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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

開明学校・宇和米博物館 in 愛媛県西予市・卯之町

2020年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

卯之町で一番に見たいものと言えば、やはりこの「開明学校」。明治15年(1882)、町民の寄付により、地元の大工によって建築された擬洋風建築で、四国最古の小学校。

維新を経て迎えた明治と言う時代、人々が子弟に託した教育への思いは切ないほどに真摯なものでした。日本と言う国を背負って立つ為に・・・・大国の干渉の中、当時のアジア諸国のようなみじめな植民地にならない為に・・・何よりも人々が諸外国を相手に対等に渡り合える為に、学問を身につけることは必須だったのです。

各地を旅し、当時の姿のままに残された・・言葉は悪いですが身不相応とも思える旧学校校舎を見るたびに、胸が熱くなります。それは、校舎の建築に関わる人々の想いが、心に真っ直ぐに響いてくるからなのです。

白壁やアーチ型の窓も当時のままに現存し、長野県の「旧開智学校」とは姉妹校関係にある「旧開明学校」。建築史上、また教育史上においても非常に価値が高いものとして、1997年5月に国の重要文化財に指定されました。

黎明期の日本人が何よりも大切にしたのは、個々の権利ではなく「日本人」としての誇りでした。今、自国を愛する事を、まるで悪い事のように教え込む、負の勢力の存在を見聞きするたびに、先人への申し訳なさに歯噛みし、反日を是とする愚か者たちに対し、憎しみにも似た思いを感じずにはいられません。

ジジババ世代になると、最近とみに愚痴が混ざって涙もろくなっていけません😅。校舎の横にある「申義堂」は、明治2年(1869)に建てられた、開明学校の前身。『左氏珠山』の門下生や、町民の有志により建てられた私塾で、これを見ても卯之町の人々が、いかに教育を重んじたか、窺い知る事が出来ます。

卯之町のもう一つの学校関連の建物は、重伝建の町並みから車で10分ほど走った所。「米どころ・宇和」を伝える「宇和米博物館」として一般に公開されています。

元々は宇和町小学校の旧校舎だったものですが、遠目で見てもわかるように、相当に長いです。 どれぐらい長いかと言うと・・・何と廊下が109メートル!・・・・と言うことで、この長さを生かした雑巾がけレース「Z-1グランプリ」が毎年行われているそうです😄

雑巾がけ・・・なんとも懐かしい響き😄 板目に沿って真っ直ぐに走るのですが、男子たちにとっては遊びの延長だったようで、たまに先生に見つかってお小言を貰っていました😊

訪問日:2011年6月14日


ふらり~卯之の町歩き in 愛媛県西予市

2020年12月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

宇和地区の中心地にあり、松葉城の城下町として栄えた卯之町。町内には江戸中期から昭和初期までに建てられた商家が並び、2009年に、全国で86番目の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
町並みに入って最初に目にしたレンガ塀のお宅、内子とはまた違った趣に期待が膨らみます。

卯之町観光無料駐車場に車を入れたら、今日のメインは「卯之町・町歩き」。スタートは「松屋旅館」。江戸中期創業の老舗旅館で、『前島密』や『新渡戸稲造』など、多くの文人・政治家等が宿泊したそうで、入り口にはそうそうたる名前が並んでいます。

【この宿の 庭木の茂り なつかしき】 高野素十

長い歴史のある町並では飾瓦も忘れてはいけません!。細かい細工が施された「大根(丁子紋)」も、荒波の中を泳ぐ「鯛の上に立つ大黒様」も、本当に楽しい出来栄えです。

・・・ん??鯛なのに大黒様?、恵比須様じゃなくて??

玄関の上を飾る彫刻額。多分どこかの部屋の欄間だったものではないかしら? こんな使いかたって、すごくおしゃれ😄

間口の広い建物は、明和7年(1770)に建てられた造り酒屋「末光家住宅」。明治28年(1895)に改築されましたが、大半は建築時の姿を残しているそうです。 時間が早かったため内部の見学は出来ませんでしたが、この外観だけでも充分に満足。

一歩路地を入ると「宇和ヤマミ醤油」の建物。かすかですが何とも懐かしい香りが鼻腔をくすぐります。

建物は店舗と製造所を兼ねているとの事で香りにつられて建物内に入ると、醤油の香りは一段と高くなり、無性に白いご飯が恋しくなりました😄

ケヤキ材をふんだんに使い、門扉には鉄鋲。そりのある屋根には大きな鬼瓦を据えた大層な門は、卯之町の庄屋「鳥居半兵衛」が天保5年(1834)に建てたもの。

ところがこれが立派すぎて、「庄屋には身分不相応なり」と宇和島藩からお咎めがあったとか。何でもやり過ぎてはいけないというか、分相応にという事でしょうね。

日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる『楠本イネ』。父シーボルトの国外追放後、天保11年(1840)に宇和島藩の外科医であった卯之町の『二宮敬作』に預けられ、14才からの5年間に蘭方医学を学びます。『オランダおいね』の異名で呼ばれた彼女の人生は、ここでは語り尽くせません。

ここは『二宮敬作』の住居があった跡で、したがって「女医・イネ発祥の地」となるのですが、こういうものまで「発祥」と呼ぶとは、ちょっと????の二人でした😅

情緒ある路地の坂道を上がった先に、卯之町のシンボルとも言われる「旧開明学校校舎」がありますが、それはまた明日に。

でも何かがある特別な場所でなくても、この町並みは美しく、私たちの足を止めさせます。 江戸時代後期の蘭学者であった『高野長英』が一時隠れ住んだと言われる卯之町。 身を潜めて息を殺しながら・・でももしかしたら、この佇まいの中を歩いたかもしれません。

「宇和先哲記念館」では、『楠本イネ』や、『二宮敬作』など、多くの偉業を残した先哲を偲び、その人間像や業績を知る数々の資料が展示されています。心は惹かれますが、町歩きの魅力には勝てません。

訪問日:2011年6月14日


ご当地マンホールとマンホールカード第16弾 in 愛媛県西予市&旧宇和町

2020年12月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

西予市(せいよし)は愛媛県の南西部に位置する市です。2004年4月1日 、東宇和郡宇和町・野村町・城川町・明浜町、西宇和郡三瓶町が合併して発足しました。西宇和郡伊方町、八幡浜市、大洲市、宇和島市、喜多郡内子町、上浮穴郡久万高原町、北宇和郡鬼北町に。また県を跨いで高知県高岡郡檮原町に隣接。東は高知県境の山々と接し、西は宇和海に面し、その標高差は1,403m。その間に宇和盆地があり総面積の 75パーセントを山林が占めています。「市の木:ブナ」「市の花:レンゲ草」「市の鳥:ウグイス」「市の魚:アジ」「市の昆虫:ホタル」を制定。

キャッチフレーズは「未来へ輝く ゆめ・ひと・ふれあい西予」

2004年11月28日制定の市章は「西予(ヨ)の文字を図案化したもので、青を基調に清らかな川の流れと青い空、青い宇和海を表し、円で市民の和と交流の輪を表現しています。」公式HPより

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旧東宇和郡宇和町(うわちょう)は肱川上流部の宇和盆地に位置した町です。大洲市、八幡浜市、西宇和郡三瓶町、東宇和郡野村町・明浜町、北宇和郡吉田町・三間町に隣接。藩政期には宇和島藩の領地であり、純農村地帯として藩の米蔵の役目を果たし、また街道ぞいの宿場町として発展してきました。周囲を400~800mの連山山脈に囲まれた山間盆地のため、冬の寒気はきびしく夏は冷涼で伊予の軽井沢と呼ばれています。県下有数の穀倉地帯として知られる宇和では、広い水田を生かした米づくりと施設園芸(イチゴ・ブドウ・花き等)が展開されています。「うわ」の地名は、律令時代からの伊予国宇和郡の呼称と言われていますが、由来は定かではありません。「町の木:檜」「町の花:レンゲ」を制定。

 明治22年(1889)、町村制の施行により、東宇和郡宇和町・上宇和村が発足。

1922年、宇和町、上宇和村が合併、東宇和郡宇和町が発足。

1954年、宇和町、多田村、中川村、石城村、下宇和村、田之筋村が合併、第二次東宇和郡宇和町発足。

1958年、大洲市鳥坂・正信地区を編入

2004年、東宇和郡明浜町・野村町・城川町、西宇和郡三瓶町と合併、西予市宇和町となりました。

マンホールには、四国最古の小学校「開明学校」と、「町の花:レンゲ」がデザインされています。

「開明学校」と「町の花:レンゲ」をデザインした路上タイル、惜しいことに右端が欠けています。

昭和29年3月31日制定の町章は「 町章中央の円は和に通じ町の中心機関の表現で、六つの弁は宇和のウの字をかたどり6か町村が合併した和合の町を意味している。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月14日

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マンホールカード、頂きました。

2022年1月15日、第16弾として全国41自治体で42種類(累計621自治体822種類 )のマンホールカードの配布が 開始されました。「西予市」のマンホールカードは、「宇和文化の里休憩所」でいただけます。

2004年に設置開始されたマンホールには「開明学校」と「レンゲ」がデザインされています。

「西予市として合併する前の旧宇和町のマンホール蓋です。「開明学校」と、旧宇和町の町花である「レンゲ」がデザインされています。 開明学校は、明治15年に建築され、現在四国では最も古い小学校校舎です。 日本の伝統的木造建築の中に洋風のアーチ型の窓を取り入れたモダン建築となっており、平成9年には国の重要文化財に指定されました。 明治・大正時代の授業が体験できる「明治の授業体験」では、当時教科書として使用されていた掛図を使い楽しい授業が行われます。 また、レンゲの花は宇和盆地の田園地帯を彩り、毎年4月29日に開催される「れんげ祭り」は多くの人で賑わっています。」


伊方~あちこちウォッチ in 愛媛県伊方町

2020年12月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

マンホールを探しながら歩いていた折に見かけた沢山の石仏。もともとこんなにあったのか、道路の拡張などで集められたのか・・本当のところは分かりませんが、一箇所に寄り添い、静かに人々を見守っています。

川向こうの何方かのガレージに見つけた絵は、日本一長い半島の先端に建つ「佐田岬灯台の見える風景」。時間に余裕があれば是非とも訪ねてみたいスポットですが、多分無理だろうな~😓

伊方町九町に鎮座される「寄木神社」。御祭神は『大海津見神・市杵島姫神・端津姫命・田心姫命
「創建年代不詳。九町浜4地区の産土神社。明治初期まで池脇大明神或いは弁財天社と称され、その後寄木神社と改称。」愛媛県神社庁

鳥居の内より神域を守護されるのは、何とも不思議な質感の狛犬さん一対。阿吽共にお顔の部分がセメントか何かで修復されたかのような手触り。

鎮座地の側に広がる砂浜、お天気がよければもっと綺麗な景色が見えたのかもしれませんが、残念でした。ちなみにここまで来たのは伊方町の旧町章付きマンホール目当て・・だったのですが、目新しいものは無し!もう一度あの赤い道を、足と顔を引きつらせながら走って国道197号線に戻ります😭

お天気がよければもう少し楽しめたかもしれない「道の駅:瀬戸農業公園」。 あなたはもう風を感じましたか?~ ・・・感じすぎて風邪を引きそうです 😭

お天気がよければ(こればっかり)きっと宇和海か瀬戸内海が一望できるはずの展望台。この雨で、流石にそんな物好きは私たち二人だけ😅

代わりといっては何ですが、四国最西端に建つ「佐多岬灯台」・・・のポスターが貼ってあったので。

「ワ~~イ、国道九四フェリーだ~~~。四国最西端だ~~!!」

ワァ───ヽ(〃v〃)ノ───イ ワァ───ヽ(〃v〃)ノ───イ

訪問日:2011年6月14日&2015年2月26日


ご当地マンホール in 愛媛県伊方町・旧伊方町

2020年12月18日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

西宇和郡伊方町(いかたちょう)は愛媛県の南予地方、佐田岬半島に位置する町です。2005年4月1日 - 西宇和郡瀬戸町、三崎町と合併し、新たに伊方町となりました。八幡浜市に、また海を隔てて宇和島市、西予市。豊予海峡を挟んで、大分県大分市、国東市。瀬戸内海を挟んで山口県上関町に隣接。町内全体が佐多岬半島の基部から先端にかけての地域で、稜線が半島の背骨の如く延び、半島の両側に急速に海に落ち込む地形をしており、大規模な河川は無く、平地はわずかであるために穏やかな傾斜地に集落とミカンなどの耕作地が集中。四国電力伊方原子力発電所があり、一時は四国の電力消費量のおよそ4割を供給していましたが、全発電機が定期検査に入った2012年から送電を停止しています。「町の木:ウバメガシ」「町の花:ツワブキ」「町の魚:アジ」を制定。

キャッチフレーズは「よろこびの 風薫る町 伊方」

マンホールには町章を中心に「町の木:うばめがし」「町の花:つわぶき」町の魚:あじ」「町の特産品:ミカン」がデザインされています。
が・・滑り止め防止の加工が施されているので、遠目で見るとただの規格蓋に見えます。

2005年 11月7日に制定された三代目の町章は「美しい海に突き出した日本一細長い佐田岬半島を中心にデザインし、それを取り巻くように「i」の字をエネルギーと波にして躍動感と明るい未来への広がりを表しています。」HPより

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旧西宇和郡伊方町(いかたちょう)は、佐田岬半島のほぼ中央に位置した町です。八幡浜市、西宇和郡瀬戸町に隣接。北を伊予灘に、南を宇和海に面し、中央には南北に佐田岬半島を形成する山地が東西に横たわっています。伊予灘側はけわしい海岸が続き、宇和海側の入り江にいくつかの集落が点在する農・漁主体の町です。「町の木:黒松」「町の花:ツワブキ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡町見村・伊方村が発足。
1955年、伊方村と町見村が合併、町制を施行し西宇和郡伊方町が発足。

昭和40年(1965)3月31日制定の初代町章は「オレンジと緑で蜜柑の花を象徴し、「伊方」を円形に形どったもの」。この後「い」を青とオレンジで表した二代目町章が制定されますが、今回は敢えて初代の町章を紹介しました。

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旧西宇和郡瀬戸町(せとちょう)は愛媛県の南予地方、佐田岬の先端部近くに位置した町です。西宇和郡三崎町・伊方町に隣接。集落は瀬戸内海側と宇和海側に分かれており、町内の地域間の交通の確保が課題となっています。稜線では風況がよく、風力発電が行われ、風車が林立する姿は新しい景観を形成しています。高輝度青色発光ダイオードを発明・開発し、2014年にノーベル物理学賞を受賞した「中村修二氏」の出身地として知られています。「町の木:ウバメガシ」「町の花: ツワブキ、サザンカ、スミレ」「町の魚:アジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡三机村・四ツ浜村が発足。
1955年、三机村・四ツ浜村が合併、町制を施行し瀬戸町が発足。
2005年、西宇和郡伊方町・三崎町と合併し伊方町となりました。

昭和41年5月10日制定の町章は「頭文字の「セ」を鳩の形に表したものです。」

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旧西宇和郡三崎町(みさきちょう)は愛媛県の南予地方、佐田岬の突端に位置した町です。西宇和郡瀬戸町に、豊予海峡対岸で県を跨いで大分県大分市に隣接。半農半漁の町で傾斜地を活かしてかんきつ類の栽培が主体。また周辺は潮流渦巻く好漁場であり、一本釣りのアジ、サバのほか、イセエビ、アワビ、サザエ、ウニなどの高級食材の生産地としてしられ、岬近くに蓄養場も有しています。四国最西端の港湾「三崎港」には、九州:佐賀関港とを結ぶ国道九四フェリーが就航。フェリーの上から佐田岬半島の先端に建つ「佐田岬灯台」を見る事も出来ます。「町の木:ウバメガシ」「町の花:タチバナの花」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡三崎村、神松名村が発足。
1955年、西宇和郡三崎村・神松名村が合併、町制を施行し西宇和郡三崎町が発足。
2005年、西宇和郡伊方町・瀬戸町と合併、伊方町となりました。

昭和40年制定の町章は「「ミサキ」を意匠化し、三本の曲線を表したものです。」

(※)旧西宇和郡瀬戸町、三崎町では、ご当地マンホールは発見できませんでした。

撮影日:2011年6月14日&2015年2月26日

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2011年と2015年の車泊旅では「道の駅:伊方きらら館」にて車中泊をさせていただきました。瀬戸内海と宇和海を一望できる立地で、もの凄く期待していたのですが一度目は生い茂る木々に邪魔され、二度目は生憎の雨。でも特産品のミカンがビックリするようなお値段で販売されていて、車内での置き場に苦労するほど買いすぎてしまいました。

車で旅をする私たちにとって、こうした施設は本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その節は有難うございました🙏🙏


三島神社 in 愛媛県八幡浜市保内町

2020年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

八幡浜市保内町宮内に鎮座される「三島神社」。御祭神は『大山祇命』。

由緒「宝亀5年8月宇和郡司が、大山砥神杜の御分霊を勧請して創立した。 保内郷の総鎮守として崇敬篤く、応仁の頃には高森城主が特に尊崇して摂杜九杜、末杜七五杜を付属せしめ、神領を寄進して別当を置いた。 その後、藤堂、伊達等代々の領主の崇敬篤く、明治6年4月郷杜に、昭和8年県杜に列格した。」愛媛県神社庁

鳥居の内より神域を守護されるのは、最近の奉納と思われる狛犬さん一対。昨今巷に溢れる「模倣型」の狛犬でないのが何より😊 それにしても阿吽共に随分と怖い顔をしておいでですね。

手水舎の先、参道途中より神域を守護されるのは、文化九年(1804)建之の浪花狛犬さん。全体に大振りなタテガミと、葉団扇のような尾がとても特徴的な一対です。取り合えず・・・顔が怖いのですが😱

更に拝殿前から神域を守護されるのは、どちらかというと「可愛い」と言う表現がしっくりくる狛犬さん一対。

狛犬さんに長老とか若衆のタイプがあるとすれば、こちらはまだ年若い少年期でしょうか。 一生懸命に踏ん張っている足が、「頑張っている」感をかもし出しています😊

拝殿の屋根には三匹の獅子が透かし彫りの玉を取り合ってじゃれています。左の獅子は、透かし彫りの玉から延びる紐を加え、真ん中の獅子は玉は我が物だと主張。右の獅子は、未練たっぷりに獅子と玉とを見返って・・・何とも素晴らしい細工です!

「御船石と神龍池:宝亀五年 大三島からお船に乗って神様がこの地に着かれました。その神船が石と化して安産・故事に因んで御船石という。池は水枯れる事無く、早天に慈雨をもたらす雨乞いの神として親しまれた龍神社の龍神の気がみなぎり神龍池と呼ばれています。」

伊邪那岐命』をご祭神とする「境内摂社:宮中神社」。拝殿の壁に「天井画の由来」と書かれた案内があったので、拝見させていただきました。

「明治十二年卯第十月吉祥日、有志より奉納された忠義報恩の「忠臣蔵・赤穂義士」の絵は龍堂に飾られていた。当初四十七枚あった絵は三十五枚しか現存しないが、宮中神社再建に当たり天井画として蘇ることになった」旨が記されています。

最後にお気に入りの飾り瓦、何所の屋根にあったものかすっかり失念しているのですが「竹やぶから顔を覗かせる猛虎」

そしてもう一枚、留蓋瓦で寛いでいる・・・・兎?・・・鼻と口が兎に見えるのだけど・・やっぱり兎かな?😓

境内に建立されていた句碑【万○の 木の○ 畏し大御神】・・○部分が不明。

参拝日:2011年6月15日


ふらり~保内の町歩き其の二  in 愛媛県八幡浜市保内町

2020年12月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

川之石雨井、内之浦公会堂から少し距離を置いた場所に「菊池庸夫邸」「西のおやけ」と呼ばれる屋敷があります。

かつて、宇和島藩きっての海運の町であった雨井地区。天保年間の頃より海運業で栄え、「おやけ(菊池家)」等の大きな廻船問屋は、千石船を使って地域特産の木蝋や魚を運び、九州方面からの米・材木等を大阪方面に輸送して財を成してきました。

建物の随所に施された装飾などに当時の財力の凄さが現れており、それは建物の外観だけからでも十二分に伺い知ることが出来ます。細い路地には背伸びしても届かないフランス積み煉瓦塀。端には見事な卯建があげられています。

そこから見上げる屋敷のそこかしこに隙間見える建築装飾の数々。漆喰持ち送りの鏝絵は、趣向を変えた「波に千鳥」。

煉瓦塀に沿って更に奥に進めば、黒板塀と漆喰壁にしっかりと守られるように洋館風の建物があり、明治時代の物と言われる避雷針アースが目を引きます。

細い路地の奥で「すごいね~」と話し合う声もいつしか「ヒソヒソ・・」とささやき声😅 。なんでもないような場所に「!!」と驚く趣向の数々・・かってこの辺りがどれほど栄えてきたのか、想像力が掻き立てられる空間でした。

海沿いの道から再び市街地に向かい、次に訪ねたのは「旧・白石和太郎邸」。鉱山経営等で財をなした『白石和太郎』によって明治30年代に建てられた和洋折衷の擬洋館です。

玄関上部の小屋根には三角ぺディメント。一階の窓は半円アーチで、直線と曲線の組み合わせは視覚的にも面白く、そのいずれにも唐草模様の華やかなレリーフが施されています。

洋館と言うと「白」と言うイメージが先行しますが、黒漆喰の建物は変に悪目立ちする事無く、海辺の町にしっとりと溶け込み・・、それでいてハッと振り向かせる存在感を放っています。

旧・白石邸は、昭和25年(1950)から1989年まで「川之石ドレスメーカー女学院」として使用されており、今も玄関には「杉野学園・ドレスメーカー女学院認鐙校」の看板が掛けられています。

旧白石邸の隣、むくりと呼ばれる独特の曲線を描いた屋根のお宅は「旧宇都宮壮十郎邸」。他人様のお宅なので遠目からの画像。玄関入口にある持送りなどに細工を凝らした和洋折衷の建物だそうで、明治34年に完成したといわれています。

明治の時代に建てられたいわゆる擬洋風建築は、特に私の趣味にぴったりとあっており、これまでにも旅の行く先々で見学させていただきました。その度ごとに「日本の職人さんの発想力とか技術って、本当に凄いな」と、心のそこから感動させられます。

時刻は既に6時近く・・開館は4時までと言う事で、当然内部を見ることは出来ません。こんな場面に遭遇した時いつも思うのは、何故、時間に間に合うように周れないのか!😔😔!
確かに高速を使って遠くまで来て、来たからにはあれもこれも、あそこもここも見たいのは、自分でも承知して・・承知している筈なのに、その時になっていつだって同じ後悔をするのです。

訪問日:2011年6月14日


ふらり~保内の町歩き 其の一 in 愛媛県八幡浜市保内町

2020年12月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

八幡浜市保内町には、産業遺産に関わる旧跡や、藩政時代の旧跡が幾つか残されています。最初に尋ねたのは、見事な幾何学模様の石垣に目を奪われる「旧川之石庄屋跡」。大小さまざまな青石を鋭角に巧みに組み合わせる技術は相対的に古く、現在では新造・再現は困難であるとし、2002年に国登録有形文化財の指定を受けています。

敷地の奥には文久2年(1862)に建築された土蔵と井戸が残り、同屋敷地内より移設された3mを超える青石の灯篭とともに、藩政時代に庄屋を務めた「二宮家」の歴史を今に伝えています。

 赤レンガ倉庫の手前にある「美名瀬(みなせ)橋」。昭和八年(1933)の架橋当初は欄干に鉄柵があるハイカラな橋でしたが、戦時中の金属供出により現在のようなコンクリートアーチとなりました。

橋が架かる宮内川の護岸は、青石を矢羽根積にしたものですが、味気ないコンクリートの護岸と違って、見た目にも美しいものです。

美名瀬橋を渡った先に見える赤レンガの建物は「旧東洋紡績 川之石工場」。保内川之石地区で紡績業が始まったのは、明治20年代に四国で初めて設立された「宇和紡績」から。以後、経営者を変えながら操業を続け、大正3年には東洋紡績川之石工場として稼動することになりました。

当時の川之石地区に建設された東洋紡績の工場は16棟にもおよんでいました。今は原綿倉庫として利用されていた「赤レンガ倉庫」と関連施設が残るだけ。現在は製材会社の倉庫として使用されており、中には入れませんが、赤レンガ倉庫沿いの「もっきんロード」から間近に見ることができます。

続いて訪ねたのは「愛媛蚕種株式会社(旧日進館)」。明治17年(1884)、呉服商麓屋の兵頭寅一郎が日進館としてはじめ、のち愛媛蚕種株式会社となった建物です。

全面ガラス扉に覆われた木造3階建ての蚕室では、今でもお蚕さんが大切に飼育され、1週間前までの要予約で、ガイドさんの説明を聞きながら見学も出来ます。でも予定が組めない私たちには、ほぼ・・縁のない話。

事務室と玄関、蚕室のある3棟の建物は、国土の歴史的景観に寄与しているものとして1999年6月に国登録文化財に指定されています。

次に向った場所は、明治24年(1891)に開鉱された「大峰鉱山:佐島精錬所」の名残を伝える「からみ石・石垣」

画像の黒っぽい石は、銅鉱石を精錬する過程で銅分を取り除いた後の鉱滓からできた「からみレンガ」と呼ばれるもの。川之石では精錬所の名にちなんで「佐島レンガ」と呼んでいました。

からみレンガの石垣の直ぐ近くに、洗い出し技法の外壁が目立つ「内之浦公会堂」。随所に西洋建築を意識した建物は、昭和12年(1937)に地元出身の実業家那須金市氏の寄付によって建てられました。

「公会堂」の文字の下にはアカンサスの葉をデザインした細工が施され、当時としては非常に斬新なデザインであったと思われます。2001年4月24日、「内之浦公会堂」は国登録有形文化財に指定されました。

八幡浜市保内に残された歴史的建築を訪ねる町歩き、もう少し続きます。

訪問日:2011年6月14日


ご当地マンホール in 愛媛県旧八幡浜市・旧保内町(八幡浜市)

2020年12月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧八幡浜市(やわたはまし)は、愛媛県西端にある佐田岬半島の付け根に位置した町です。西予市、大洲市、西宇和郡保内町に、また海上を隔てて伊方町に隣接。八幡浜の地名は、八幡大神がこの地の浜に立たせられたことによると伝えられています。町域は中心部を流れる千丈川によるデルタ地帯を土台とし、すでに天正年間(1573~1592)には埋立工事が行われたと伝えられており、以後たび重なる埋立てによって、市街地は海へ海へと拡大されてきました。古くより、九州や関西地方との海上交易が盛んであった事から「伊予の大阪」と謳われ、西四国の交流・交易活動の拠点として発展してきました。「市の木:ミカン」「市の花:サルビア」を制定。

旧キャッチフレーズは「海の幸 山の幸 豊かな人情 住んでよかった八幡浜」

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡八幡浜町・矢野崎村・神山村・千丈村・舌田(しただ)村・川上村・真穴(まあな)村・双岩(ふたいわ)村・日土(ひづち)村・川之石村・宮内村・喜須来(きすき)村・磯津村が発足。

1914年、川之石村が町制を施行、西宇和郡川之石町が発足。

1930年、八幡浜町と矢野崎村が合併、西宇和郡八幡浜町が発足。

1935年、西宇和郡八幡浜町、神山町、千丈村、舌田村が合併、第一次八幡浜市が発足。

1955年、八幡浜市が川上村、真穴村、双岩村、日土村を編入。

2005年 、西宇和郡保内町と合併、八幡浜市となりました。

マンホールには市章を中心に「市の木:ミカン」がデザインされています。

全体に「市の花:サルビア」がデザインされています。

昭和10年2月11日制定の市章は「「日本ヤワタハマ」の文字を丸くかたどって図案化したもので、全市一体の和と愛情、健全にして伸びゆく八幡浜市を象徴しています。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月14日&2015年2月25日

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旧西宇和郡保内町(ほないちょう)は愛媛県の南予地方、佐田岬半島の付け根に位置した町です。八幡浜市、西宇和郡伊方町、喜多郡長浜町に隣接。町域の大部分は山間地と丘陵地が続き、平地は乏しく、喜木川は金山出石寺に、宮内川は銅ヶ鳴に源を発し、これら流域に平地が開けています。丘陵地の大部分はウンシュウミカン、伊予柑の果樹園として利用されています。明治期、ハゼの 交易、銅鉱山、海運などで栄え、四国で初めて宇和紡績の操業開始、宇和紡績の工場内に自家発電開始(四国で初めて電灯の火がともる)、金融機関(今日の銀行)が一番早くできるなど、文明開化期をリードしてきました。「町の木:松」「町の花:水仙」「町の鳥:ウグイス」を制定。

旧キャッチフレーズは「みかんと歴史とふれあいの町 保内」

明治22年(1889)、町村制の施行により、西宇和郡磯津村・宮内村・川之石町・喜須来村が発足。

1955年、西宇和郡磯津村、宮内村、川之石町、喜須来村が合併し、保内町が発足。

2005年 、旧八幡浜市と合併、八幡浜市保内町となりました。

マンホールには中央に「ミカン」、周囲に「町の花:水仙」がデザインされています。

町章を中心に、左に「町の木:松」、右に「町の花:水仙」がデザインされています。

昭和43年1月22日制定の町章は「保内町の頭文字「ホ」を形取り、合併した4地区ががっちり手をつなぎ、力強く発展していく様を表しています。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月14日


ご当地マンホールとマンホールカード第3弾 in 愛媛県八幡浜市

2020年12月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

八幡浜市(やわたはまし)は愛媛県の西部、佐田岬半島の基部に位置する市です。2005年3月28日 - 八幡浜市と保内町の対等合併により、新たに八幡浜市が発足しました。西予市、大洲市、西宇和郡伊方町に。また県を跨ぎ海上を隔てて山口県熊毛郡上関町、柳井市に隣接。北は瀬戸内海に面し、西側の南半は豊後水道(宇和海)をはさんで九州に対しています。海岸線はリアス式海岸を形成しており、急斜面が海岸に迫る地形で平坦地が少なく、岬と入り江が交錯した風光明媚な景観をなしています。「市の木:ミカン」「市の花:水仙」を制定。

キャッチフレーズは「いま 共に育む 進取のまちづくり  風とらえ  風おこす」

マンホールには市章を中心に、「市の木:ミカン」がデザインされています。

旧保内町のデザインで、中央に市章、周囲に「保内町の花:水仙」がデザインされています。

2005年11月5日制定の市章は「八幡浜市の頭文字「八」を形取り、青色(上の曲線)は宇和海や伊予灘をわたる潮風、緑色(下の曲線)はみかん園をわたる風、オレンジ色(丸)は特産のみかんと太陽を表し、未来へ躍進する時代の「風」をとらえ、地方の変革の「風」をおこす姿を表現しています」公式HPより

八幡浜ちゃんぽんPRキャラクター『はまぽん』。ちゃんぽんとチャンピオンをかけた王様っぽい風貌に、チャームポイントは八幡浜の「八」の字を表す赤いヒゲです。

撮影日:2011年6月14日&2015年2月25日

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2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードが 配布開始されました。「八幡浜市」のマンホールカードは、「道の駅・みなとオアシス 八幡浜みなっと みなと交流館」でいただけます。

2016年に設置開始されたマンホールには「はまぽん」と「かまワンちゃん」と「トロール船」などがデザインされています。

「地元のソウルフード”八幡浜ちゃんぽん”を広めるために誕生したゆるキャラ「はまぽん」と、特産品のかまぼこをモチーフにしたペット犬の「かまワンちゃん」をデザインしたマンホール蓋です。 背景には、日本の航空機の父・二宮忠八が明治時代に考案した「飛行器」、「みかん山」、 「トロール船」といった八幡浜ならではの風景を描きました。 ”健幸”のまちづくりを進める八幡浜市では、JR八幡浜駅から道の駅・みなとオアシス「八幡浜みなっと」まで続く千丈川沿いの道をウォーキングコースとして整備し、道標として本マンホール蓋を設置しています。」