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初秋に入り 暑さも少し和らぎ 心地よい風が吹く ・ 夢農園

2015-08-26 07:45:59 | 日記

夢農園(野菜作り)

ナンキン

ナンキンは、4月26日に植え付けをしていました。今年は、高温の日が続き、水やりは欠かせませんでした。肥料水もあげていました、見る見るうちにつるが伸びて来て、花が付きナンキンの実が付いて来ていました。今では、大きくなって収穫出来るようになって来ていました。持ち帰って食べたのを入れると5個収穫出来ています。煮物にしても美味しいし、薄く切って焼いても甘みがあって美味しかったです。これからも順番に収穫して楽しんでいきたいです。

ピーマン

ピーマンは、4月に植えていましたが、育ちが悪く6月20日に初めての収穫が出来る大きさになってきていました。まだ、木が小さくてもう少し肥料をあげて大きくして実が付くように育てていきます。

岐阜城

建仁年間(1201~1204)鎌倉幕府の執事二階堂行政が最初にここに砦を築いたとされています。その後、その後美濃の守護土岐氏の筆頭家臣斎藤氏が居城するものの、下克上により斎藤道三公の手に渡ります。永禄10年(1567)には道三公の孫である龍興を倒した織田信長公が城を手に入れ、この地一帯を平定しました。名前をそれまでの稲葉山城から岐阜城へと改名し、後に安土城が建設されるまでの約9年、天下統一の拠点としました。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の前哨戦で、信長公の孫秀信が、西軍に味方したため東軍に攻め入られ落城。翌年岐阜城は廃城となり天守閣、櫓などは加納城に移らせました。現在の城は昭和31年(1956)に鉄筋コンクリート造り、3層4階建てとして復興されました。平成9年には大改修を行い、岐阜市シンボルとなっています。なお、岐阜城を含めた金華山一帯が、平成23年2月から「国史跡・岐阜城跡」として指定されています。

信長公・道三公ゆかりの城

岐阜城は、かって稲葉山賊と称していました。金華山頂に初めて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567年)(一説には永禄七年)八月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定すると共に、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。

金華山ロープウェー山頂まで3分でつきます。天守からの眺望・岐阜城は現代築城されている城郭のうちでは、有数の高さ(高さ329メートル)にあります。最上階は、眼下に鵜飼いで有名な清流長良川が市内を貫流し、東には恵郡山、木曽御岳山が雄大な姿を見せ、北には乗鞍、日本アルプスが連なっています。また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり南には濃尾の大平野が豊かに開け、木曽の流れが悠然と伊勢湾に注いでいるさまを一望におさめることが出来ます。かつてここで信長も天下を見晴らしたように壮大な眺望を楽しむことが出来ました。

コメント
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