
● 譜代まず奏者番からはじまりて
奏者番というのは将軍に拝謁する大名を披露する役職で20名余りが就いていたという。
● ドングリの中から椎の実3~4人
奏者番を務める譜代から、選抜エリートが生まれる。
奏者番から寺社奉行へ。
そこから若年寄、大坂城代、京都所司代のどれかのコースにすすむ。
● 寺、浪花、京を過ぎれば御老中
寺社奉行、大坂奉行、京都所司代とそれぞれの奉行を経て老中になれる。
● 彦根藩 大老を出す家柄で
譜代筆頭にあたる彦根藩は三河以来の最高の家柄。
だから老中にはならず大老となる。
彦根藩伊井家は35万石の大藩。
幕末では桜田門外で血潮に染まり、戊辰戦争では官軍の先頭にあって大手柄を立てたという曲折の歴史を辿る。
■■ 奥祐筆
● せわしくも縁の下から力だし
大名からの諸届や願い事の処理や建白書などが出されるとそれぞれの部門に下げ渡し、討議の結果が戻ると、どの評議がよかったかの実質的判断をする役が奥祐筆となる。
知行割、大規模普請など多岐にわたるこれらの判断が将軍や老中の腹に治まって彼らの考えの基礎となる。
そのお膳立てを握るわけだがら、せわしい職務といえども隠然たる力は持てる。
できぶつの官僚でないと務まらない。
なんとなく 城山三郎の「官僚たちの夏」を思い出す。
■■ 旗本
● 旗本のできのいいのが番勤め
旗本は5000人ほどいる。
この中から江戸城内で将軍の警備にあたるものが選ばれる。
いわばボディガード役か。
両番と称された小姓組番・書院番の番士にはこの他にも仕事があった。
● 両番からのぼりつめれば町奉行
両番 → 布衣役 → 目付 → 遠国奉行 → 町奉行
旗本、御家人の出身者が一部の上級官僚となれる仕組みだ。
● 気配りが名奉行への道となり
奉行所の与力、同心に気持ちよく働いてもらう。
その環境と気配りができる人が名奉行資質となる。
反物一反に仙台平の袴地を配ったり、夜まで働く者には湯づけやマグロの弁当まで用意していたと本文にあった。
● 幕臣の登竜門は学問所
幕臣の間に学問奨励の気風を行き渡らせるために、旗本・御家人には試験所が 寛政4年(1792年)、松平定信の寛政の改革のひとつとして湯島に設立された。
学問吟味とした漢学筆頭試験。
その問題の一例が本文にあった。
「李広の広略、文帝に知らるるといへども、大ひに用ひられず数奇不遇遂に封候を得るあたはざるは何故にや、その説を聞かん」
李広は匈奴と戦って功績をあげた武将でこの子が李陵(中島敦「李陵」で知られる)。
四書五経などを読み解き、司馬遷「史記」などに通じていなければ答えられない。
「策題」というの小論文テストに相当したものがあって「雀冗費」「育人材」などの題に答案を出す。
良い成績であれば、家格が低くても認められ出世への糸口となる。
この試験が現在の国家公務員試験の源流となっているようだ。
探検家の近藤重蔵、遠山景晋(遠山の金さんのお父上)、狂歌師の大田南畝なぞは首席という抜群の成績であったらしい。
■■ 留守居役
● 留守居役 料亭政治のもと作り
幕府所役人への饗応、坊主衆などからの情報収集、各藩横並び主義での情報交換の場として料亭が使われた。
藩としての嘆願がある場合は家老からの上申となる。 天明2年、蜂須賀家の支出は月120両。 現在額換算で400万円というのが留守居役が使った金額。 今で言えば、少し前に取りざたされていた内閣官房機密費みたいなものか。
■■ 参勤交代
● 参勤を年務としたのが三代目
家光の時代に制度化された。
江戸から国元を隔年往復するのは大変だ。
陽春の頃に、国を出て、江戸に滞在し翌晩春頃に帰る。
1000人を超す藩士も従えての参勤江戸入りで費用は嵩む。
各藩の財政を衰弱させるのが幕府の目のつけどころというのは、俗説でむしろ幕府側では参勤の人数を制限するなどの動きもあったようだ。
藩の方では世間の目を意識し格式、家格を落とすわけにはいかない。
● 3年に一度でよいと春獄公
幕末、越前藩の藩主松平慶永(春獄)が政事総裁職となった。
外国勢力の武威に対して全国の武備を備えるために、幕政を改革。
その中に、参勤交代の緩和策があった。
1.諸侯の参勤を止めて述職となせ。
1.諸侯の室家を帰せ。
無駄な出費を抑え、各藩とも防備に力を注げというもので、江戸の妻子も帰国させた。
だが結局、参勤交代の廃止で幕藩体制のたがは弛み、幕府の強制力は急速に失せた 。
この決定は文久2年(1862)、維新まであと6年のことである。
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