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精神科医師のブログ。
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人が育つ環境とは?イマドキの医師養成

2012年06月05日 | Weblog
市立大町総合病院で第25回『カモシカ学習会』が開催された。

今回は諏訪中央病院の総合診療部部長の佐藤泰吾先生が講師であった。
テーマは「諏訪中央病院の研修医教育を通じて」
誘われて安曇総合病院から初期研修医2名とともに参加してきた。



佐藤泰吾先生は、信州大学卒業後、舞鶴市民病院で初期と内科の研修を受けた。さらに診療所で1年働いた。
舞鶴市民病院は中規模の一般病院でありながら欧米から大リーガー医を招聘し「できるだけ間口を狭めず、かといって深み・緻密さ・微妙さを極力失うことのない一般内科と地域医療の展開」を目指した伝説的な病院である。
その舞鶴市民病院も行政が大学医局からの医師派遣を優先したために、若い医師が集め育てる雰囲気はなくなり、結果として内科医がいなくなり地域の医療も職員の生活も守れなくなり医療崩壊のさきがけとなってしまった。

“大リーガー医”に学ぶ―地域病院における一般内科研修の試み
松村 理司
医学書院


佐藤先生は卒後6年目で信州にもどってきたが、地方中規模病院で内科勤務医であればどこの病院でもよかったともいう。
縁があって諏訪中央病院に来たが、研修医をとりはじめたばかりで院内にはつまらなそうに歩いている初期研修医が3人いたという。
今にも潰れそうな危うさもあったが、地域医療の歴史のある病院で雰囲気のいい病院だったという印象をもった。

そこで「八ヶ岳の裾野のように幅広い臨床能力をもつ医師を育てる」というコンセプトで研修医を育てていった。
毎日、昼に初期、後期研修医とスタッフが集まって新患のカンファレンスを行うなど教育の場をつくっていた。
院内では多職種での研修会を開催し、振り返りなどもおこなった。
また医学教育や家庭医療のプロにアドバイザーとして来てもらいポートフォリオの作成やプログラムを整備していった。
徐々に人も集まり初期研修医、後期研修医、上級医、指導医と屋根瓦ができ増えていった。
八ヶ岳のように専門医がそれぞれの高みをまもった上で、大勢の幅広い裾野をもった若手が支えあい地域の医療を支えられるようになった。

閉鎖的な環境は職人が育つには大切ではあるが、日々やっていることが本当にそれでいいのかを外部の目にさらすことも必要だと考えた。
ただ高名な先生を招くだけならば簡単にできるが、人を招く以上、最大限活かすべきであるとさまざまな仕掛けを考えた。
海外の大リーガー医ではないが、国内の各分野で有名どころの院外講師を招聘し、数日間滞在してもらいレクチャーをしてもらうだけではなく、カンファレンス教育回診などもお願いして日常の臨床や教育を外部の目にさらしている。これは結構厳しいことだという。
佐久総合病院など他の病院と交流したり、後期研修医が1年間かけて感染症について初期研修医に教える一環として外部講師を招くなどもした。
後期研修医では3ヶ月外部研修にいく権利が保証されており、研修先で知り合った専門医との関係がつづいたりしているという。
この規模の病院で日進月歩の医療の全ての分野の専門家をかかえる事は到底できない。
しかし地域のニーズはある。

従来の発想では専門医を招くのは外来の1枠をお願いして患者さんをみてもらうということになっただろう。
しかし諏訪中央病院では定期的に来てもらったスペシャリストに症例検討会などに加わってもらったりして現場の若手を支え、育ててもらい、また普段もメールやスカイプで相談にのってもらっているという。

大学医局に守られていない病院だからこそ必要なことであり、また出来ることだろう。

諏訪中央病院では幅広い臨床能力をもった若手の医師が増え、後期研修医クラスが中心となって病院祭を開いたり、他の医師不足の病院の内科病棟管理を2ヶ月ごとで交代で行って支援をしたり、東日本大震災では継続的に支援に行ったり、人が多いからこそ自主的にさまざまな活動が広がってきている。
地域の人も安心であろう。

最後に人が育つ条件というのを示していた。

1.未熟なものが
2.社会の辺縁に
3.文化の壁を超えて
4.適切な規模の集団を形成し(7人程度が最適という説もある。)
5.一定期間、隔絶されながら
6.自由な議論で切磋琢磨する


(長崎医学伝習所や適塾を例にあげていたが、私はトキワ荘を思いうかべる。
また今の安曇総合病院では精神科や整形外科がこのような条件をある程度満たしており人が集まっているのだと思う。)

ディスカッションでは、安曇総合病院の研修医が「後期研修先を探している。育てるてくれる体制があるところじゃないと人は行かないし集まらない。」というような質問をしていた。

もっともな問いであるが、プログラムやシステムが整えば人が育つかというえばそうではないという。
良いシステムに乗るトコロテン方式よりは、現場でニーズをつかみそれを解決しようともがいているほうが育つ場合もあるだろう。
現に諏訪中央病院でも一番伸びたのは、システムがなかったときからいて当初つまらなそうにしていた研修医だったという。
そしてシステムができてしまいつつあることこそが諏訪中央病院の不安材料であり、いつまでも安泰ではないだろうともいう。
しかしそれでもいいという。

ある病院がずっと栄えているということはなく、そこで育った人が次の場所で芽を出し花開かせてまた種を飛ばし・・・と繰り返せばいいのだといもいう。

自分が医者をできるのは自分の努力のおかげではない。
先人の知識や医師としての役割をあたえられ育てられたからであり、引き継いだバトンは次に渡すことも大切だという。
そして、その場その場でそれぞれの時期における役割を果たすことが重要なのだ。



大町総合病院の外科の高木先生からは「自分たちの頃は医局に入って、勤務先を選ぶなんてことはできず、クジのようなもので派遣先の病院がきまって、症例や医者が多いところや少ないところもあったが、どこにいたとしてもそれなりに得るものはあった。」という意見がでた。
さらに、「本音を言えば医局の制度が整っていて医師を派遣してくれていた以前の方が良かったと思う。大町病院は医師を引き上げられてしまい内科医師がいないから手術をするには自ら内視鏡もして患者もみつけなければいけないし、総合診療もやっている。」と窮状を訴えた。

地域の中規模病院では専門医だからといって自分で決めた専門分野に逃げこむことはできない。(そういう人もいるが・・)
ニーズがあって他にやれる人がいなければ自分の守備範囲を広げても何とかやるしかない。
「何ができて、何がやりたいか」、だけではなく、「何が必要とされていて、誰が困っているのか。」ということを考えなくてはいけない。

地域や患者のニーズが見え逃げ場のない第一線の現場に未熟な若い医師をプールし、指導医とともに地域ベースの大学医局だけではなく、個人のネットワークとインターネット(メールやスカイプなど)を活用して全国から専門家のちからを借りて幅広い臨床力のある後期研修医を育てる。
こういった環境で育てば、その先にジェネラリストになるにしろスペシャリストになるにしろ地域の医療に貢献できる医師となれるだろう。

同規模の舞鶴市民病院や諏訪中央病院でやってきたことである。
市立大町総合病院や安曇総合病院でもこのような場を作ることは決して不可能ではないだろう。
これまでも安曇総合病院では研修医を細々と育ててきており、現在も信大とのたすきがけを含め現在4人の研修医がいる。
研修医がつまらなそうな顔をしないように救急外来のカンファレンスなどを細々とおこなっているが、なんとかいい流れが出来ればと思う。



カモシカ学習会@大町病院

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