鳥取市鹿野町鹿野に門を構える「浄土宗寺院:明照山 幸盛寺(こうせいじ)」。『山中 幸盛(やまなか ゆきもり)』の菩提寺として知られており、戦国ファンにはちょっとした名所。
戦国時代から安土桃山時代にかけて尼子氏に仕えた『山中 幸盛』。と言ってピンとこない人も、三日月の前立てに、鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた『山中鹿介(しかのすけ)』なら、ああと頷く方もおられるのでは。「尼子三傑」の一人で「山陰の麒麟児」の異名を持ち、最期まで主家に忠誠を誓って散った武士(もののふ)。彼の姿は多くの時代小説や映画・舞台などにも登場します。
境内を進むと墓地の一画、一段高くに「山中幸盛」の墓が建立されています。毛利氏に滅ぼされた後も尼子家に終生変わらぬ忠誠を誓った武将。幾多の戦いを経て尼子家再興を願うも、最期の上月城の戦いで捕えられ、備中国合(阿井)の渡において毛利氏家臣により謀殺。天正六年(1578)数え三十四歳。 のち、鹿野城主となった「亀井茲矩(これのり)」は、舅にあたる山中幸盛の菩提を弔うため、旧地から寺を移し、山寺号も明照山幸盛寺と改めました。
墓所の前には尼子家再興を誓って「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った言葉が刻まれています。
頼山陽は後の世に彼を評し【嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る(勇名をはせた幸盛は鹿という名を持つが、誰が鹿と呼べようか。戦国乱世の中にありて虎狼をも凌駕する麒麟である。)】と述べています。
「幸盛寺」の建立と同時に植えられたという「大銀杏」。樹高34m 幹周り6m、樹齢400年以上。鹿介(しかのすけ)の墓を、鹿野の歴史を見守ってきた大樹です。
浄土宗開祖「法然上人」九歳の折の「勢至丸さま」像
水谷川の角地に境内を構える「真言宗醍醐派寺院:三光院」。境内角地に奉られる地蔵堂。
書物や寺院などで拝観する「弘法大師座像」。右手は掌を反転して五鈷杵を執り、左手は掌を上にして数珠を執られています。
前方に結跏趺坐の姿勢をとるのは、賽の河原にいるという鬼でしょうか? その後ろには幼い子らが幾人も・・・あるいは泣きじゃくり、あるいは地蔵様の手に縋り、あるいはただ静かに座って小さな手を合わせ・・何とも切ない光景がそこに繰り広げられています。
地蔵堂の近くに建立されていた菩薩像
三光院の近くに鎮座されていた「出雲大社教(いずもおやしろきょう)鹿野分院」、〆柱の奥に切妻造の拝殿。
右手に親子神牛さんの奉納。かなり時代を経たもののようで、撫でるのが憚られます。というか、そもそも出雲大社教に神牛が存在するものなのか不明。
よくは分かりませんが、子牛を顎の下に置いて寝そべる親牛の表情があまりにも優しくて切なくて・・
「浄土真宗本願寺派寺院:西向山浄徳寺」。『伊吹入道正弐西』が開祖とされ、宝暦11年(1761)にこの地に移転。参道の先に竜宮門があり、更に奥に本堂の大屋根が見えていますが、入り口での拝礼で・・m(_ _)m
赤い瓦屋根の下、白漆喰の壁に「拍子木」を象った町紋の鏝絵
「鹿野往来交流館」の天井に下げられていた祭り提灯。
400年の伝統を誇る県指定無形民俗文化財「城山神社の獅子舞」。獅子は二人立ち。獅子頭は神楽獅子で赤の着物に赤の蚊帳。猩々は赤の着物に赤い髪で幣のついた棒を持つ。猩々に導かれ獅子がゆっくりと舞い始める・・・長い伝統が受け継いできた祭りの姿・・ああ、一度でいいからこの目で見たいね。
町の入口で見かけた酒処の看板、「しかの祭り 街道筋」の文字と共に「御神輿と獅子舞」が描かれている。
訪問日:2012年4月17日
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