リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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シンポジウム・震災時の支援と厚生連の役割を考える

2012年01月15日 | Weblog
後半のシンポジウムでは各事業所から行った支援について、医師、薬剤師、看護師、介護職、事務調整員(ロジスティクス)など10分ごとでの発表後ディスカッションでした。
DMATやJMAT、事務支援、介護支援、こころのケアなど様々立場からの支援の発表がありました。
災害支援は質量ともにやはり佐久総合病院が圧倒的でしたが、他の事業所も支援部隊の派遣、被災者の受け入れや募金なども含め、独自にできることをやっていることがわかりました。
被災地の現場を見ることで災害拠点病院としての役割の確認でき、職員の一体感の醸成、研修医のモチベーション向上が良かったこととしてあげられていましたが、厚生連全体としてみれば、今回は長野県として協定を結んでいた宮城県(特に石巻市)への支援はできましたが厚生連としての支援活動というのが出来なかったのは課題が残ります。

フロアからは「災害直後のDMATのような活動が必要な時期からから生活再建やこころのケアが重要な復興期にいたるまでどの職種でも支援できることはあるはず。農村医療をやってきた厚生連ならではのチームというのもあり得るのではないか。」という意見もでました。




自分の発表原稿を紹介しておきます。(時間がなくて緊張して本番では多少端折りました)

安曇病院からは3月23日の福島県いわき市の病院への精神科薬剤師の派遣を皮切りに、福島県、宮城県などに多くの職種の職員を派遣してきました。中川真一院長も大槌町にJMATチームとして医療支援に出動しています。
精神科関係のチームが多いのが特徴的と言えると思います。


当院の近隣の病院からは災害拠点病院の市立大町総合病院からは震災当日にDMATのチームが、救急部ができた安曇野日赤からも栄村や宮城県に震災直後から支援チームを派遣していますが、残念ながら当院からは直ちに医療支援チームを派遣するという動きは取れませんでした。
それでも原発事故、津波被害のあった福島県の沿岸部からの被災者が避難していた三春町から厚生連を通じて精神科救急チームの依頼があり、病院全体のバックアップもあり、わずか3日で準備をして3月24日には福島県に村田副院長をはじめとした多職種からなるチームが避難所に入りました。
その後もJMATや長野県のこころのケアチームに職員を派遣し、また看護師や薬剤師、臨床心理士など被災地支援の希望のある個人に対しては周りもサポートし病院としても出張扱いにするなどしてきました。
緊急時に支援に行くためには日常の診療の腕に磨きをかけておくこと、日常業務をおこなう人数に余裕をもたせておくことと、普段から災害発生時どのような支援ができるか想定・準備・訓練をし棚卸をして必要があると感じました。
また病院ごとで普段より交流をもっておくことも大事で、一昨年よりはじまった精神科病棟をもつ厚生連病院の会なども意義のあることだと思いました。


救急医療等については他院からの発表もあると思いますので、ここでは精神科からの支援についてまとめてみます。
まず精神科医療とは「支援を受けること」それ自体に支援が必要な人を対象としてます。
普段から精神疾患をかかえて生活している対人関係に器用でない方はもちろんですが、誰もが経験したことのない災害時にはなれない避難所生活のストレスもあいまって、パニックとなったり、抑うつ的となったり、困窮していることを伝えられなかったりという人も増えニーズが増えます。
マニュアルやメーリングリストでは「破壊された既存の精神医療システムの機能の補完すること。震災のストレスによって新たに生じた精神的問題を抱える一般住民について対応すること。そして 地域の医療従事者、被災者のケアを行っている職員( 救急隊員 、行政職 、 保健職等 )の精神的ケアを行うこと。」などが役割であると言われていました。

ところで精神科医療では本人に関わるだけではなく、本人と本人を取り巻く環境、つまり家族や地域社会なども含めてをシステムとしてとらえ介入することも特徴であり、医療、行政、司法、教育関係者など社会の種々の職業、立場の人との連携、協業をおこないます。
そして患者の「人生」を対象とし、時に長い関わりを要し、障がい者支援を通じて地域づくり、社会づくりに関わることの多い分野でもあります。
しかし被災地の支援では活用できるリソースが少ないワンポイントの支援で何が出来るのだろうという疑問をもったままの被災地に赴きました。

結局、できたことは被災者の声を聴くこと、ともに居ること、しっかり被災地をみておくことだけでした。
その中で、弱者の通訳として気づかず型、がまん型の潜在的なニーズの掘り起こし、その場でできることはやり、完結できないことは現場の保健師などのコーディネーターに返し継続的な支援につなげました。



それでは災害後の支援で特有なものはあるのででしょうか?
災害後、家族や家や仕事など様々なものを一瞬で失い人生の流れを断ち切られ呆然自失となります。
しかし多くの人が同様の経験をしみんなで助けあおうという機運が生まれます。
しかし死者の法要が営まれる四十九日ごろ、あるいは新聞の一面に乗らなくなった頃と言いますが幻滅期に入ります。
私が被災地に行ったのはちょうど四十九日ごろで、瓦礫の中で警察や自衛隊が遺体の捜索をおこなっているそばで喪服の人が法要をおこなっていました。
このころから混乱が一段落し、同じ被災者でも失ったもの、持っているものはそれぞれ様々で、持てるものからその状況から脱していき徐々に格差が広がっていきます。
そしてとりのこされるのは障害者や高齢医者、お金のない人、頼れる人のいない人などの弱者です。
当院からのサポートはこの時期くらいまでであり、本当はこの時期から生活再建が本格化し、継続的な支援も必要となるのですが残念ながら継続的な支援はできませんでした。
今なお残るの課題として、まず生活再建を果たし、その上で被災という出来事を自分の物語の中に位置づけることが出来るかがリカバリーの鍵となります。
そのためには継続的な支援と節目節目できっちりと「喪の作業」をしていくことが必要です。




実際の活動の様子です。
普段一緒に活動している多職種からなるチームで動けたのが心強かったですが、やはり現地の保健師などとの連携がいちばん重要でした。
災害発生当初は保健師が把握してピックアップした精神疾患を持ちつつ生活されていた方、避難所で気になる方を中心に、不眠、風邪症状、便秘、認知症などの相談にも乗りながらお話を伺って行きました。
発達障害などをかかえ避難所で共同生活をおくれずパニックになっている子どもなどの相談をうけました。


避難所ごとで様子もずいぶん違いました。
公民館や福祉施設などを利用した沿岸部の高台に点在していた小規模な避難所ではもともとのコミュニティでのご近所の関係がそのまま維持され、原則自治運営されており、ボランティアの入り込みや物資も比較的乏しい状態でした。
一方で内陸部の学校の体育館などを利用した大規模な避難所は沿岸部の被災地各地からあつまった見知らぬ者どうしの被災者があつまり、行政職員が管理していました。
詰所や医務室などが作られ、全国からボランティアや物資が集まり、介護職のボランティアなど先導して高齢者をあつめて体操やレクリエーションなどのイベントがあり、被災者の交流がうまれ自助グループ的な雰囲気がありました。
平常時の病院や福祉施設にも似た雰囲気があり、病院や施設は一種の避難所なのかもしれないと思いました。

「カウンセリングお断り」という貼り紙が避難所の入り口に貼られていたという噂もあり、心配しながらの避難所をまわりましたが 実際行ってみると様々な訴えがきかれました。いろんな支援者が出入りしているので支援にも慣れ、眼科はないの?というようなニーズ、心労で吐血された方、地域の人をおいて息子のところに離れていいものかという悩み、障害を持つ家族がルールを守れないという悩み。子どもや認知症の親がいて病院にいけない。などの声がありました。


被災地の避難所で苦労していたのはなんといっても高齢者や障害者などの弱者でした。
元気で、お金があり、頼れる人がいる人、運がいい人など動ける人から避難所から次の場所に脱出していっていました。

それから混乱する現場で自分の責任で気づいたことは指示を待つことなく何でもやることが必要で、普段から病院の理念や我々がやる医療の目的をしっかり共有した上で、自律的に動ける職員を育てていくことが大切だとおもいました。

問題となっていたのは普段の内服薬や医療や福祉の情報がないことでした。
被災してはじめて慌てないように住民も自分の健康情報は日常的にある程度理解、管理しておくなど「自分の健康は自分でまもる」心がけをもつことが大切だと思いました。
仕組みとしてパーソナルヘルスレコードとしての健康手帳、お薬手帳の推進、それからクラウド電子カルテなどでしょうか。


私は短期でしたが被災地に行かせていただき、様々なことを学ばせて頂きました。
被災地支援を通じて考えた厚生連としての役割について述べさせて頂きます。
普段から弱者は阻害され取り残されていますが、それは潜在化しています。
それが災害時の極限の状態で顕在化していました。

医療とは専門職と被援助者との共同作業ですが、被災地ではあらゆるリソースが普段以上に制限されます。
その限られたリソースをどう分配するのか優先順位をつけるトリアージを悩みながら行っています。
しかし、これは被災時に限らず、普段から、また再構築でも気を付けてかからなければいけないことであると思います。

第一線の現場の声や実情を無視したピントのずれた支援や計画の押し付けるようなことがあっては、ただでさえ忙しい現場のモチベーションを下げ、場合によっては地域社会や医療福祉を破壊しかねません。

お金さえをかければハードとしてのハコは作れますし、設備も買うことはできるでしょう。偉い先生も呼んでくることもできるかもしれません。
優先順位を考えるならば、まず耐震基準を満たさない古い建物の建て替えが何より急がれます。
もっとも、それだけでは医療はできませんし災害に強い地域は作れません。
災害時には、だれもが突然弱者になりえます。
減災で最も重要なのはソフト対策であり社会的脆弱性の克服であり、普段から弱者を取り込むことの出来る「品格」のあるコミュニティーを築くことです。
多くの職員が「専門性をもちながら地域に出る」ことでミクロとマクロの両方の視点をもちつつ、地に足をつけた生活を支える医療・福祉の実践し、「地域住民とともに」他の地域にも誇れる医療文化を作っていくことが厚生連病院に求められている役割だと思います。


中小二番手病院の悲哀と活路

2012年01月15日 | Weblog

「第28回(長野県)厚生連医療を考えるシンポジウム」が長野市のJA長野県ビル、アクティホールであったので行ってきました。

長野県内の11の事業所(病院)からは病院規模ごとの参加者の割り当てがあり、主に役職の付く人を中心に動員がかかっています。忙しい、若手のソルジャーはとても来られないし、来たくもないだろうけどね・・・。
年始に気勢を上げ厚生連組織全体としての一体感をもとうということで毎年企画されているイベントのようですが、例のごとく休日をつぶしてのサービス出勤強要でモチベーションが上がるんだか、下がるんだか。
厚生連には伝統的にこういうイベントが異様に多い気がします。

安曇総合病院からは30人くらい参加しバス1台を仕立てて長野に入りましたが、古巣の大御所、佐久総合病院などは100人くらいは参加しているようでバス2台で参加していました。


(JA長野県ビル、噂に聞く本所(ほんじょ:JA長野厚生連全体を取り仕切る謎の本部組織)ってのはここの10階。)

午前は例年、院長が持ち回りで話しているらしく今回は小諸厚生病院の小泉先生とと篠ノ井厚生病院の院長の話でした。
そして午後は外部講師を呼んでの講演やシンポジウムが多いようですが、今年は災害支援をテーマとしたシンポジウムでした。
私は安曇総合病院を代表してシンポジストとして登壇させていただきました。

他の病院の院長の話なんて聞いてもつまんないかな~と思っていましたが結構面白かったです。
再構築を控えるマグネットホスピタルである佐久総合病院の高度医療センターが近くに移ってきて二番手病院としての立場に甘んじなくてはならない小諸厚生病院と、人口も比較的多い長野市南部の中核医療を担う急性期病院の篠ノ井病院との立場が対照的でした。

小諸厚生病院の小泉陽一院長の話は、2番手病院に甘んじざるを得ない赤字、中小病院の悲哀の話でした。

県や国、患者も大病院に力をそそぎますし、医師も患者も大病院志向、あるいは開業志向です。
大学からの派遣も後回しで二番手病院は黙っていても人が集まる病院ではありません。
都市部のようにスペシャリティをもった病院として選択と集中して機能分化するにはそもそも過疎地は不利だし、高度なことをやるには人材、特に医師に依存します。
結局、変わり者、疲れ果てた医療者が中小病院志向だそうです。
(たしかにその通りです(^_^;) うちもそうです。)

しかし高齢者の増加、地域社会が崩壊していくなか、大病院への集約と在宅医療の狭間はどううめるのか?

高齢者、弱者は大病院にはかかりにくい、そこに活路を見い出すということのようです。

人や金が集まらなければ中小病院は落ち穂拾いのような仕事ばかりになってしまうといいます。
(私は落穂ひろい大いに結構と思いますが・・)

しかし実際、高齢社会の医療はそう簡単ではありません。
高齢者は複数の疾患をかかえ診断は難しい、しかし検査は希望しない。
しかし覚悟ができているわけではない。
救急車で運ばれれば特に家族はやれることは何でもやってくれと言います。
状況が悪化することも多く緊急対応が求められ、手がかかる割には収入には結びつけにくい。
今後も医療費削減の圧力は強まる一方です。
しかし介護の関係から遠方の病院や施設というわけにもいかず地元志向が強い。

結果、中小病院にも腕のいい医療者は必要なのです。

病院に見切りをつけて中堅どころの医師が多く開業したそうですが、在宅医療志向の開業医を主体にしてオープンベッドで上手くまわしていくということはできないんでしょうかね。
実力があり、覚悟もあって、コミュニケーションがとれる開業医が少ないんでしょうかね。


では、どのように腕のいい医者や専門職を集め育てるのか。
医局制度が崩壊した今、地域の中で連携を強化し、マグネットホスピタル構想は縦の関係ではなく横の関係で構築してほしい。地域の中で人材育成しライフサイクルにあった人材移動の仕組みをというのが主張でした。



そういうことであれば、経営統合しふたたび小諸分院にしたほうが人材の移動もやりやすいと思うのですが・・。
小海赤十字病院が佐久総合病院小海分院に移管されましたが、同じ厚生連だから日赤病院などよりもはるかにやりやすそうな気もします。そもそも小諸厚生病院はかつて佐久病院の小諸分院だったのですから。
(サンヨーとパナソニックみたいなものですね。)

しかしプライドもあるのか感情的には難しそうです。



小諸厚生病院は紆余曲折の末、市役所と併設して再建する計画だそうです。
市立の病院でもないのに、そういう形がとれるというのは新たな展開も可能かとも思います。
楽しみですね。

続いて篠ノ井厚生病院院長の木村薫先生の話。
こちらは比較的人口の多い地域ではあるが病院は少なめであり救急医療や急性期医療にも積極的で患者も増えており、、医師などの招聘では苦労してないとのことでした。
小諸厚生病院とくらべても余裕のある感じでした
100億かけて増改築を行うそうですが、建て増しを続けた病棟をどう建て替えるか、送電線との関係や道路をまたぐ渡り廊下の許認可、県や市との折衝などパズルみたいな大変な作業だと思いました。
放射線治療はニーズもあり計画もあるのですが、治療医のめどが立たず立てられる準備だけはしているような段階だそうです。


内科や外科がしっかりしていて背景人口も多い篠ノ井厚生病院ですら、放射線治療機器を入れることを計画していないのに、ニーズもあやしい安曇総合病院が放射線治療機器を入れたところで使いこなせるとはとても思えません。
うち(安曇総合病院)が今から中核病院を目指すのは非現実的(院長は諦めていないようですが)であり、スペシャリティをもった2番手病院としての中小病院としての道を目指さすのが適当でしょう。
うちも松本の相澤病院の安曇分院でもいいくらいです。いや、むしろ厚生連が相澤病院を買い取って松本厚生病院にして安曇分院にすれば全て解決?(^^ゞ。無理か。