夢農園
農園の桜は4月の21日頃から咲き始めました。木は大きくて何本か並んで咲いています。行くたびに見ていますが、作業の合間に見てほっとしています。鶯も良い声で鳴いて、今、一番良い時です。
今年も、農園の作業を再開しています。ユリの花を植えていたところをつぶして、畝を2メーター位伸ばしました。全体が大きくなって、野菜も多く植えられるようになっています。梅の花が去年から、実がなるようになって来ました。今年も綺麗に、はながさいてきています。ピンクの花は、盆栽にしていたのを植木屋さんに貰って、それを地植えにしました。ピンクの花が咲いて綺麗です去年から小さな実を付けています。今年も実を付けてくれるのを楽しみにしています。
吉野山(よしのやま)は奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀ノ川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山陸の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広城地名であります。古くから花の名所として知られ、特に桜は有名で、その地域ごとに下千本 (しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)上千本(かみせんぼん)奥千本(おくせんぼん)と呼ばれています。大正13年(1924年)2月には国の名称・史跡に指定され、昭和11年(1936)2月には吉野熊野国立公園に指定されました。また平成16年(2004年)7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が 『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録されました。平成2年(1990年)には日本の桜所100選に選定されました。吉野山は平安時代から桜が増え続けてきました。特に桜が数多く集まるところがあり、一目千本と呼ばれ山下の北から山上の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・ 奥千本と呼ばれています。植えられている桜の種類は、ほとんどが白山桜(しろやまさくら)で、その数は約三万本にも及ぶという。これらの桜は、4月初旬から末に掛けて、山下の下千本から順に山上へと開花していきます。この時期の吉野山は花見客で大変賑わいます。
桜が多い理由
吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現(ざおうごんげん)の神木であるとされている。修験道の開祖とされる役小角(えんのうづぬ)は、金峰山(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ」が出現して、感得し蔵王権現像を彫ったとされる。その時に用いられた木材が桜樹であ った。以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなった。これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本をきるといったような厳しい信仰が厳守されたという。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習 が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった。
また大海王子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は 霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられています。
信仰登山の吉野山は、大峰山を経て熊野山へ続く山岳霊場・修行道大峯奥駆道(おおみねおくがけみち)の北端に あたります。
7世紀(飛鳥時代)に活躍した呪術者・役小角は、葛城山(金剛山・大和葛城山)、大峰山で修行を重ね、金剛山(大峰山系)で、金剛蔵王大権現を感得し、この地に蔵王権現を本尊とする 大峰山で修行道である大峯奥駆道を開いたとされる。
大峯奥駆道は、南端の熊野を発して吉野に至るのを順峯といい、北端の吉野から熊野に至るのを逆峯と呼んだ。途中には神仏が宿るとされる拝所・行場が設けられ、これらは靡(なび き)、古くから宿と呼ばれ、多いときは120宿があったと言われますが、近世に75の靡となった。
愛染宿より南は女人結界であったが、現在の大峯奥駆道の女人結界は五番関に移されている。なお、付近に現在も女人結界 跡として残っている。
歴史に登場する吉野山
672年、大海人皇子(のちの天武天皇)は、当時の大津の都を離れて出家して吉野山に隠棲したが、兄の天武天皇の死の知らせを受けて美濃へ脱出し兵を上げ、天智天皇の子の大友皇子を倒して政権を握った。→ 壬申の乱
このとき大海人皇子が吉野についてよんだ歌。「よきひとのよしとよく みて、よしといひし、よしのよくみよ、よきひとよくみつ」『万葉集』は有名な歌です。
1185(文治元年)冬、源頼朝の討伐を受け、義経・弁慶らは吉野山に身を隠したが、ここでも追とう追討を受けて静御前と別れ、東の国へ脱出したと言れている。吉野山内には、いくつかの旧跡が残る。
1132年(元弘2年)、鎌倉幕 府討幕運動である元弘の変の際、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時、吉野山(吉野城)を拠点として活躍した。しかし、翌1333年(元弘3年)には幕府方、二階堂貞藤率いる軍政に攻めら入られ陥落。この時、村上義光が大塔宮の身代わりとなって蔵王堂で自害し、宮は高野山方面へと逃れたとされる。
1336年(健武3年)、後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ、吉野山に別の朝廷(南朝または吉野朝とも呼ばれる )を置いた。1339年(延元4年/暦応2年)後醍醐天皇は吉野で崩御し、後村上天皇が即位する。しかし、1348年(正平3年/貞和2年)には楠木正行らが四條綴の戦いいにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野にも攻め入られ南朝は賀名生へ移った。この後長慶天皇・後亀山天皇の南朝側天皇が続いた。のちに東花坊(蕉門十哲の一人、各務支考)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて「歌書よりも軍書に悲しい吉野山」と詠んだ。
今年は、雨の日が多くて、さくらも開花が遅れて、見に行く日をきめかねていました。1日晴れの日に、吉野の桜を見に行ってきました。吉野の駅の側まで行くと、バスで上千本まで登って行く人が達が、ずらっと並んで待っておられました。私たちは車でいきました。中千本に行くところで駐車場を探してまわりましたが何処も満車で、やっと探して駐車出来る所が見つかりました。下千本は咲き終わりになって来ているので、中千本から上千本に向かって桜を見に行きました。上の道を歩いていくと素晴らしくいい眺めで、山全体が桜でおおわれて何処を見ても綺麗でした。空は青く、桜も生えて写真を撮るのに絶好の天候でした。人が多く、どの場所を見ても人、人でいっばいでした。昼には、桜の下で弁当を頂ました。空は晴天で鶯の声を聞きながら桜見物をしてまわりました。商店街の所ろは、土産を買う人や、したに下りて行く人で混雑していました。一時間ほど歩いて周り、綺麗な桜を見せてもらいました。すばらしい花見見物になりました。
畝を伸ばして溝をつくっています。山からの山水が畑に染みこんで来ます。溝を作って雨水も流れるようにしています。水も大事ですが、多いのも困りものです。池の所で、山水をためていて金魚を入れて、楽しんでいます。去年、お祭りの時に、金魚すくいをしてとったのを20匹入れました。大部大きくなって来ています。晴れの日には広い所に出てきて、楽しそうに泳いでいます。
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