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初秋の風に すすきもたなびく 夢農園

2012-10-11 12:11:34 | インポート

夢農園(野菜作り

すすき、彼岸花

Img_4399 (尾Dsc01994_2花(尾花)茅(かや))(秋の七草の一つ)秋の月見のおそなえとして欠かせない物。中秋の名月には収穫物を悪霊から守り、翌年の豊作を祈願する意味がある。屋根材のほかにも、炭俵用、家畜の肥料用などとしても利用される。すすきの「すす」は、葉が真っ直ぐに「き」は芽が萌え出る意味の「萌(キ)」だと言われている(諸説あり)

彼岸花は、農園に上がってきた土手のところに植えました。少しですが赤色が映えてとてもきれいです。

ナンキン

Dsc01869_2  今年Dsc01867も、肥料を混ぜた腐葉土を土に混ぜて、去年と同じ場所にナンキンを植えてみました。大小合わせて8個収穫出来ました。雨が多かったので粉ふき病にかかっり(葉が白くなって枯れていく病気)全部枯れていくかなと思っていましたが、何個かナンキンの花が付き花粉を付ける作業を行って、実が付くようにDsc01401_2チロールをナンキンの下に敷くようにしていましたがが、雨の日が多く裏側が白くなって来ていました、家で食べるのには支障が無いので色々なお料理にして頂いています。夏の暑い時期、影よけをしているところにもナンキンとヘチマをはわせました。ナンキンは2個収穫出来てヘチマは、今、成長しています。

Dsc01814Dsc01844  栗は植えてから4年目になります。3年めの実付きは、3個か4個位付いていましたが、栗の生長も未熟で食べられる物でありませんでした。今年は、沢山なって実が大きくなるのを楽しみにしていました。農園に行くたび見ていましたら、強い風か゛あたっているのか下に落ちていました。イガを見るとまだ栗が大きく成長していないのに、何個も落ちていました。だんだん大きくなるにつれてイガが木になっている間に開いてきて大きくなって来ている実が見えました。何時食べられるのか楽しみにしていました。農園に行くたび見ていましたら、10月の始め頃から、落ちた栗が食べられる大きさになっていました。拾って持ち帰り栗ご飯にしたり、赤飯にしたり、焼き栗にして頂きました。栽培した栗を頂くのは最高でした。家族で今年は、栗を堪能しました。

アメリカン芙蓉

Dsc01841 芙蓉は、何年も前から植えてきて畑の真ん中に植えていましたが、去年農園の上がってくる道の脇に植え替えました。みんなが楽しめる様にしました。今年は、花を沢山付けて農園に行くたび楽しめました。花はピンクで大きな花をいくつも咲かせています。

水菜、小松菜

Dsc01860Dsc01859_2 水菜、小松菜は、9月9日に種蒔きをして育ててきました。順調に芽を出して一回目の間引きを行いました。抜いた水菜はやわらかくて、他の野菜と混ぜ合わせてドレッシングで食べるとシャキ、シャキしてとてもおいしいです。新芽はやわらかいので虫が付きやすく毎回虫を見つけるのも作業の一つです。お酢、竹酢、トウガラシの混ぜた液をまいてきました。少しでも虫が少なくなるようにしてきました。小松菜は少し大きくなって来たら、間隔を空けて植え直して上げました。大きく育つようにしています。

キャベツ、ピーマン

Dsc01865Dsc01862_2 キャベツは9月の11日に苗を買ってきて植え付けました。ムラサキキャベツ、サラダキャベツ、色々な種類のキャベツを4種類植えました。今では、少しずつ巻いて来ています。行くたび成長しているので楽しみです。ピーマンは4月23日に植えました。少しずつ成長して背も高くなってきています。実も良く付き農園に行く度収獲をしています。何個か穫れるので食べきれ無いぐらいです。

檜前   (ひのくま)

Dsc01930 Dsc01939 明日香村の大字。檜隈、日限、日前とも書き、飛鳥時代には住民の8割が渡来人だったという記録があります。ヒノクマのクマはわん曲して入り込んだ所と言う意味で、同義語に「浦」がある。ヒノクマの地形は、低丘陸に囲まれた盆地状の平地になっている。この地域は、他武峰の朝日が最も早く、葛城山の夕日がもっとも遅くまで差す谷間で、『万葉集』にも「朝日が照る佐田の丘」とあります。檜Dsc01940 Dsc01944_2 前の「前」は「隈」を好字化したものである。こうした隈の意味を示す地名としては、押熊(奈良市)や大熊(宇陀郡大宇陀町)などがあります。

妹峠(いもとうげ)明日香村の稲淵(いなぶち)・栢森(かやのも り)から吉野川畔に至る峠。小字は「イモガトウゲ」とも書く。イモとは疱瘡(ほうそう)のこと。疱瘡神は外来の疫病と考えられ、Dsc01948いったん疫病にDsc01950かかると、この神を外界に送り出すと言う風習があった。妹峠はおそらく疫病を送り出した峠、あるいは疫病の侵入を防止した峠に由来する地名でょう。稲淵では村落入 り口に今でも勧請縄を張り、悪疫の侵入を厳しく拒否している。

キトラ明Dsc01979日香村大字Dsc01955阿部山小字上山の南都隣接地の小字北浦の転訛語。昭和58年11月11日にこの地で壁画古墳が発見され、小字北浦の転化後である「キトラ」に因んで 「キトラ古墳」とし、即日「亀虎」の用字を与え、「亀虎古墳」とした。

飛鳥

奈良県高市群の明日香(アスカ)村、その地名の由来は、渡来人が流れ着いた果てに安住の地をさだめ「安宿」(アシュ ク)とその地を呼び、アスカ(飛鳥)に転じたものとする説が有力という。高市は渡来民の里として有名である。ナラが朝鮮語で「国」を意味するように、アスカは「安住の地」を意味することです。古代国家成立は、記紀の記述や古墳からの戦闘具の出土に見られるように戦争による物であり、この飛鳥の地は古代の戦争史跡という事も出来る。

この地域は大阪河内の巨大古墳群から竹内街道を通って山を越えたところにある。周囲の山々が自然の要塞となっている。古墳の分布とその年代から王権のアスカ地域への移動がうかがわれる。明日香へと移動した渡来人の主流は百済系(含伽耶系)と見られる。京都の渡来系族として泰氏が有名ですが、明日香地域の有力渡来氏族のひとつは漢(あや)氏である。この漢氏のルーツは5世紀初め、阿智使主(あちのおみ 阿智の王)が百済からここに渡来してきたことにあるという。それ以外にも多くの渡来があって大和の大権が成立した。この地域に安住した漢氏一族は東(ヤマト)の漢氏と呼ばれる。漢氏は、坂上、檜隈、高向、平田などに分岐して住んだ。漢氏は学術や軍事力を持つ有力氏族でありました。

於美阿志神社・檜隈寺跡

Dsc01986Dsc01987於美阿志(おみあし)神社と檜隈寺跡は、文武天皇陵から見て南西方向の丘の上にある。直線距離にすればせいぜい600mほどですが、そこに行くには文部天皇陵の前面約200mのところを東西に走る自動車道路に出て、西の方向にくだらなければならない。道を下りながら左手を見ると、丘陵の上に巨大な二階建ての建物が見える。社会福祉法甘樫会の特別老人ホーム「あまがし園」です。老人ホームから視線を右に移すと、谷間の向の丘陸の上に杉や竹の大木が生い茂ったところがある。そこが於美阿志神社です。道を下りきったところで、南北に走る新しい車道とぶつかる。その道を横切って、棚田の間の農道を上っていくと於美阿志神社の裏側に出る。

Dsc01990美阿志神社はDsc01991、東漢(やまとのあや)一族の祖・阿知使主・(あちのおみ)を祭神として祀っている。社名の於美阿志は「使主阿知(おみあち)」が天化したものといれている。『日本書記』は応神天皇20年に阿知使主がその子・都加使主(つかのおみ)、および自分の党類十七県を率いて渡来してきたと記す。渡来した阿知使主一族が一帯に住んでいたが、その中から雄略天皇の時代に活躍する身狭村主青(むさのすぐりあお)や檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が出ている。二人は呉の国に派遣され、織機技術を持った者達を連れてきている。身狭村主青は少し北側の牟佐座神社の当たりを中心に居住し集団の長であり、檜隈民使博徳は檜隈を中心に居住した集団の長であったのでしょう。

この場所は、7世紀に建立された東漢氏の氏寺であった桧隈寺跡でもあります。西側に中門があり、その門を入ると正面に塔、左手に講堂、右手に金堂が配置されていました。現代は大きな礎石が草むらに残り、棚に囲まれて重要文化財の十三重の石塔が建っている。元の於美阿志神社は講堂と塔の間の空間にありました。

檜前・飛鳥村・於美阿志神社に彼岸花の写真を撮りに行きました。去年は、自由に行って写真を撮れたのですが、今年は、広範囲に工事をしていて何処も囲いがしてあって中に入れませんでした。於美阿志神社の方角に向かって彼岸花の写真を撮りながら歩いて行きました。綺麗に咲いていました。キトラ古墳、壁画古墳があるため、大きな公園にしているそうです。去年より彼岸花が少なかったのですが、写真がとれました。晴天で、赤の色が冴えてとても美しかったです。