母の実家の祖母が昔、気心の知れた山形の東根で田んぼを営む農家を紹介してくれ、夏休みの期間、子供たちにご飯を腹いっぱい食べさせなさいと連絡してきてくれた。
仙台から仙山線で向かう途中の乗り替え駅で人に「美味しいよ」と教わり、線路脇の木々に熟した紫色の実を口いっぱいに頬張り紫色に染めながら、これが「桑の実」だと知った。 ここで面白い「知恵の輪」みたいな物を見た。
それは、ここで初めて知った列車の運行規則であった。 単線の駅では、通貨車両の通行票を列車の後尾で車掌が駅のホームの端れにある渦巻の形をした「通票受器」と言う装置に投げ込む「通行票のタブレット閉塞式」だった。 「知恵の輪」は見事に入った。 上り線と下り線の列車が交互に使い正面衝突を避けるものだと知る。
駅から暑い日差しを受けながら田舎道を歩いた。 初めてのせいか道程は遠く感じた。 遠くから見えていた田圃の中のに辿り着くと、迎えて呉れたのは同じ年頃の娘を持つ家族だった。 小母さんが「ばあちゃんには大変に世話になったべし」と言い、狭いひと間に間借りさせて呉れた。
生まれて初めて山形の東根で田舎生活を始めた。
田圃の脇に清水が流れ、手を差し入れると、「ひやっ」とした冷たさが、とても新鮮に感じた。 夕食には湯気の立つ何も入っていない白米を久しぶりに口にした。 取り立ての野菜は田圃の脇に流れる水で洗い初めての経験を味わった。
田舎の盆踊りの祭りを迎える頃に温泉旅館で部屋を貸して呉れる話があり、急に引っ越す亊になった。 荷物をリヤカーで運ぶことになり、小さい弟妹も載せて凸凹している農道を調子ついて弟が押し私が引っ張り役で走った。 車止めの棒が真ん中にあり突如地面に引っかけた。 急にストッパが掛かり、リヤカーの後部が持ち上がり妹は外に放り投げだされてしまった。 妹は怒るし、母には叱られ静かに歩く亊にした。
部屋は客間で旅行者になった気分になった。 その夜、旅館の近くで盆踊りがあり兄弟四人で観にいった。 人出で子供の背の高さでは踊る人の輪が見られず、弟妹らを交互に肩車をして、遅くまで踊りの輪に入ることなく田舎の夏の踊りを観て堪能した。 この田舎で見るもの全てが初めてで、新鮮な経験をした。
夏も終わる頃、帰って来た父に連れられて隣街の山形市に行くことになった。 小母さんが田舎仕立ての味噌で包んだ大きな焼きおにぎりを作って持たせてくれた。 これも初めて味わった味で旨かった。 昼時になり、食事をしようと食堂を探すがなかなかない。 やっと見つけて入ってみると、衣に包まれたトンカツは鯨肉を揚げており、当時の食堂はおかずだけしか出せない決まりだとは知らなかった。 米は統制品の為、自前持ち込みのようだった。
こうして夏も終わり仙台に戻った。
安住の地を求めて流浪の民のようだと、子供ながら寂しさを感じた。
巷には「リンゴの唄」が流れていた。
初秋を肌に感じる頃、広瀬川の河原には黄色い月見草が咲き誇り、情緒ある日本に子供ながら美しいと思った。
久し振りに帰宅した父から東京に転居する話が持ち上がり、祖父が危篤に近い病状なので養生している叔父の家に行くことに急遽決まった。
戦禍に見舞われた祖国で安住の地を求めるのは多難な亊だ。
帰国して五か月の間にこれで、平塚の伯母の家を皮切りに六軒もだ。 叔父の家に着くと祖父は、八畳間の隅に床に伏せ北京から無事に帰国してきた孫の顔を見て嬉しそうだった。
雨露を凌ぐ小さな住む家すら探すのに儘ならない時代とは言え、またもや転がり込んだ七人家族である。 こんなに住まいを動かせたのは、狭いひと間でも生活が出来る身軽なリック一個の引き揚げ家族だからであったと思う。
編入した学校での学年は、私が六年生に、そして弟が五年生に復活する亊になった。
この数か月間は兄弟でひとつ下の学年に、こうして学年を行き来した奇妙な小学校生活も更に転居も重なり一年近くも、まともに学校にも通えない異常な経験をしたものだった。
家の前の路地ではバケツに布を張り金属で出来た小さなベーコマを紐で廻しコマ同士をぶつけ合って弾じき飛ばしたり、メンコを取り合う子供たちの真剣な声と興奮して息切れる息遣いが聞こえていた。
私はどう言う訳か勝負事の北京でのビー玉も下手で、弟は反対に勝負強かった。
(つづきは、明日の3/9月曜日)