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初夏の光と ピンクのミニ薔薇と ツツジが咲く 夢農園

2019-07-01 13:18:48 | 日記

夢農園(野菜作り)

玄関のバラとツツジの花

去年は、バラに虫がつき、食べられて花を少ししか咲いていませんでしたが、今年は、農園を頑張って始めているので花もたくさんつけました。咲いている間は、10日間ほどですが、農園に行くのはそのうちの2日間です。玄関を入る時も奇麗で気分もウキウキしていました。

チェリー

毎年、木は、大きく育っています、今年も、選定をして実がなるように手入れもしてきました。春には、沢山の花をつけていましたが、花粉付けはしなくて日にちが過ぎましたが、何時もの年よりも多く実をつけていました。真っ赤になったチェリーは可愛いです。食べてみたら甘酸っぱくておいしかったです。 

ズッキーニ

ズッキーニは、2本植えましたが、青色と黄色の二色植えたつもりでしたが、2本とも黄色でした苗屋さんで買ったときは確かめて買っていたのに黄色ばかりで少し断念です。今は、よく実が付き行くたびに収穫出来て今までに5本は取れています。ズッキーニは、木が大きくなるので間隔を大きくとって植えています。熱いところの野菜なので太陽が必須です。これから次々と実がなります。小さい実を沢山付けて一度に付けると大きくならないので間引きます。収穫したズッキーニはサラダにしたり肉の付け合わせにしたり色々な料理に使っています。

岡山 倉敷

この地のいわれ

古来この付近一帯は「小野城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡と言われる。慶長五年(西暦1600)関ヶ原の合戦で東軍が勝利を得てから、この地は徳川幕府の直領(天領)となった。慶長19年(西暦1614)大阪冬の陣に備中国総代官小堀遠州は幕府の銘を受け、兵糧米十数万石を倉敷湊から大阪に積み出すため、ここに屋敷を構えて陣屋とした。それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ、寛永19年(1642)に陣屋は倉敷代官所となり、初代幕府代官米倉平太夫が赴任してきた。

それより明治維新にいたる二百余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となった。

天保5年(1834)には代官所北側に倉敷教論所が建てられ明論館と名付けられた。それ以来、この地は文教の中心地となった。

幕府になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき 慶応2年(1866)長州奇兵隊を脱走した一味約百名は、代官所および浅尾藩(総社市)を襲撃し世にいう倉敷浅尾騒動を起こした。このため代官所は灰燼に帰し焼野が原となった。明治の維新政府は、代官所跡に倉敷県庁を置いたが、明治4年倉敷県が廃止されてからは放置されたままになっていた。そのご地元の先覚者達によって、明治21年3月9日代官所跡に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)が創設され、紡績工場の汽笛が鳴り響いた。

以来、倉敷紡績の隆盛は倉敷の発展に寄与するところとなった。倉敷紡績では、この地が古くより倉敷発展の中心地であるのみならず また、会社発祥の由緒ある地であることもかんがみて、記念保存地区に指定し、この一帯が長く伝え残されることを希念している。

倉敷に行く

現代の倉敷市の中心部で往時をしのばせるのが倉敷川湊の「美観地区」や鶴形山南麗から東西にのびる「本町・東町」といった美しい街並みです。車を駐車して川沿いにある商店街を見て回りました。倉敷は、ジーンズの町でズボンやジンズ生地のシャツなど売っていました。街並みも古く散策をして回りました。船に乗って回るのも優雅でいいですね、乗っている人を見るととても楽しそうでした。