米大統領選、開票が進み、フロリダ州でトランプが勝っているところから、書いてゆきたい。
トランプがユダヤ教徒に改宗し、イスラエルのために働くと宣言した以上、彼にはイスラエル=モサドという世界最強のカルト諜報機関が背後についたことを意味していて、フロリダ州における最期の最期での大逆転も、モサドの演出だろうと予想している。
まだ、バイデンの方が有利な情勢だが、トランプは、どんな汚い手を使ってでも目的を実現する男だ。だが、トランプは再選されて大統領になっても、どうせすぐに死んでしまうだろうから、次期大統領はペンスということになる。
この男も、もちろん福音派シオニストであり、アメリカがイスラエルの属国化することは妨げられないと考える。つまり、相変わらずタルムードを信奉するユダヤ教徒の世界が完成に向かってゆくわけだ。
***********************************************************
ここから、本日のブログ
自民党の大臣には、ときどき変わり種が出てくる。
最大の変人は、尾辻秀久という人物で、厚労相を務めたのだが、若い頃はヒッピーだったという。
ただ、尾辻は、ヒッピー時代に哲学を深めた形跡はなく、権力や金の輝きに心を奪われたまま、現在も、靖国神社参拝に血道を上げている。
https://yuuma7.com/%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%81-%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%97%A5%E5%B8%B8%E7%94%9F%E6%B4%BB/
また、文科省の副大臣だったことのある、義家弘介という元ヤンキー(不良)あがりの自民党極右議員がいるのだが、この男が、「ヤンキーでも頑張れば大臣になれる」なんて調子で、子供たちの競争を煽っていることが知られている。
これに対して、関大の内田教授が、ズバリ直裁に競争主義、序列主義を批判している。
点数学力の序列化・競争がもたらすものーいま、教育に求められるものー 内田慶市 関西大学文学部教授
http://keiuchid.sakura.ne.jp/jts/
以下、一部引用
今この国においては、いじめや不登校、それに伴う子どもたちの相次ぐ自殺、あるいは児童虐待といったように、子どもたちを取り巻く環境は最悪の状況にあります。
こうした痛ましい現実に迫られて、大人社会もようやく重い腰を上げ、社会全体でこの国の教育を見直そうという気運が高まったことは「遅きに失した」とはいえ、決して悪いことではありません。
今はすでになくなってはいますが、「教育再生会議」なるものも、その流れの中で組織されたものと言えるでしょう。
1. 教育再生会議の論理
ところで、その再生会議報告では「今こそ社会総がかりで教育を再生しなければなりません」と述べられています。その言やよし。しかしながら、この国の教育がこのような状況に陥ったその根本原因を深く問いただすことをせずに、いわゆる「対症療法」で乗り切ろうとしているところに問題があると私は考えています。
大体、任期半ばで職務をほっぽり出して議員にうって出るなどという無責任な委員がいたくらいですから、その中身は自ずと知れたものというものであります。
たとえば、いじめや校内暴力に対しては、「暴力などの反社会的行動を繰り返す子供に対する毅然たる指導を」と述べ、その具体的な方法として、「出席停止」「体罰の範囲等の見直し」などを挙げています。
早い話が「口で言って分からなければ、力で押さえ込む」やり方ですが、彼らがなぜそのような反社会的な行動を取るのか、そこが解明されない限り根本的な解決にはならないはずなのに、「力には力を」「暴力には暴力を」なのです。それは、原因を解明できない大人の責任回避と言ってもいいだろうと私は考えております。
「あいつはうざい→やっつけろ」といういじめの構図は、実は大人社会の「あいつは言うことを聞かない→目にもの見せてやろう」「あいつは敵だ→殺せ」と同じです。それはまた、「強いもの=正義」の論理そのものでもあります。
アメリカのイラク戦争はその典型であり、「暴力」が生み出すものは「暴力」でしかないことは、この地球上で起っている全ての「戦争」が証明しています。
「テロとの戦い」は偽善的な名目に過ぎません。自分たちの暴力を正当化しているに過ぎないのです。いずれにしても、「毅然たる指導」「厳しく対処する」ことと「力」に拠るということとは本来異質のものであるはずです。
習熟度別指導の拡充、学校選択制の導入にしても、その背後にあるものは、あくまでも「学力向上」という至上命令でしかないように思えてなりません。なぜ少人数教育や習熟度別指導が必要なのか、それらの功罪はどこにあるのかといった原則的な議論が抜け落ちてしまっています。
実は、最近、日本で一つの「流行」になった感さえある「小中一貫教育」にしても同じことが言えるように思います。私の市でも、これを重点施策として推進していますが、どうも、その原理そのものまでの検討がなされているかはなはだ疑問の部分もあるのです。形だけ9年を見通した教育と言いながら、カリキュラムや教科書が、これまでの6-3制のままで、小中一貫教育の本来のメリットは生かされるのでしょうか。
いずれにしても、再生会議を貫く論理は、2点に集約されるように私は考えています。
一つは、「強者の論理」、もう一つは「あれかこれか」の論理です。
両者はもちろん相互に関連し合うものでありますが、前者は、別の言い方をすれば、「強いものが正義」=「競争原理の行き着く先」そのものであります。
そもそも、会議のメンバーがいわゆる「勝ち組」によって構成されているのですから、結論がそこに向かうのは予想されたことではありました。
「いや、メンバーには元ヤンキー先生や元オール1の先生もいるじゃないか。彼らは勝ち組ではない」という人がいるかも知れません。しかしながら、元ヤンキーだから元オール1だから、同じような子どもの気持ちが分かるとは限らないのです。
むしろ、「元負け組」が最もたちが悪いとさえ言えるのです。それを「売り物」として、「お前たちも頑張れば俺たちのような勝ち組になれる」と主張するに決まっているからです。
「暴君の臣民は、暴君よりも暴である」と中国の文豪、魯迅は言いましたが、それは世の習いであり、彼等の目からすればワーキングプアは「怠け者、頑張らないものの代表」としか映らないのではないでしょうか。
「努力すれば報われる」、「夢は必ず叶う」とは「勝利者の論理」です。むろん努力を怠ってはならないし、夢は捨ててはいけません。でも、人は全てが勝者にはなれないこともまた事実なのです。
後者(あれかこれかの論理)について言えば、たとえば、「ゆとり教育」がダメなら「学力向上をめざす教育」、「画一的教育」に対しては「個性を重んじた教育」=「習熟度別指導」=「学校選択制」、「平等・平均」に対しては「競争」を、「自由・放任」には「規律・厳罰」をというように、「あれがダメならこれ」「あれかこれか」の二者択一的な考え方に他なりません。
確かに、「学力低下」の原因の一つには「ゆとり教育」があるはずです。授業時間数が少なくなるのですから、それはある意味では当然の結果であるはずです。しかしながら、「ゆとり教育」が本来目指したものは一体何だったのか。
「総合的学習」というのは何だったのか。そこから議論して、総括すべきなのに、「学力」に限定して「ゆとり教育」を全面否定するのです。昨日までは文科省の指導通りに「ゆとり」を重んじてきたのに、「あれは駄目だったので、明日からはそれは止めて学力向上に力を入れます」では、現場の先生は戸惑うばかりでしょう。
これに対して、私はとりわけ「教育」という営みにおいては、「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」という考え方をすべきだと思っています。
画一的な教育と個性尊重の教育はそれぞれが排他的な関係にあるのではなく、どちらの部分も必要なのです。
何人も平等に教育を受ける権利が認められるし、生徒は平等に扱われなければなりません。しかしながら、努力をしてもしなくても評価が一律、平等であれば、やる気は失せてきます。そこでは「競争」も必要不可欠なものとなってくるはずです。他と競い合うことは決して否定されるものではなく、競い合いによってお互いが共に成長するものでしょう。「競争」が「悪」なのではなく、競争の結果ばかりを重視し、勝者だけを讃えることが「悪」なのだと私は思っています。
いずれにせよ、再生会議の報告で否定されているものと、肯定されているものは、相対立する概念ではありますが、それは「あれかこれか」の関係ではなく、「あれもこれも」の関係としてとらえることが重要だと私は考えています。
****************************************************************
引用以上
私は、このブログで、競争主義・序列主義の弊害を繰り返し取り上げてきたのだが、これは江戸時代初期に、新井白石が徳川幕府安定を目的に導入した「儒教」=朱子学思想から来ているものだ。
当時、徳川幕府は、民衆の教育レベルを上げるために、寺小屋・藩校・私塾などが発達し、世界最高の教育水準にあった。
このとき、教科書として使われたのは、大半が孔子とその弟子たちのもので、基本は詩経、書経、礼記、楽経、易経、春秋などであり、論語、大学などを全文丸暗記するような教育が流行した。
その基底には、もちろん競争主義、序列選別主義が流れていた。成績が良ければ、当時の藩体制に重く用いられて、上位の身分に行けるという希望があった。
儒教の本質を簡単にいえば、国家=社会体制が、個人の意思、人権・基本的権利よりも上にある、という思想であって、社会を安定させるためには序列が必要であり、ランクの低い者は、高い者に無条件に従うことが平和をもたらすという思想である。
士農工商の身分制度、男尊女卑の価値観で「人には生まれながらの序列、差別がある」かのように民衆を教育洗脳してきた。このため、身分差別と序列を絶対化することにより、見栄とメンツの価値観が社会を覆った。
これが延々と400年間も生き延びてきて、「末は博士か大臣か」「東大卒はエライ、政治家、医師はエライ」とかの差別、序列志向の価値観を人々に植え付けてきた。
地位が高く、世間がエライと認める者に従うのが社会安定に必要であって、「エライ人になれ!」という価値観が、日本の全国民を呪い潰してきたのだ。
現在もなお、差別・序列を絶対化しようとする人々が、保守・自民党支持者となり、「そうではなく、個人の人権、愛情こそ社会でもっとも大切だ」と考える人々が、どちらかといえば革新とかリベラルに位置してきた。
これがバシャールの言う、「ネガティブとポジティブ」の本当の意味であることは、私が何度も書いてきた本旨だ。
つまり、現在に至ってもなお、保守・自民党が主導権を握る社会というのは、すなわち、差別や序列を容認する社会であり、彼らが多数派を占めているということは、人間社会が、人々の笑顔や愛情によって支えられている本質を理解できない人が多数存在することを意味している。
彼らの共通点は、他人に評価されたがることだ。
差別・序列が社会体制の基礎であると勘違いさせられた人々は、子供たちの教育にあっても、「エライ人を目指す=一番になる」という価値観に呪われていて、人に対する優しさや愛情よりも、自分への評価、社会の繁栄と権力・私財の蓄積の方が大切だと考えるようになる。しかも、この洗脳は、統一教会、創価学会なみに強固だ。
だから、人間社会が差別や序列によって動いているのではなく、人々の笑顔や愛情によって動いていることを理解している(感じ取っている)人々は、序列の高さを目指すのではなく、蓄財の多さを目指すのでもなく、一番になることが価値なのではなく、人に対する優しさ、暖かさ、人の心を救うことが本当の価値なのだと考えている。
人生の価値は、自分が億万長者になることではない。権力者になることでもない。人々の心を温かくして住みやすい社会を作ることだ、と確信して信念を曲げずに生きている人がいて、大半の人々は、心の底で、そんな人に憧れている。
その人の名は、尾畠春男という。また、災害ボランティアの多くが、尾畠さんの「無償の愛」を目指している。
https://www.youtube.com/watch?v=dY-ui7iBUM0&ab_channel=%E6%83%85%E7%86%B1%E5%A4%A7%E9%99%B8%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
「総理大臣よりも、天皇陛下よりも、尾畠春男さんがエライ」と考える人々が増えれば、日本社会はずいぶんと良くなるだろうが、その尾畠人気を利用しようとして、政府は、勲章を授与しようとしている。
しかし、尾畠さんにとっては、そんなものはゴミほどの値打ちしかないだろう。
我々にとっては、勲章を身につけて偉そうにしている尾畠さんなどには興味がない。赤い鉢巻きを巻いて、ドロドロのつなぎを着て、一生懸命、被災家屋の泥を掻き出している姿を見て、何千万人という人の心が癒やされているのだ。世を儚んで自殺を考えている人でも、尾畠さんの「無償の愛」に命を救われるのだ。
尾畠さんは、一番になることも、勲章をもらえる序列の高い人間になることも、何の関係もない。ただ、自分の行為を通じて、人々が笑顔になってくれることで、自分自身も救われ、癒やされている。
「人の笑顔こそ社会最大の価値」
と多くの人々が理解できるようになれば、そのとき、本当の人間解放社会がやってくる。
では、どうして、世の中に尾畠春男さんが少ないのか?
それは、保育園、幼稚園の時代から、子供たちに番付、競争を強要し、人間に序列が必要であるかのような洗脳を行っているからだ。
幼い頃から、競合する他者を蹴飛ばして、自分が上に上ることが価値であるかのように洗脳されてしまっているからだ。
幼稚園、小学校時代の競争主義教育は、人々の人生観の根底に強固に居座る。競争して自分が勝つことよりも、他人の笑顔を見ることの方が高い価値だと理解できるようになるには、とてつもない思想価値観の逆転が必要になる。
この日本社会にあっては、学校やテレビやパソコンネットなど、ありとあらゆる情報が序列競争第一主義者たちによって弄ばれていて、無垢な子供に、序列で上に行くことが大切な価値であるかのように勘違いさせる仕組みができている。
結局、真理に気づくためには、自分が社会の価値観から脱落させられるような苛酷な体験をして、初めて思い知らされるようなプロセスが必要になる。
社会の秩序からつまはじきにされてみて、初めて社会の根源的な矛盾に気づかされるのだ。
このとき、私のブログで書いているような情報(考え方)が、わずかでもあれば、それなりに思索の手助けになると思って書いているわけだが、残念ながら、私のブログは、反社会性主張と決めつけられて、原則グーグルの検索からも排除されるので、読んでくれる人は少ない。
だが、真理を曲げることはできない。蓄財や権力、序列の高さを実現した人生に、本当の満足感は得られるのだろうか?
私は、他人を足蹴にするだけで、笑顔のない人生は愚かで空虚な人生だと思う。
私が反原発活動を行って以来、私を小馬鹿にし、嘲笑しまくる人物がたくさんいるのだが、そんな連中が、社会から重んじられるのを見たことがない。
私のブログは、これ以上ないほど誹謗中傷を受けているが、読者は、どんどん増えてゆく。
ヘーゲルは「社会は合理性に向かう」と指摘した。社会の運動は、決して一次関数ではなく、らせん形に行ったり来たりしながら、ときには大きく後戻りしてから、全体として少しずつ前進する。
私は、バシャールが指摘したように、いずれネガティブな価値観の人々は消え去り、人の笑顔を価値として生きてゆくポジティブな人々の世界がやってくると信じている。
トランプがユダヤ教徒に改宗し、イスラエルのために働くと宣言した以上、彼にはイスラエル=モサドという世界最強のカルト諜報機関が背後についたことを意味していて、フロリダ州における最期の最期での大逆転も、モサドの演出だろうと予想している。
まだ、バイデンの方が有利な情勢だが、トランプは、どんな汚い手を使ってでも目的を実現する男だ。だが、トランプは再選されて大統領になっても、どうせすぐに死んでしまうだろうから、次期大統領はペンスということになる。
この男も、もちろん福音派シオニストであり、アメリカがイスラエルの属国化することは妨げられないと考える。つまり、相変わらずタルムードを信奉するユダヤ教徒の世界が完成に向かってゆくわけだ。
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ここから、本日のブログ
自民党の大臣には、ときどき変わり種が出てくる。
最大の変人は、尾辻秀久という人物で、厚労相を務めたのだが、若い頃はヒッピーだったという。
ただ、尾辻は、ヒッピー時代に哲学を深めた形跡はなく、権力や金の輝きに心を奪われたまま、現在も、靖国神社参拝に血道を上げている。
https://yuuma7.com/%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%81-%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%97%A5%E5%B8%B8%E7%94%9F%E6%B4%BB/
また、文科省の副大臣だったことのある、義家弘介という元ヤンキー(不良)あがりの自民党極右議員がいるのだが、この男が、「ヤンキーでも頑張れば大臣になれる」なんて調子で、子供たちの競争を煽っていることが知られている。
これに対して、関大の内田教授が、ズバリ直裁に競争主義、序列主義を批判している。
点数学力の序列化・競争がもたらすものーいま、教育に求められるものー 内田慶市 関西大学文学部教授
http://keiuchid.sakura.ne.jp/jts/
以下、一部引用
今この国においては、いじめや不登校、それに伴う子どもたちの相次ぐ自殺、あるいは児童虐待といったように、子どもたちを取り巻く環境は最悪の状況にあります。
こうした痛ましい現実に迫られて、大人社会もようやく重い腰を上げ、社会全体でこの国の教育を見直そうという気運が高まったことは「遅きに失した」とはいえ、決して悪いことではありません。
今はすでになくなってはいますが、「教育再生会議」なるものも、その流れの中で組織されたものと言えるでしょう。
1. 教育再生会議の論理
ところで、その再生会議報告では「今こそ社会総がかりで教育を再生しなければなりません」と述べられています。その言やよし。しかしながら、この国の教育がこのような状況に陥ったその根本原因を深く問いただすことをせずに、いわゆる「対症療法」で乗り切ろうとしているところに問題があると私は考えています。
大体、任期半ばで職務をほっぽり出して議員にうって出るなどという無責任な委員がいたくらいですから、その中身は自ずと知れたものというものであります。
たとえば、いじめや校内暴力に対しては、「暴力などの反社会的行動を繰り返す子供に対する毅然たる指導を」と述べ、その具体的な方法として、「出席停止」「体罰の範囲等の見直し」などを挙げています。
早い話が「口で言って分からなければ、力で押さえ込む」やり方ですが、彼らがなぜそのような反社会的な行動を取るのか、そこが解明されない限り根本的な解決にはならないはずなのに、「力には力を」「暴力には暴力を」なのです。それは、原因を解明できない大人の責任回避と言ってもいいだろうと私は考えております。
「あいつはうざい→やっつけろ」といういじめの構図は、実は大人社会の「あいつは言うことを聞かない→目にもの見せてやろう」「あいつは敵だ→殺せ」と同じです。それはまた、「強いもの=正義」の論理そのものでもあります。
アメリカのイラク戦争はその典型であり、「暴力」が生み出すものは「暴力」でしかないことは、この地球上で起っている全ての「戦争」が証明しています。
「テロとの戦い」は偽善的な名目に過ぎません。自分たちの暴力を正当化しているに過ぎないのです。いずれにしても、「毅然たる指導」「厳しく対処する」ことと「力」に拠るということとは本来異質のものであるはずです。
習熟度別指導の拡充、学校選択制の導入にしても、その背後にあるものは、あくまでも「学力向上」という至上命令でしかないように思えてなりません。なぜ少人数教育や習熟度別指導が必要なのか、それらの功罪はどこにあるのかといった原則的な議論が抜け落ちてしまっています。
実は、最近、日本で一つの「流行」になった感さえある「小中一貫教育」にしても同じことが言えるように思います。私の市でも、これを重点施策として推進していますが、どうも、その原理そのものまでの検討がなされているかはなはだ疑問の部分もあるのです。形だけ9年を見通した教育と言いながら、カリキュラムや教科書が、これまでの6-3制のままで、小中一貫教育の本来のメリットは生かされるのでしょうか。
いずれにしても、再生会議を貫く論理は、2点に集約されるように私は考えています。
一つは、「強者の論理」、もう一つは「あれかこれか」の論理です。
両者はもちろん相互に関連し合うものでありますが、前者は、別の言い方をすれば、「強いものが正義」=「競争原理の行き着く先」そのものであります。
そもそも、会議のメンバーがいわゆる「勝ち組」によって構成されているのですから、結論がそこに向かうのは予想されたことではありました。
「いや、メンバーには元ヤンキー先生や元オール1の先生もいるじゃないか。彼らは勝ち組ではない」という人がいるかも知れません。しかしながら、元ヤンキーだから元オール1だから、同じような子どもの気持ちが分かるとは限らないのです。
むしろ、「元負け組」が最もたちが悪いとさえ言えるのです。それを「売り物」として、「お前たちも頑張れば俺たちのような勝ち組になれる」と主張するに決まっているからです。
「暴君の臣民は、暴君よりも暴である」と中国の文豪、魯迅は言いましたが、それは世の習いであり、彼等の目からすればワーキングプアは「怠け者、頑張らないものの代表」としか映らないのではないでしょうか。
「努力すれば報われる」、「夢は必ず叶う」とは「勝利者の論理」です。むろん努力を怠ってはならないし、夢は捨ててはいけません。でも、人は全てが勝者にはなれないこともまた事実なのです。
後者(あれかこれかの論理)について言えば、たとえば、「ゆとり教育」がダメなら「学力向上をめざす教育」、「画一的教育」に対しては「個性を重んじた教育」=「習熟度別指導」=「学校選択制」、「平等・平均」に対しては「競争」を、「自由・放任」には「規律・厳罰」をというように、「あれがダメならこれ」「あれかこれか」の二者択一的な考え方に他なりません。
確かに、「学力低下」の原因の一つには「ゆとり教育」があるはずです。授業時間数が少なくなるのですから、それはある意味では当然の結果であるはずです。しかしながら、「ゆとり教育」が本来目指したものは一体何だったのか。
「総合的学習」というのは何だったのか。そこから議論して、総括すべきなのに、「学力」に限定して「ゆとり教育」を全面否定するのです。昨日までは文科省の指導通りに「ゆとり」を重んじてきたのに、「あれは駄目だったので、明日からはそれは止めて学力向上に力を入れます」では、現場の先生は戸惑うばかりでしょう。
これに対して、私はとりわけ「教育」という営みにおいては、「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」という考え方をすべきだと思っています。
画一的な教育と個性尊重の教育はそれぞれが排他的な関係にあるのではなく、どちらの部分も必要なのです。
何人も平等に教育を受ける権利が認められるし、生徒は平等に扱われなければなりません。しかしながら、努力をしてもしなくても評価が一律、平等であれば、やる気は失せてきます。そこでは「競争」も必要不可欠なものとなってくるはずです。他と競い合うことは決して否定されるものではなく、競い合いによってお互いが共に成長するものでしょう。「競争」が「悪」なのではなく、競争の結果ばかりを重視し、勝者だけを讃えることが「悪」なのだと私は思っています。
いずれにせよ、再生会議の報告で否定されているものと、肯定されているものは、相対立する概念ではありますが、それは「あれかこれか」の関係ではなく、「あれもこれも」の関係としてとらえることが重要だと私は考えています。
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引用以上
私は、このブログで、競争主義・序列主義の弊害を繰り返し取り上げてきたのだが、これは江戸時代初期に、新井白石が徳川幕府安定を目的に導入した「儒教」=朱子学思想から来ているものだ。
当時、徳川幕府は、民衆の教育レベルを上げるために、寺小屋・藩校・私塾などが発達し、世界最高の教育水準にあった。
このとき、教科書として使われたのは、大半が孔子とその弟子たちのもので、基本は詩経、書経、礼記、楽経、易経、春秋などであり、論語、大学などを全文丸暗記するような教育が流行した。
その基底には、もちろん競争主義、序列選別主義が流れていた。成績が良ければ、当時の藩体制に重く用いられて、上位の身分に行けるという希望があった。
儒教の本質を簡単にいえば、国家=社会体制が、個人の意思、人権・基本的権利よりも上にある、という思想であって、社会を安定させるためには序列が必要であり、ランクの低い者は、高い者に無条件に従うことが平和をもたらすという思想である。
士農工商の身分制度、男尊女卑の価値観で「人には生まれながらの序列、差別がある」かのように民衆を教育洗脳してきた。このため、身分差別と序列を絶対化することにより、見栄とメンツの価値観が社会を覆った。
これが延々と400年間も生き延びてきて、「末は博士か大臣か」「東大卒はエライ、政治家、医師はエライ」とかの差別、序列志向の価値観を人々に植え付けてきた。
地位が高く、世間がエライと認める者に従うのが社会安定に必要であって、「エライ人になれ!」という価値観が、日本の全国民を呪い潰してきたのだ。
現在もなお、差別・序列を絶対化しようとする人々が、保守・自民党支持者となり、「そうではなく、個人の人権、愛情こそ社会でもっとも大切だ」と考える人々が、どちらかといえば革新とかリベラルに位置してきた。
これがバシャールの言う、「ネガティブとポジティブ」の本当の意味であることは、私が何度も書いてきた本旨だ。
つまり、現在に至ってもなお、保守・自民党が主導権を握る社会というのは、すなわち、差別や序列を容認する社会であり、彼らが多数派を占めているということは、人間社会が、人々の笑顔や愛情によって支えられている本質を理解できない人が多数存在することを意味している。
彼らの共通点は、他人に評価されたがることだ。
差別・序列が社会体制の基礎であると勘違いさせられた人々は、子供たちの教育にあっても、「エライ人を目指す=一番になる」という価値観に呪われていて、人に対する優しさや愛情よりも、自分への評価、社会の繁栄と権力・私財の蓄積の方が大切だと考えるようになる。しかも、この洗脳は、統一教会、創価学会なみに強固だ。
だから、人間社会が差別や序列によって動いているのではなく、人々の笑顔や愛情によって動いていることを理解している(感じ取っている)人々は、序列の高さを目指すのではなく、蓄財の多さを目指すのでもなく、一番になることが価値なのではなく、人に対する優しさ、暖かさ、人の心を救うことが本当の価値なのだと考えている。
人生の価値は、自分が億万長者になることではない。権力者になることでもない。人々の心を温かくして住みやすい社会を作ることだ、と確信して信念を曲げずに生きている人がいて、大半の人々は、心の底で、そんな人に憧れている。
その人の名は、尾畠春男という。また、災害ボランティアの多くが、尾畠さんの「無償の愛」を目指している。
https://www.youtube.com/watch?v=dY-ui7iBUM0&ab_channel=%E6%83%85%E7%86%B1%E5%A4%A7%E9%99%B8%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
「総理大臣よりも、天皇陛下よりも、尾畠春男さんがエライ」と考える人々が増えれば、日本社会はずいぶんと良くなるだろうが、その尾畠人気を利用しようとして、政府は、勲章を授与しようとしている。
しかし、尾畠さんにとっては、そんなものはゴミほどの値打ちしかないだろう。
我々にとっては、勲章を身につけて偉そうにしている尾畠さんなどには興味がない。赤い鉢巻きを巻いて、ドロドロのつなぎを着て、一生懸命、被災家屋の泥を掻き出している姿を見て、何千万人という人の心が癒やされているのだ。世を儚んで自殺を考えている人でも、尾畠さんの「無償の愛」に命を救われるのだ。
尾畠さんは、一番になることも、勲章をもらえる序列の高い人間になることも、何の関係もない。ただ、自分の行為を通じて、人々が笑顔になってくれることで、自分自身も救われ、癒やされている。
「人の笑顔こそ社会最大の価値」
と多くの人々が理解できるようになれば、そのとき、本当の人間解放社会がやってくる。
では、どうして、世の中に尾畠春男さんが少ないのか?
それは、保育園、幼稚園の時代から、子供たちに番付、競争を強要し、人間に序列が必要であるかのような洗脳を行っているからだ。
幼い頃から、競合する他者を蹴飛ばして、自分が上に上ることが価値であるかのように洗脳されてしまっているからだ。
幼稚園、小学校時代の競争主義教育は、人々の人生観の根底に強固に居座る。競争して自分が勝つことよりも、他人の笑顔を見ることの方が高い価値だと理解できるようになるには、とてつもない思想価値観の逆転が必要になる。
この日本社会にあっては、学校やテレビやパソコンネットなど、ありとあらゆる情報が序列競争第一主義者たちによって弄ばれていて、無垢な子供に、序列で上に行くことが大切な価値であるかのように勘違いさせる仕組みができている。
結局、真理に気づくためには、自分が社会の価値観から脱落させられるような苛酷な体験をして、初めて思い知らされるようなプロセスが必要になる。
社会の秩序からつまはじきにされてみて、初めて社会の根源的な矛盾に気づかされるのだ。
このとき、私のブログで書いているような情報(考え方)が、わずかでもあれば、それなりに思索の手助けになると思って書いているわけだが、残念ながら、私のブログは、反社会性主張と決めつけられて、原則グーグルの検索からも排除されるので、読んでくれる人は少ない。
だが、真理を曲げることはできない。蓄財や権力、序列の高さを実現した人生に、本当の満足感は得られるのだろうか?
私は、他人を足蹴にするだけで、笑顔のない人生は愚かで空虚な人生だと思う。
私が反原発活動を行って以来、私を小馬鹿にし、嘲笑しまくる人物がたくさんいるのだが、そんな連中が、社会から重んじられるのを見たことがない。
私のブログは、これ以上ないほど誹謗中傷を受けているが、読者は、どんどん増えてゆく。
ヘーゲルは「社会は合理性に向かう」と指摘した。社会の運動は、決して一次関数ではなく、らせん形に行ったり来たりしながら、ときには大きく後戻りしてから、全体として少しずつ前進する。
私は、バシャールが指摘したように、いずれネガティブな価値観の人々は消え去り、人の笑顔を価値として生きてゆくポジティブな人々の世界がやってくると信じている。