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梅雨明け じい、じいと鳴く 初セミの声・夢農園

2017-07-27 16:19:41 | 日記

夢農園(野菜作り)

菖蒲

「アヤメ」と「ショウブ」と「カキツバタ」の違い、あやめとカキツバタは共にアヤメ科アヤメ属の植物で「いずれ菖蒲か杜若」という諺もあるように見た目も似ている。菖蒲はサトイモ科でアヤメやカキツバタと別種であるため見分けはつきやすいが、漢字では「アヤメ」と同じ「菖蒲」と書く。また、古語で「アヤメ」といえば「ショウブ」のことを指す。更に、アヤメ科アヤメ属には「ハナショウブ(花菖蒲)」があり、見た目はアヤメやカキツバタと似ている。ハナショウブは「ショウブ」とも呼ばれるため、サトイモ科のショウブと区別しにくく、アヤメの漢字表記「菖蒲」とも同じになる。また、ハナショウブを指して「アヤメ」と呼ぶことも多い。このように、アヤメ・ショウブ・カキツバタ・ハナショウブは、非常に混同しやすい植物です。「菖蒲」という漢字表記や、アヤメ科の(ハナ)ショウブ」という呼称の類似点を除けば、この中で一番見分けやすいのは、サトイモ科のショウブです。ショウブは小川や池などの水辺に生え、5月ごろに花を咲かせる。花は長剣状の葉の間につける黄緑色の小さな花で、アヤメ科の植物とは区別がつきやすい。端午の節句に根や葉を風呂に入れて沸かす「菖蒲湯」で使われるショウブは、ハナショウブではなく、サトイモ科のショウブの方です。アヤメカキツバタとハナショウブは、特徴から見分けられます。

ショウブ

久しぶりに農園に行くと花が開いていて縁側に座ってお弁当を食べながらショウブの花の話をしながら美味しく頂きました。

オカトラノオ

オカトラノオは、農園に行くまでの道路脇に一本咲いていました、白くてかわいい花だなと思い採取してきて金魚を入れている池の周りに植えました。名前も花図鑑で調べてオカトラノオだということが解かりました。今では、何本も増えて白い花がいっぱいです。野山に生える多年草です。

タチアオイ

タチアオイは、2年前種を貰ってきて植え付けしました。今年は、植えていなかったのですが、種が落ちて生えてきていました。Ⅰメーター以上大きくなって久しぶりに農園に行ったら、花がいっぱい咲いて遠くから見ても綺麗でした。

那須

殺生石の由来

昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から800年程前日本に渡来しました。九尾の狐は、「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、日本国を亡ぼそうとしていました。

しかし、陰陽師阿倍野康成に正体を見破られると、九尾の狐は那須野が原まで逃げてきました。ここでも九尾の狐は悪さを繰り返していたので、朝廷は三浦介、上総介の両名に命じ遂に九尾の狐を退治しました。

すると、九尾の狐の姿は毒石になり毒気を放ち始め、近ずく人や獣を殺し続けました。

これを伝え聞いた泉渓寺の玄翁和尚が毒石に向かって大乗経を上げ続けると、一筋の白煙とともに玉藻の前の姿が現れ、石は三つに割れて飛び散り、一つがここに残りました。それ以来、人々はその石を殺生石と呼ぶようになり、今に伝えられています。

教傳地獄の由来

第九十六代後醍醐天皇の御代(1318-39)、奥州白河在の五箇村に蓮華寺という寺があり、「教傳」という小坊主がおりました。この教傳は生まれながらの悪童で、心配した母がこの寺に預かってもらうことにしたのでした。

その教傳も28歳になって前の住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。延元元年(1336)のことです。教傳は、ニ、三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日のことです。母が用意した朝食を、教傳はまだ旅支度も出来ていないのにと悪口を言いながら蹴飛ばして、そのまま出発してしまいました。

那須温泉に着いた教傳達は、殺生石を見学しょうと賽の河原付近まで行くと、今まで晴れ渡っていた空がにわかに掻き曇り、雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出しました。

連れの友人は一斉に逃げ去りましたが、教傳は一歩も動くことが出来ませんでした。友人が振り向いてみると「俺は、母の用意したお膳を足蹴りにした天罰を受け、火の海の地獄に堕ちていく」と、大声をあげ苦しみもがいております。友人が駆け寄り助けようと引き出しましたが、教傳の腰から下は炭のように焼けただれており息を引き取ってしまいました。

それからも教傳の引き込まれたところには泥流がブツブツと湧いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまいました。

その後湯元温泉の有志が亨保五年(1720)地蔵を県立して供養を行いましたが、親不孝の戒めとして、参拝する者が後を断たなかったということです。なお、現在の地蔵は、昭和五十七年に県立されたものです。

那須温泉

那須は温泉に恵まれており、湯本鹿の湯をはじめ大丸・北・弁天・高尾・三斗小屋・旭・八幡・新那須・飯盛・など数多くの温泉があります。中でも那須湯本鹿の湯の歴史は古く舒明天皇の御代(奈良朝六三〇年)に狩野三郎行廣が、白鹿に導かれて発見したということです。正倉院古文書駿河国正税帳に、奈良朝時代の貴族が湯元温泉に湯治に来たことが記載されており、古くから湯治の場として親しまれ今日にいたっています。

殺生石

温泉神社にお参りして本堂から横道に行くと稲荷神社があり、稲荷神社の横の道を行くと殺生石に行く鳥居があって、くぐっていくと大きな地蔵さんが目に入りました。山と山の間に源泉の出る元があったようで、今は、温泉の硫黄は無く吹き出ていなかったです。小さな地蔵さんも多く奉てあるので何かここで大変なことがあったのかなと思いましたが、調べてみると昔からの言い伝えとか、由来いが書かれていました。最近、温泉の道が変わったようです。でも通る道を工事していました。ちょっと、どんな所だろうと思いましたが、硫黄の匂いもあまりしていないし、ビックリしたのは地蔵さんが、こちらを見て全部手を合わせていました。私も手を合わせてきました。那須のお店は、パンを売っているレストランに行ってきました。青々とした木々の中にある店は、とてもリラックスして良かったです。もう一度行きたいです。