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精神科医師のブログ。
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11月14日を「いい医師の日」に。その2

2009年11月03日 | Weblog
それでは、いい医師とはどういう医師だろうか?

医師と医師以外の人を分けるものは何か?
先日参加した臨床研修の指導医ワークショップでのプロダクトを下にあげてみる。



医師法によると

「医療と保健指導を司ることによって、公衆衛生の向上と増進に寄与し、国民の健康的な生活を確保する。」

とある。

そして

「医師以外は医業ができない。 」(業務独占)

と規定されている。

一方で

「診療に従事する医師は、診察治療の求があった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」(応召義務)

という規定がある。ちなみに罰則規定はない。そしてこの義務は米国にはない。

技術や知識、力を持っているものはそれ相応の義務があるということだ。
ノブレス・オブリージュに類するものか。

有名な「ヒポクラテスの誓い」を見てみる。

「ヒポクラテスの誓い(ヒポクラテスのちかい、英語: The Hippocratic Oath)は、の倫理・任務などについての、ギリシア神への宣誓文。現代の医療倫理の根幹を成す患者の生命・健康保護の思想、患者のプライバシー保護のほか、専門家としての尊厳の保持、徒弟制度の維持や職能の閉鎖性維持なども謳われている。なお、誤解されがちだが、患者への自己犠牲的献身を謳っているわけではない。

「著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。」
Wikipedia:ヒポクラテスの誓い

だいたいいいことを言っていると思うが、この項には異論を唱えたい。
技術や知識は大衆のためにある。
知識や技術を分かりやすい形で伝えるのも仕事だ。

覚悟という意味では、むしろ長崎で西洋医学を教えたお雇い外国人のポンペの言葉が身にしみる。

「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」
「The Doctor is a way of life,to live it,or to leave it.」

医師とはある生き方のことらしい。

山本周五郎の赤ひげ(新出去定)にも登場願おう。

「現在われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ、貧困と無知とに勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかはない、わかるか」

難しい・・・。

さて、研究や教育も医師の仕事とされる。
臨床での知見や経験をまとめ、医学という巨大な科学的、経験的知識のプールの絶え間ない刷新、改定に参加する。
患者さんから学んだことを皆が使える知識にする。
後輩の医師や学生、コメディカルに技術や知識を伝える。
ささやかであってもこれらに参加することも医師として求められていることだ。

ますます分からなくなってきた・・。

ところで医師には診断治療研究の技術者(specialist)としての側面と、役割(role)としての側面があることがわかる。

患者やコミュニティへの医療の継続性や責任性を包括的に保証する医師の役割を重視するのがジェネラリスト、必要なときに知識や技術を提供するのを重視するのをスペシャリストと分けて考えてみるのも助けになるだろう。

もちろん一人の医師の中に両方の要素が様々な割合で併存する。

権利意識の高まりから医療訴訟が増え、危険なことはやってられないと思い、とことんつきあう態度の医師、外科や産婦人科などの大変なインターベンションを伴う科に進む若い医師が減っている。
自分たちの生活も大事だと考え、そこそこの実践でよしとする医師が増えている。

覚悟と責任の問題から役割としての医師を担える人が減っきているような気がする。
その公的な役割を自覚している医師はどのくらいいるだろうか。
まず医師にしか出来ないことを医師がちゃんとやることが必要であろう。

それでは医師にしかできないこととは何であろうか?

医師は診断と治療を行うが、その究極の姿(役割)は「死亡診断書作成士」であろう。
死亡診断書を書くのは医師(歯科医師含む)にしか出来ない。
また「うつ病」の診断で「休養を要す」という診断書をだしたり、保険会社の診断書を書いたりすること。
つまり診断により社会的責務を免責したり、障害をアセスメントし、皆のいのちや生きる権利を守るのことも仕事だ。
(年金の診断書など。)

こう考えると医師とは広い意味での医療、社会資源のトリアージという社会的な責務がある公職である。
限られた地域のリソースをいかに配分するかという判断が求められている点において、政治家や裁判官などと同じような意味合いがある。
医師には人権感覚、バランス感覚が求められるだろう。
パンデミックや災害の現場、あるいは医療が極端に不足する状態などでは、普段はわかりにくいそういったことが明らかになる。


ところで技術者(Specialist)としての医師の部分の多くはコメディカル(specialist)が十分担うことが出来る。
またシステムをつくることで解決できる部分もある。

大量生産大量消費にうんざりする人が増え、製造業が不況だからというのもあろう。
確かに医療や福祉周辺は人気でありコメディカルと言われる職種の数はどんどん増えている。
理学療法士や救急救命士などは供給過多気味で飽和状態に近いとも言われる。

しかし彼らは十分に活躍できていない。
それはコメディカルのリーダーとしての役割を果たせる医師が少ないからだろう。
チーム医療をさらに推進しコメディカルが力を十二分に発揮してもらうことで医師不足を補うことができるだろう。

思い出すのはリハビリテーションのセラピストに「先生は設計士でおれたちは職人だから。」といわれたこと。
これは自分の役割に悩んでいたときだったのでものすごく腑に落ちるたとえだった。

コメディカルが十分に活躍できないのは医師の責任でもある。
もっとも本当に優秀なコメディカルは医師を上手に使うが・・・。

そろそろまとめよう。

「人生のよろず相談を行う。使えるものは何でも使う、なければ作る。」というのが自分のスタンス。

もう少し細かく見ると

病気をはじめ様々な理由で困っている人に寄り添い、とことん手を尽くす。
現在の医学ではどうしようもない場合でもともに悩みオロオロしながら関わり続ける。
保健医療福祉にかかわる多くの職種の人が気持ちよく最大限能力を発揮して働けるようにお膳立てをする。
医学的技術や知識の習得を怠ることなく続け、また技術知識プールの更新や追加も行う。
臨床で見え(てしまう)ことを分かりやすい形で地域や行政に還元し、よりよい医療の仕組みや、後進の育成、地域づくりにもかかわる。
元気で働き続けられるように自分の健康管理もしっかりできる。

医療現場はそもそも社会の矛盾や不条理の集まるところである。
コミュニティからちょっと離れた位置にいつつも、社会の矛盾や不条理に対して「悩み、たたかう。」

このあたりが私の考える「いい医師」ということになろう。

(・・・続く)

11月14日を「いい医師の日」に。その1
ジェネラリストとスペシャリスト