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晴天の空は高く鳥たちも囀る・夢農園

2015-10-31 19:20:45 | 日記

夢農園(野菜作り)

 沢水の小道の回りに植えた植物

あじさい、芙蓉の木、ユキヤナギ、もみじ、ツツジ、色々な植物を何年もかかって植えて来て四季楽しめるようにしています。9月頃から少しずつ山の陰になって来て、日当たりが悪くなってきます。檜の枝を落としてもらって日が当たるようにしてもらいました。冬の間は、山の陰になって日が届かなくなります。植物にとっては最悪の状態です。午前中10時頃から日があたるようになってきます。6月にはユキヤナギが咲き、8月にはツツジが咲いてからあじさいが綺麗に咲いて来ます。10月後半から11月過ぎて紅葉してきます。標高が高いので花が咲くのが1ヶ月ほど遅れます。山の移り変わりが楽しめます。山のツツジはすごく綺麗です。

出雲大社

出雲大社(いずもおおたいしゃ、いずもたいしゃ)は、島根県出雲市にある神社です。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は旧弊大社。現代は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠

概要

古代より出雲大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は「いずもおおやしろ」ですが、一般には主に「いずもたいしゃ」とよまれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であります。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が再祀を担ってきた。現代の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の制服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋です。二重亀甲剣花角の紋様を絞り込んだものであり、他に類を見ない。現代も、皇室のものとはいえども本殿内までははいれないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の内部及び大屋根が公開されていることがある。2014年9月7日付けで、千家国麿が権宮司に就任した。

祭神

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる。(神在祭 旧暦10月11日・17日)出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的に信仰をあつめるようになりました。

本殿

玉垣、瑞垣(回廊)荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西にはお客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麿志阿斯河備比古遅神、天之常立神)が祀られている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口これはと最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさです。

本居が「玉勝間」に引いたところによれば、かっての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈(48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝授があるとされる。同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が立つというものになる。上古については流石に神話と看做すとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝授によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より大きかったということになる。

この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲大社、大和次郎、京三郎、というものですが「雲太、和二、京三、今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。」をもとにしており、その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものでなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との説もある)や、複数の記録により、複数回倒壊していることが解っていること(「百錬抄」「左経記」「千家家古文書」「中右記」「北島家文書」などに記録があり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊している)といった傍証が挙げられている。上古32丈についても、山にたてられたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然ではないという意見もある。その高さがあったことを前提に、高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある。一方で、前述したように明確な文献が「玉勝間」と江戸時代まで下ること、証拠されているものがいずれも傍証にとどまること、32丈説や後述するプロジェクトなどで想定している「山」が、そもそもただの山ではなく神域であり工事がはいることなどめっそうもないといった点が否定要素です。

出雲大社に行く、出雲大社は、広大な広さで本殿までの長さは、150メーター位あり多くの人たちが、参拝に来ておられました。私たちもお参りをしてきました。参道の入り口に吉兆官という展示館があり、出雲地方のお祭りに使う道具や、着るもの、お面が展示してあり出雲大社の模型もありました一つ一つ見て回りました。参道の道は、約2キロ道路両側には、お土産屋さんや出雲地方の特産物の販売展や、興味を引きそうな店が多く有りました。出雲そばのお店を探していると、雑貨やさんの階段を上がって、2階におそばやさんが有りました。多くの人が並んでいて、私たちも並んで美味しいおろしそばを頂きました。夜には、参道をろうそくで照らす祭りがあり、道路脇にろうそくが立てられるカップが並べてありました。一時間前には本降りの雨が降り始めてやむを得ず車に戻り待ちましたが雨がやまずに帰ってきました。出雲大社は、何回か行きましたが、また、お参り行けたらいいなとおもっています。