https://www.youtube.com/watch?v=iueQ3yBISco&ab_channel=ArthurAlexandre
かつて、老人を粗大ゴミのように山に捨てていた時代があったことが「楢山節考」の主題である。
江戸時代中期、社会が安定したのはいいが、進化とか発展とか前進とか拡大とかを考えず、ただ、世界の歯車が毎日毎日、永遠に変わらずに回っているように、定まった生産と消費が繰り返されると、みんな思い込んでいた時代だった。
生産と消費が一定であり、発展拡大が期待できないものと思ってしまえば、それに合わせた生計の調節が必要になる。
仮に、年間7000食しか得られない生産力の下では、一人一日二食としても、年間10人の命しか支えられない。
新しい命が生まれれば、古い命から消えてゆかねばならない。
おりんは、イワナ獲りの名人だったが、生まれてくる命のために、無理矢理、この世を去らねばならない羽目になった。
それは、集落共同体の掟だった。70才になれば、この世に生かしてもらえない。
おりんの生産力が、どれほど高くても、掟という重い拘束の前には従うしかない。
おりんは自ら歯を折り、その日を待った。
******************************************************
今の我々ならば、食料が不足すれば、生産を拡大すればよいと考える。新しい耕作地を開墾して、生産技術を進化させて、命の火を消さずにすむように手を尽くす。
だが、世界が永遠に変化しないと考え、掟に洗脳されてしまった人々は、創意工夫で生産力を拡大することまで頭が回らない。創意工夫を怖れているといってもよい。
不足すれば、古い命から順番に消すしかないと頑なに信じ込んでいる。
楢山節考は、そんな時代の「姥捨て」民俗を描いた小説だった。
長い戦乱の時代を経て、家康が安定社会を作り出したとき、武家階級、為政者が目指した社会は、第一義に「安定した秩序」であり、あらゆる社会の進歩、変化を「戦乱の火だね」として忌み嫌った。
例えば、社会を一変させるような革命的発明が登場したときも、為政者は強く怖れ、それを弾圧しようとした。
鳥人間第一号 浮田幸吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E7%94%B0%E5%B9%B8%E5%90%89
新しい創意工夫、革命的進化をもたらそうとすれば、国家権力から弾圧される。
それは、権力の秩序も地位も根底から脅かすからだ。人々が、昔から知られた古い秩序だけに拘泥し、頭のてっぺんからつま先まで、秩序に雁字搦めになってくれていることが一番大切だと思い込んでいた。
権力者・為政者だけではない。民衆自身が自らを縛り上げている縄や桎梏を神のように崇めていたのだ。
今で言えば、天皇制がそうだ。「天皇様を崇める」ことが、現在の自分の立場や生計を守ることだと思い込んでいる人々が、どれほどたくさんいることか?
そんな人々の自縄自縛の上に、社会の虚構が成立している。
「長いものに巻かれろ・強い者に従え」
そうして、国家権力のトップが核開発を持ち出して、その恐怖の危険性を見ようともせず、目先の金儲けのために民族の遺伝子を根底から破壊し、子供たちの健全な未来を危機に晒す社会は、民衆が自らを自縄し、真実から目を塞ぐことによってのみ成立している。
一方で天皇制を無条件に認める奴隷のような精神性が、他方で核開発によって地球社会全体を、取り返しのつかないほど汚染してゆく真実を知らなければならない。
ただ、自分の目先の生活が安泰であればよいわけではない。何よりも、子供たちの安全な未来を確保することだけが、自分たちを守ってゆくのだ。
我々は、権力の奴隷ではない。一人の自由な生きた人間であって、真実を見つめることで、社会の間違いを正し、子供たちの、よりよき未来を確保できる。
今、私はチェルノブイリ事故における残酷な現実を、再び直視しながら、国家権力に唯々諾々と従うことが、どれほど恐ろしい現実を招くのかについて、深い憂鬱のなかにいる。
みんな、原発事故がどれほど恐ろしいものか知らない。2011年当時、知ろうとしていた人も、今では関心を失い、「放射能汚染で、何も起きなかったじゃないか……」と言うようになっている。
だが違うんだ。みんなが知らないだけなんだ。
https://www.youtube.com/watch?v=uPFcn23q7uc&ab_channel=tothebluesea1
https://www.youtube.com/watch?v=0_NRz4vnESc&ab_channel=tothebluesea1
https://www.youtube.com/watch?v=SjINkMMCiT0&ab_channel=tothebluesea1
https://www.youtube.com/watch?v=VQezSZ6nh6c&ab_channel=tothebluesea1
東京は、チェルノブイリ事故におけるキエフよりも放射能汚染がひどかった。
東日本に居住する4000万人を超える人々(もしかしたら7000万人)が、上のNHK報道のような症状を呈し、たくさんの人々が、それによって死んでいる。
本当に恐ろしいのは、放射能による心不全や癌や白血病だけではない。何よりも認知症のように精神知能が劣化してゆくことなのだ。
だが、医療も政府もメディアも、その認知症が放射能被曝からきていること、その死が放射能汚染によるものであることを、徹底的に隠蔽している。
事故後、甲状腺癌になっても、激しい認知症委になっても、それが東電原発事故由来であることを教えてくれる医療機関はほとんどない。
それは甲状腺医学界のトップや、厚労省が、すべて真実を隠蔽し、人々に原発事故によって病気になっていることを教えないようにしているからだ。
それどころじゃない。東京でも、東日本でも、もの凄い数の人が死んでいるのに、それが統計に表れることさえない。政府が統計を捏造しているからだ。
東京では、2011年以降、火葬場が不足し、なかには火葬まで十日待ちの死者さえいた。 それほど火葬が逼迫したのに、一切、理由が報道されなかった。
https://www.e-sogi.com/guide/4294/
政府は、2012年以降、火葬逼迫に応じて全国で火葬場の新設を指示したが、これを知っている人も少ない。それが知られると、原発事故による大量死が知られてしまうからで、それは、一切報道されず、死者が激増していることを知らない人が大部分だった。 私の住む蛭川村でも、通常、月に一度もない葬儀が、2011年3月には、実に14件もあった。なかには20才代の若者まで含まれていた。
死因の大半が心不全だった。原発事故の意味を知っている私は、「セシウム心筋症」だろうと考えていたが、311巨大震災のあまりの凄まじい被害に隠れて、誰も気づかなかったのだ。(後にセシウムより、わずか数日で消える短寿命核種のせいと分かった)
許せなかったのが、日本政府が人口動態統計を操作したことだ。福島県内でも、大量死があったのに、それは全部震災のせいにされて、被曝死は完全に隠蔽された。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-365.html
もう一度、楢山節考に戻ろう。
「機械的唯物論」というのがあって、この世は単純なメカニズムの繰り返しだと考えるものだ。人口と生産力は定数であって、定まった需要と消費のなかで、過剰や不足が生まれれば、それを調節するには、古いものを排除し、消してゆかねばならない。
つまり、「老人たちは死ぬべき」という理屈だ。
麻生発言 高齢者は死ぬべき ブルガリアTV
https://www.youtube.com/watch?v=vFN7eTucz-U&feature=emb_logo&ab_channel=%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%89%9B
これは麻生太郎が一所懸命力説している屁理屈なのだが、現在の社会体制を維持してゆくためには、老人や貧乏人に犠牲になってもらわなければならない、と何度も主張している。
竹中平蔵の新自由主義は、まさにこの屁理屈が神髄で、金持ちと権力者を守るため、老人や貧乏人を犠牲にするという思想だ。
竹中路線は、菅義偉政権に100%反映されているが、最近では、年収200万円以上の年金生活者の医療費負担を2割増しにすると決定した。
これは事実上、「貧乏人は医者にかかれず死んでゆけ」という政策である。
消費増税(消費罰金税)も竹中路線だ。国家による生活保障と金持ちや大企業に対する税金など政策的関与を廃止して、何の制約もなく自由に金儲けさせる。資本家どうしてバッティングした場合でも、市場原理に委ねれば勝手に解決するというものだ。
おりんの村では、新しい命が来れば古い命は退場するしかない。両方の命を共存させようとは誰も考えないのだ。食料が不足すれば、新しい畑を開墾すればよいのに、誰もそれをしない。みんな変化を好まないからだ。
これは、天皇制に対して疑問を持たずに受け入れている日本人に共通していると私は思う。古い掟、習慣に何の疑問も持たずに、それを当然として遵守し、新しいイノベーションを警戒するのだ。
本当に理想的な村があるとすれば、それを命をとことん大切にする思想の村だと私は思う。
私も、96才になる母親を施設に預けて、素知らぬ顔をして生活しているが、これは殺したり凍死させたりしないだけで、おりんと同じ運命を与えている。
それでは、どうすべきなのか?
私は、人間が産まれて死ぬまでの間、人間が、その能力を最大限に発揮する充実した人生を過ごすために何が必要か考えていた。
私は、老いた人間が、生きている理由は、新しく生まれてくる命、育っている命に対して、自らの老い、自らの死を見せることではないかと思う。
子供たちは、老人の老いによる能力減退と、深い知識と愛情と、その死を見つめることで、人生と社会を深く知ることができると考える。
そのためには、一つ屋根の下で、みんなで力を合わせて生きていなければならない。
つまり「共同体」だ。
単家族では、老人や子供の世話を主婦に負荷を集中させるので、それらを分担して、無理なく介護や子育てができる単位は、数家族、可能ならば5家族が必要だろう。
江戸時代の「五人組」は、その意味でよく考えられた共同体制度だった。
総数で20名前後の共同体なら、たくさんの知恵がたくさんの文殊を生み出すことができる。
浅はかな思慮による暴走を避けることもできるだろう。
私は、これから日本社会の暴走や崩壊が避けられないと考えている。もう日本には、かつてのような高い能力や忍耐を持った賢人は非常に少ない。人間の質が圧倒的に落ちてるのだ。
政治を見ればわかる。本当に「バカと阿呆のそろい踏み」ばかりだ。新型コロナ禍で、私は、そのことを痛感し、「日本社会は終わりなんだ」と確信するようになった。
もっとも、苛酷な能力を要求される時代が繰り返されるなら、またその中から優れた人材も育ってくるだろうが、放射能汚染による人間の基本的な能力の下落については打つ手がない。
この後に及んで、人類の基本的な能力を担保するDNAを破壊し続ける原発を持ち上げ、戦争ばかりやりたがる人々が絶えないのをみて、もう「人類は滅亡するしかない」のかと、何度も何度も思い知らされる日が続いている。
最期は、ごく一部の人々が、山奥に逃げて、「ポツンと一軒家」で、みんなで力を合わせて共同し、未来の子供たちの健全なDNAを回復してもらいたいと、期待をかけるばかりだ。
かつて、老人を粗大ゴミのように山に捨てていた時代があったことが「楢山節考」の主題である。
江戸時代中期、社会が安定したのはいいが、進化とか発展とか前進とか拡大とかを考えず、ただ、世界の歯車が毎日毎日、永遠に変わらずに回っているように、定まった生産と消費が繰り返されると、みんな思い込んでいた時代だった。
生産と消費が一定であり、発展拡大が期待できないものと思ってしまえば、それに合わせた生計の調節が必要になる。
仮に、年間7000食しか得られない生産力の下では、一人一日二食としても、年間10人の命しか支えられない。
新しい命が生まれれば、古い命から消えてゆかねばならない。
おりんは、イワナ獲りの名人だったが、生まれてくる命のために、無理矢理、この世を去らねばならない羽目になった。
それは、集落共同体の掟だった。70才になれば、この世に生かしてもらえない。
おりんの生産力が、どれほど高くても、掟という重い拘束の前には従うしかない。
おりんは自ら歯を折り、その日を待った。
******************************************************
今の我々ならば、食料が不足すれば、生産を拡大すればよいと考える。新しい耕作地を開墾して、生産技術を進化させて、命の火を消さずにすむように手を尽くす。
だが、世界が永遠に変化しないと考え、掟に洗脳されてしまった人々は、創意工夫で生産力を拡大することまで頭が回らない。創意工夫を怖れているといってもよい。
不足すれば、古い命から順番に消すしかないと頑なに信じ込んでいる。
楢山節考は、そんな時代の「姥捨て」民俗を描いた小説だった。
長い戦乱の時代を経て、家康が安定社会を作り出したとき、武家階級、為政者が目指した社会は、第一義に「安定した秩序」であり、あらゆる社会の進歩、変化を「戦乱の火だね」として忌み嫌った。
例えば、社会を一変させるような革命的発明が登場したときも、為政者は強く怖れ、それを弾圧しようとした。
鳥人間第一号 浮田幸吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E7%94%B0%E5%B9%B8%E5%90%89
新しい創意工夫、革命的進化をもたらそうとすれば、国家権力から弾圧される。
それは、権力の秩序も地位も根底から脅かすからだ。人々が、昔から知られた古い秩序だけに拘泥し、頭のてっぺんからつま先まで、秩序に雁字搦めになってくれていることが一番大切だと思い込んでいた。
権力者・為政者だけではない。民衆自身が自らを縛り上げている縄や桎梏を神のように崇めていたのだ。
今で言えば、天皇制がそうだ。「天皇様を崇める」ことが、現在の自分の立場や生計を守ることだと思い込んでいる人々が、どれほどたくさんいることか?
そんな人々の自縄自縛の上に、社会の虚構が成立している。
「長いものに巻かれろ・強い者に従え」
そうして、国家権力のトップが核開発を持ち出して、その恐怖の危険性を見ようともせず、目先の金儲けのために民族の遺伝子を根底から破壊し、子供たちの健全な未来を危機に晒す社会は、民衆が自らを自縄し、真実から目を塞ぐことによってのみ成立している。
一方で天皇制を無条件に認める奴隷のような精神性が、他方で核開発によって地球社会全体を、取り返しのつかないほど汚染してゆく真実を知らなければならない。
ただ、自分の目先の生活が安泰であればよいわけではない。何よりも、子供たちの安全な未来を確保することだけが、自分たちを守ってゆくのだ。
我々は、権力の奴隷ではない。一人の自由な生きた人間であって、真実を見つめることで、社会の間違いを正し、子供たちの、よりよき未来を確保できる。
今、私はチェルノブイリ事故における残酷な現実を、再び直視しながら、国家権力に唯々諾々と従うことが、どれほど恐ろしい現実を招くのかについて、深い憂鬱のなかにいる。
みんな、原発事故がどれほど恐ろしいものか知らない。2011年当時、知ろうとしていた人も、今では関心を失い、「放射能汚染で、何も起きなかったじゃないか……」と言うようになっている。
だが違うんだ。みんなが知らないだけなんだ。
https://www.youtube.com/watch?v=uPFcn23q7uc&ab_channel=tothebluesea1
https://www.youtube.com/watch?v=0_NRz4vnESc&ab_channel=tothebluesea1
https://www.youtube.com/watch?v=SjINkMMCiT0&ab_channel=tothebluesea1
https://www.youtube.com/watch?v=VQezSZ6nh6c&ab_channel=tothebluesea1
東京は、チェルノブイリ事故におけるキエフよりも放射能汚染がひどかった。
東日本に居住する4000万人を超える人々(もしかしたら7000万人)が、上のNHK報道のような症状を呈し、たくさんの人々が、それによって死んでいる。
本当に恐ろしいのは、放射能による心不全や癌や白血病だけではない。何よりも認知症のように精神知能が劣化してゆくことなのだ。
だが、医療も政府もメディアも、その認知症が放射能被曝からきていること、その死が放射能汚染によるものであることを、徹底的に隠蔽している。
事故後、甲状腺癌になっても、激しい認知症委になっても、それが東電原発事故由来であることを教えてくれる医療機関はほとんどない。
それは甲状腺医学界のトップや、厚労省が、すべて真実を隠蔽し、人々に原発事故によって病気になっていることを教えないようにしているからだ。
それどころじゃない。東京でも、東日本でも、もの凄い数の人が死んでいるのに、それが統計に表れることさえない。政府が統計を捏造しているからだ。
東京では、2011年以降、火葬場が不足し、なかには火葬まで十日待ちの死者さえいた。 それほど火葬が逼迫したのに、一切、理由が報道されなかった。
https://www.e-sogi.com/guide/4294/
政府は、2012年以降、火葬逼迫に応じて全国で火葬場の新設を指示したが、これを知っている人も少ない。それが知られると、原発事故による大量死が知られてしまうからで、それは、一切報道されず、死者が激増していることを知らない人が大部分だった。 私の住む蛭川村でも、通常、月に一度もない葬儀が、2011年3月には、実に14件もあった。なかには20才代の若者まで含まれていた。
死因の大半が心不全だった。原発事故の意味を知っている私は、「セシウム心筋症」だろうと考えていたが、311巨大震災のあまりの凄まじい被害に隠れて、誰も気づかなかったのだ。(後にセシウムより、わずか数日で消える短寿命核種のせいと分かった)
許せなかったのが、日本政府が人口動態統計を操作したことだ。福島県内でも、大量死があったのに、それは全部震災のせいにされて、被曝死は完全に隠蔽された。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-365.html
もう一度、楢山節考に戻ろう。
「機械的唯物論」というのがあって、この世は単純なメカニズムの繰り返しだと考えるものだ。人口と生産力は定数であって、定まった需要と消費のなかで、過剰や不足が生まれれば、それを調節するには、古いものを排除し、消してゆかねばならない。
つまり、「老人たちは死ぬべき」という理屈だ。
麻生発言 高齢者は死ぬべき ブルガリアTV
https://www.youtube.com/watch?v=vFN7eTucz-U&feature=emb_logo&ab_channel=%E6%A3%AE%E9%87%8E%E5%89%9B
これは麻生太郎が一所懸命力説している屁理屈なのだが、現在の社会体制を維持してゆくためには、老人や貧乏人に犠牲になってもらわなければならない、と何度も主張している。
竹中平蔵の新自由主義は、まさにこの屁理屈が神髄で、金持ちと権力者を守るため、老人や貧乏人を犠牲にするという思想だ。
竹中路線は、菅義偉政権に100%反映されているが、最近では、年収200万円以上の年金生活者の医療費負担を2割増しにすると決定した。
これは事実上、「貧乏人は医者にかかれず死んでゆけ」という政策である。
消費増税(消費罰金税)も竹中路線だ。国家による生活保障と金持ちや大企業に対する税金など政策的関与を廃止して、何の制約もなく自由に金儲けさせる。資本家どうしてバッティングした場合でも、市場原理に委ねれば勝手に解決するというものだ。
おりんの村では、新しい命が来れば古い命は退場するしかない。両方の命を共存させようとは誰も考えないのだ。食料が不足すれば、新しい畑を開墾すればよいのに、誰もそれをしない。みんな変化を好まないからだ。
これは、天皇制に対して疑問を持たずに受け入れている日本人に共通していると私は思う。古い掟、習慣に何の疑問も持たずに、それを当然として遵守し、新しいイノベーションを警戒するのだ。
本当に理想的な村があるとすれば、それを命をとことん大切にする思想の村だと私は思う。
私も、96才になる母親を施設に預けて、素知らぬ顔をして生活しているが、これは殺したり凍死させたりしないだけで、おりんと同じ運命を与えている。
それでは、どうすべきなのか?
私は、人間が産まれて死ぬまでの間、人間が、その能力を最大限に発揮する充実した人生を過ごすために何が必要か考えていた。
私は、老いた人間が、生きている理由は、新しく生まれてくる命、育っている命に対して、自らの老い、自らの死を見せることではないかと思う。
子供たちは、老人の老いによる能力減退と、深い知識と愛情と、その死を見つめることで、人生と社会を深く知ることができると考える。
そのためには、一つ屋根の下で、みんなで力を合わせて生きていなければならない。
つまり「共同体」だ。
単家族では、老人や子供の世話を主婦に負荷を集中させるので、それらを分担して、無理なく介護や子育てができる単位は、数家族、可能ならば5家族が必要だろう。
江戸時代の「五人組」は、その意味でよく考えられた共同体制度だった。
総数で20名前後の共同体なら、たくさんの知恵がたくさんの文殊を生み出すことができる。
浅はかな思慮による暴走を避けることもできるだろう。
私は、これから日本社会の暴走や崩壊が避けられないと考えている。もう日本には、かつてのような高い能力や忍耐を持った賢人は非常に少ない。人間の質が圧倒的に落ちてるのだ。
政治を見ればわかる。本当に「バカと阿呆のそろい踏み」ばかりだ。新型コロナ禍で、私は、そのことを痛感し、「日本社会は終わりなんだ」と確信するようになった。
もっとも、苛酷な能力を要求される時代が繰り返されるなら、またその中から優れた人材も育ってくるだろうが、放射能汚染による人間の基本的な能力の下落については打つ手がない。
この後に及んで、人類の基本的な能力を担保するDNAを破壊し続ける原発を持ち上げ、戦争ばかりやりたがる人々が絶えないのをみて、もう「人類は滅亡するしかない」のかと、何度も何度も思い知らされる日が続いている。
最期は、ごく一部の人々が、山奥に逃げて、「ポツンと一軒家」で、みんなで力を合わせて共同し、未来の子供たちの健全なDNAを回復してもらいたいと、期待をかけるばかりだ。