きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(16)・青空鼓笛隊

2010年09月18日 | 思い出探し
写真;
青空鼓笛隊の出動、気仙沼市「みなと祭り」にて、1960年(昭和35年)頃

 当時住んでいた気仙沼の新町、福美町周辺の子供達を隊員とした鼓笛隊が活躍していた。
私も4年生から入ったと思うが、毎週末の夜に近所の倉庫の空きスペースや消防団の2階などを使わしてもらって練習をしていた。指導していたのは若い男の人で、熱心に指導に当たっていたが、町内会の皆があれこれ面倒をみてくれていた。

 大太鼓、小太鼓、鉄琴、に縦笛で30~40人の編成だったと記憶しているが、夏の港祭りのパレードでは花形で、暑い中を一生懸命演奏して回った。行進の途中に設けられた休憩所では、ジュースやお菓子が配られたが、とにかく暑くて、汗だくだくだった記憶がある。倉庫内での練習は夏は暑く、冬は寒くて大変だったが、結構まじめに練習に通っていたと思う。

 何時だったか練習の途中に、気仙沼高校の出身で、大洋ホエールズ(現ベイスターズ)に属し、史上最年少(20歳)で対大阪タイガース(現阪神タイガース)戦において完全試合を達成したばかりの島田源太郎投手が訪問してくれて、いろいろな話をしてくれたが、まさに別世界のスターを目の当たりにして興奮した思い出がある。
私が5年生の時と思うので1960年ごろかな。

思い出探し(15)・町内そろって海水浴

2010年09月18日 | 思い出探し


写真;
私10歳 昭和34年撮影。海水浴でのパン食い競争のスナップで近所の人が撮った評判の写真。
手前から2人目のこっち向きでパンに食いつこうとしているのが私。
今時、海水浴に町内で行くこともないだろうし、まして海水浴場でパン食い競争なんてねえ・・・。
子供たちも沢山いたし、思えば良い時代だった。

 引越しした翌年(昭和34年)の夏に、気仙沼の湾口にある大島の小田の浜海水浴場に町内そろって海水浴に出かけた。今では少なくなったが、娯楽の少ない当時は町内そろっての海水浴やハイキング、あるいは町内対抗の運動会などの行事があり、子供だけでなく大人達も子供達と一緒に楽しんでいた。
ほんとに良い時代だった。

 

仕事の忙しかった父もこの日は参加してくれた。
気仙沼に来てから父の病後の回復も順調で胸部手術の後の傷もやっとふさがった頃だと思う。近所の鍼灸師に在宅でお灸を毎日据えてもらっていたのが効いたようだ。
肋骨を数本、片肺を全部摘出した体は人が見たらぎょっとするような傷が痛々しかった。
父は夏の暑いときでも裸になることは無かった。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(14)・北野神社の相撲大会

2010年09月18日 | 思い出探し
写真は仙台にいるころ肺結核で療養中の父を見舞って訪れた国立病院の芝生の上で相撲を取って遊ぶ私と兄。

 気仙沼の家の近くに北野神社があり、夏祭りには夜店が沢山出たり、境内で旅芝居の興行が催されたりしてビックリするほどの賑わいだった。
ここの境内には土を盛ったチャンとした土俵が常時設けられていて、毎年、周辺の町内に住む子供達が出場する奉納・子供相撲大会が催されていた。
「港祭り」でも港に設けられた特設の土俵で、大人の相撲大会も盛大に催されたが、漁師町の気風が相撲人気の元にあるかも知れないが、思えば当時の相撲人気は全国的なものだっのだろう。

 気仙沼に移った翌年に私たち兄弟はこの相撲大会に出場した。
例によって、子供たちが引っ込みじあんにならないようにと思っている母に無理やり引っ張り出されたのである。
兄弟で良く相撲をとってはいたものの、大勢の見物客の前での裸にマワシ一つでの真剣勝負なんて初めてで、土俵の裏でマワシを締めてもらっている時からすごい緊張状態、興奮状態にあったのを思い出す。

 いざ、試合が始ると無我夢中で、大きな体の子供達もいて、きわどい勝負も多くあったが、すばしっこさが幸いしてか、負けず嫌いのせいか、はたまた母の応援のせいか、私は4年生の部で優勝してしまった。 続けて、これに発奮したのか、兄も6年生の部で優勝してしまった。

 子供達の快挙に母の喜びようは並大抵ではなくて、二個の優勝カップと醤油2升とか座布団とかお菓子とかの沢山の賞品を持って家に帰るなり、出張先の父にさっそく電話で知らせたのでした。
 仕事から戻った父にはたいそう誉められましたが、うれしかったのは私たちより両親の方で、父の晩酌もいつもよりすすんでいたようでした。

 気仙沼に引っ越してきて1年、「仙台から転校してきた、おとなしいお坊ちゃん」という周囲の見方もこれを機会に変わって、悪童達との付き合いもグンと増えたのでした。
昭和34年の春のことです。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(13)1958~1965・気仙沼

2010年09月17日 | 思い出探し
写真:
気仙沼港の「お神明様(オシメサンと言っていたが)」を望む(昭和35年頃)。
前方の小山の上の神社と、海にせり出した灯明台と朱色の回廊があったが、そこは私の好きな場所で、子供の時だけでなく大人になってからも気仙沼に来た時には必ず訪れる場所になっている。

 私の気仙沼での生活は昭和33年(1958)8月から昭和40年(1965)3月までである。
小学校3年生の夏休みから中学校卒業までであり、途中丸一年間は腰椎カリエスの治療のため仙台にある国立療養所西多賀ベッドスクール(当時、西多賀中学校の分校)で過ごすのであるが、その期間も含めて私の人格形成に最も影響した時期であり、「少年時代」の思い出が一杯詰まった宝箱である。

 初めて降り立った気仙沼駅のホームで嗅いで感動した「磯の香り」が、魚網や牡蠣殻や魚の「生臭さ」であることを知るのはすぐのことで、その「臭さ」も鼻につかなくなった頃には、私は気仙沼の子になっていて、友達と山や川や海で遊びほうけていた。

 仙台にも山や川や海が近くにあったのだが、気仙沼はそれらがギュッと圧縮された狭いエリアにあるため、子供たちが自然に触れる機会は格段に多かった。

 仙台弁も特徴的だが、気仙沼弁もまた特徴があり、面白い方言が沢山あった。両親からは、樺太では標準語が話されていたと聞いたし、確かに仙台にいるときも両親の話す言葉だけでなく私たちの言葉も標準語で、仙台弁丸出しの友達からも不思議がられたのだが、そんな私でも「・・・だっちゃ」とかの仙台弁も話していたと思うのだが・・・気仙沼の友達からは「都会から来たお坊ちゃん」風に見られていた・・・ということを最近、同窓会で昔の同級生からからかい半分に言われてしまった。

 当時の気仙沼は「東洋一の魚市場」といわれた大きな魚市場が既にあり、マグロ、鯨などの遠洋漁業の基地であり、丸に「は」の字の大洋漁業の缶詰工場はじめ大小の水産物加工業あり、漁業関係の用具販売の商店あり、漁業・水産関連の人たちが利用したであろう料亭やカフェ、飲み屋も多くあり、映画館も2館あり(現在は一館も残っていない)、両国と男山という2軒の酒造会社あり、船員さん達が泊まる旅館も多くあり、安波山登山、町内対抗運動会、町内での海水浴、港祭り、花火大会、相撲大会、など市民全体が楽しめる年中行事が多くあり、網元や遠洋漁業の船員さんなどの漁業関係者や水産加工、それに関連する流通や商業に従事する人達が裕福なせいか、はたまた一般的に港町特有のものなのかは分からないが、東北の片田舎にしては、暮らす人々の生活は派手で明るかったように思う。

 日野照子、千 昌夫、生島ヒロシ、村上弘明、マギー審司・・・など気仙沼出身の芸能人が結構いるのも、そんな土地柄のせいなのかも知れない。
 いずれにしても、前に暮らしていた仙台の東八番町界隈の寺町の風情とは全く趣を異にした世界がそこにはあった。

気仙沼での生活については、これからも思い出し出し書いてみたいと思う。

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思い出探し(12)・洞爺丸海難事故の夜

2010年09月17日 | 思い出探し
1954年9月26日22時43分、青森と函館を結ぶ青函連絡船・洞爺丸(3800トン)が台風によって沈没し、1200名ほどの乗客・乗員が亡くなりました。
この海難事故は松本清張作で映画やTVドラマにもなった「飢餓海峡」でも有名です。


 当時私は4歳で、仙台に住んでいましたが、当日は脳卒中で倒れた母方の祖父の見舞いのため母と兄の3人で秋田市(祖父は王子製紙の社員で、当時は社宅に住んでいました)に来ていました。

 当日は台風15号が四国から関西を横断して日本海に抜け、北海道へ向かっていました。秋田市も夕方から夜半にかけてものすごい嵐となり、建物は大きく揺れるし、風がふくたびに風圧で雨戸が内側に反り返ってくるのを皆で必死になって押し戻したり、停電の暗闇のなかで瓦が飛んできて外壁にドンドンぶつかってきたりで、けして頑丈な造りとはいえない木造2階建ての家が今にも吹き飛ばされて、死んでしまうのではないかと真に思ったものでした。

 翌日は台風一過の快晴で、道には飛ばされてきた雨戸や瓦やもろもろの残骸が散乱しており、側の田んぼの稲穂もすっかり倒れてしまっていましたが、そんな中でまさに「生きてて良かった・・・!!!」という感じで、昨夜の恐怖も忘れたように、いとこ達と楽しく遊んだのを覚えています。
大分後になって、この台風15号で青函連絡船の「洞爺丸」が沈んだのだということを聞かされました。


 還暦を迎えた私が今でもこのことを鮮明に覚えているのは、この夜の恐ろしさのためかも知れません・・・けっして怖がりな人間とは思ってない私が、台風、特にゴー、ビューといった風音に今でも結構神経質になるのは、その経験がトラウマとなっているからかもしれません。

 この時洞爺丸以外にも北見丸(70名死亡)、日高丸(56名死亡)、十勝丸(57名死亡)の3隻の貨物船が沈没しています。

思い出探し(11)・父の発病

2010年09月17日 | 思い出探し
私たちが仙台市に住んで間もなく父が肺結核を発病した。
父が34歳、母が29歳、私が5歳の頃であったと記憶する。
写真はその直前頃のもので、私が甘えている父はとても痩せている。

群馬県沼田市の北越製紙㈱林業部の出張所から宮城県仙台市の出張所長として赴任して間もなくで、2~3人の部下を使ってバリバリ仕事をしていた時であったが、肋膜炎で戦地から樺太に送還されてから、樺太の営林署勤務、赤軍の占領と樺太からの引揚げ、取りあえず落ち着いた青森県浅虫での冬の生活、民間会社への入社と続いた様々な疲れが一因であろう。

微熱が続き、コンコンと空咳をし、体がだるく、痰が出るようになって、昼間家で寝ている父をこの時始めて見た。
肺結核と判明し、家から離れた専門の個人経営の診療所に入院したが、経過は思わしくなく、しばらく後に仙台市内の国立病院に入院となった。

2度の手術と3年間ほどの闘病生活が続いたが、このころが我が家のもっとも厳しい時期だったと思うが、私自身はそんなことが分かるはずもなく、また母も子供たちに明るく接して頑張っていたのである。

当時の肺結核は国民病であり、戦中戦後の衛生・栄養面の悪化もあり、多くの人が罹患したわけである。結核は隔離治療されるのだが、それでも家族に結核の人がいるとその家族も罹患する確率が高く、多くの子供が結核の一つであるカリエスに罹患した。
父の肺結核は中学生の時に気仙沼で私が腰椎カリエスを発病する原因ともなるのだが、そんなことになるとは幼い私は夢にも思わなかったのである。

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思い出探し(10)・トムとポチ

2010年09月17日 | 思い出探し
家の飼い犬の名前はトム、近所のお寺の門前に店を構えていた花屋さんの飼い犬の名前がポチ、といっても昭和30年頃のことで、私が物心ついた頃にはトムと一緒に暮らして一緒に遊んでいた。なぜ、あまり一般的ではない「トム」という名をつけたのかは記憶にない。

2匹とも雑種の中型犬で、飼い犬の証拠に鑑札がついた首輪はしていたが、ヒモ付きで連れ歩くことはほとんどなくて、いつも放し飼いが多かった。2匹はとても仲良しで、ポチは私たち一家にも慣れていて、私たちが出かけると何処までも付いて来て困ったこともある。

当時は野犬が多くて、保健所の野犬の捕獲なども日常的に行われていて、捕まえられて車に乗せられて保健所に連れていかれる野良犬たちが可愛そうだったのを記憶している。私も幼稚園の時に野犬にくるぶしのところを噛まれたことがあり、幸い狂犬病や破傷風にはならなかったが・・・。

私が小学校に上がる前後にトムが死んだ。
お寺の境内で苦しんでいるところを近所の人が見つけて知らせてくれたが、家に運び込んだ時にはもう虫の息で、家の皆に見守られながら息を引き取った。野犬狩り用の毒入りダンゴを食べたのではないか・・・ということだったが、とても悲しかった。
お寺の墓地の片隅に埋葬して、お坊さんにお経を上げてもらった。

当時のGHQの政策の1つだったのか、公衆衛生に関る改善策がいろいろと取られた。どの家でもノミやシラミがいて、また蚊も多かったしネズミも毎晩天井裏で運動会をしていた時代である。年に何回かは畳を上げてDDTやBHCなどの殺虫剤の粉末を撒いていたし、時には窓を閉め切った家の中に、入り口から白い煙様の殺虫剤を、ドドドドという感じで吹き込んで丸ごと殺虫することが行われていたが、どの家も次から次にやられていたので、おそらく公的機関が行っていたのであろう。テレビでときどき見る終戦直後のように頭から直接殺虫剤を掛けられるということは無かったが・・・。
DDTやBHCなどの殺虫剤は人体に影響があるため今は使われていないが、いま思えばなにか人体実験されていたようで、いい感じはしないのである。

 夏場の蚊帳も必需品で、なにしろ近所にお寺が沢山あったせいで蚊がものすごく多かった。蚊帳への出入りの仕方を何度も母に教わったが、それでも入ってきた1匹の蚊に何度も安眠を妨げられた。ネズミはネズミ捕りで面白いように取れた。毎晩捕れたが、天井裏の巣からピンク色をした子ネズミを沢山捕ったこともある。

いずれにしてもトムが死んだ後しばらく何も飼わなかったが、もともと動物好きの父母のせいか、ずいぶん後になってからも猫や犬を何匹か飼ったと記憶している。


昭和30年前後の仙台市での話である。


思い出探し(9)・喧嘩独楽と釘刺し

2010年09月16日 | 思い出探し
昭和30年頃の子供たち(悪ガキ達?)の遊びについて・・・

前にも書いたが、家の近くの新寺小路という道の両側には幾つものお寺さんが並んでいて、その墓地での蝉取りやカナブン捕り、お寺の蓮池でのイモリやフナ獲り(何回池に落ちたことか)、ゴムパチンコ、2B弾の爆裂、陣取り、チャンバラ、かくれんぼ、お医者さんごっこ??、凍った道路でのスケート、パッタにメンコなどなど楽しく遊んだ思い出が沢山あるのだが、後にも先にもここ仙台、またはここ東一番町界隈だけでやられていたのかも知れないローカルな遊びが、「喧嘩独楽」と「釘刺」である。

 独楽遊びというと「べーゴマ」が頭に浮かぶのは東京人だろうが、昭和30年前後にこの辺でやられていたのは、もっとダイナミックな独楽遊びであり、路地裏とか軒先でもできるべーゴマと違い、ある程度の広場がないと出来ない遊びであった。危険な遊びでもあり親達にはあまり好評でない遊びでもあった。
 
独楽がまずでかくて重い。
直径10cmを越え、高さ(厚さ)もある白木の独楽を使うところが特徴で、心棒も白木の太いものだった。独楽は近くの木工所で作ってもらっていた。オーダーメイドの遊び道具だなんて今思えば洒落ている。
注文するとその場でコケシなどを作る要領で木工旋盤を使ってシャーっと作ってくれた。
心棒を押し込む時に出る煙や木の焦げる匂いが思い出される。
この独楽を水に漬けたり、親に隠れて糠味噌に漬けたりして湿らせることで独楽本体と心棒を強固に結合させ、また重さと強さを高めてから使用した。

 独楽を回す紐がまた特徴的で、古い日本手ぬぐいやぼろきれを細く裂いて三つ編みにした、手元が太く(握るに適した太さ)で、先に向かって徐々に細くした(先端は糸みたい)、丁度ムチのような形状の紐を自作して使用していた。
紐を巻いた独楽を野球のボールを投げるようにサイドスローやオーバースローで地面に叩きつけるように投げたり、「ガンズキ」といって垂直に落としたりして回すのだが、回すだけでもかなり難しいのに、既に回っている相手の独楽に投げ当てて倒して(回るのを止めて)かつ、自分の独楽が回っていて勝ちとなるゲームであり、この辺はべーゴマと少しにている。変な方向に飛んでいって、人に当たったりして、たまにけが人が出た。また時には衝突した独楽が真っ二つになったりした。
現在であれば危険で学校から禁止命令が出そうである。

 もう一つ危険なのが「釘刺」という遊びで、これは先の尖った適当に細い金属棒を地面に投げ刺して遊ぶ遊びだ。これは狭いスペースでも出来る遊びであるが、地面が固かったり小石が混じっていたりでは旨く刺さらないため、粘土質で湿って柔らかい地面が必要であり、やる場所は限られていた。
家の庭がそんな地面だったので、兄や近所の子とよく遊んだ。ゲームは単純で交代に釘を地面に投げ刺して、自分の刺し跡を直線で結んで、折れ線グラフのようにつないでいくだけのものだが、描かれる自分や相手の線をクロスすると負けになる。みんなのスタート点は共通であるので、相手の通り道をふさぐ様に折れ線を延ばしていくと、当然ながら渦巻き状の円がだんだん大きくなっていくのだが、あいての行く手をふさぐためには、既に出来ている線の出来るだけ近くに刺して相手の線がその隙間を通りにくくするのがポイントとなる。
釘は五寸釘でも良いのだが、より繊細な戦いが好きな兄や私は父親に内緒で、父の事務仕事で使っている千枚通しや大工道具の錐を持ち出して遊んだものである。
父に見つかるようなヘマは決してしなかった。

この遊びは3年生で転校した気仙沼では全くやられていなかった。
なぜか分からないが、勝負遊びとしては仙台では全くはやっていなかったビー玉が流行っていたのである。

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思い出探し(8)・1955仙台・その2

2010年09月16日 | 思い出探し
写真;幼稚園の帽子を被った私と小学生の兄、仙台に来た移動動物園を見に行った時のスナップ

 仙台に引っ越してから間もなく幼稚園に通い始めたが、残念ながら幼稚園での記憶がほとんど無い。
「のうにんようちえん」という名と、「のんのの かみさま ほとけさま・・・・」という歌のワンフレーズだけ記憶にあり、多分園歌だったのだろう。お寺さんが経営していたので、「のんの様」=観音様なのであろうか・・・。

 仏教系の幼稚園であったが、毎年クリスマスには当時仙台に進駐していた米軍の楽隊と白いひげで背のやたら高い本場もんのサンタクロースが一杯のお菓子を持って訪問してきてクリスマス・パーティーが開かれた。 これを鮮明に覚えているのは、多分もらった美味しいお菓子の所為であろう。こういうことは米軍の占領政策の一環で行われたのだろうが、アメリカといおうかキリスト教はやることが戦略的で上手である。なにしろ今でも私の記憶に残っているのだから・・・。

 当時は現在の青葉区、青葉城址がある山と広瀬川の間に広がる台地に進駐軍(米軍)のキャンプがあり、舗装などまだされていない家の近くの道を時々、野砲を引いた米軍のトラックや、戦車までが砂埃を撒き散らしながら走っていた時代である。パトカーは白塗りのジープでお巡りさんは米軍から支給された大型の拳銃をぶら下げていた。

 トラックは走っていたが、馬や牛が引く馬車なども走っており、タクシーは円タクと呼ばれていたが、自転車と人力車を合体させたような「輪タク」も利用されていた。
冬の暖房には仙台近郊で採れる亞炭や薪を使用するストーブや炭や練炭を使用するコタツが使われていた。父の仕事の関係から薪は沢山あったが、薪割りは子供達の仕事で、長い丸太をノコギリで適当な長さに斬ってから、おおきな斧を使っての薪割りはきつかったが、結構おもしろかった。

 近くにあった鐘崎(今は大きな会社になっているが)の笹蒲鉾の工場の通りを挟んだスーパー(そのころは何とよんでいたか?)に街頭テレビが設置されたのは私が小学校に入ってからと記憶しているので、昭和30~32年頃であろうか。新橋の街頭テレビの人の群れが有名だが、仙台の横丁の小さな通りでも同じようなシーンがあったわけで、時は栃錦VS若の花(とちわか時代)であり、プロレスでは力道山が外人に空手チョップを食らわしていたのでした。

思い出探し(7) ・1955仙台

2010年09月16日 | 思い出探し
写真;幼馴染の悪童たち、遊び場だった家の前の石置き場にて

 私が仙台で過ごしたのは3歳(1952年)から小学校3年生の夏休み(1958年)までの6年間で、当時は終戦から10年ほど経過したとはいえ、まだ米国の占領・統治下にあり、市内にも進駐軍のキャンプがあって、家の近所の新寺小路の道を時々米兵を乗せたジープや野砲を引いたカーキ色のトラックが未舗装の道路を砂埃を巻き上げながら走っていた。そればかりか、たまには戦車もキャタピラで地面を削りながら、ゴゴゴゴゴと地響きをたてて走ることもあった。

 私の住んでいた東八番町は駅裏の赤線地帯とは少し離れていて、すぐ側の新寺小路を挟んで両側にお寺が並んでいる静かな町であり、あまり事件らしい事件は起きなかったが、たまにウーウーウーとサイレンを鳴らしながら、米軍支給の不釣合いな大型拳銃を腰に吊った警察官を乗せた白塗りのジープ(パトカー)が走ってくると、外に出て眺めたものである。

通っていた幼稚園はお寺さんの経営だったが、クリスマスには米軍の楽隊とお菓子を背負った背の高い本場もんのサンタクロースがやってきて園内でクリスマスパーティが開かれた。これもGHQの占領政策の一つだったのだろうが、子供達には楽しいひと時だった。

 仙台市の中心部には路面電車が走り、トロリーバス(電気自動車)が走り、タクシーもあったが、自転車と人力車が合体したような「輪タク」も特に夜間などは良く利用された。
 私の住まいも含めて周囲には木造平屋または二階建ての家が多く、大体が大人の背丈より高い板塀で囲まれており、それなりに庭などもあり、花壇や庭木もあったりして、建物は古かったが、住宅事情は現在より良かったような気がする。現在、新寺小路も道幅の広い立派な舗装道路になり、お寺や墓地もそれによって削られて、よく遊んだ蓮池なども姿を消して、一戸建ての家はマンションへと変っている。

 ハエ、アブ、ダニ、ノミ、シラミ、蚊などの虫たちやネズミには手を焼いた。
ちょっとした水溜りにはすぐボウフラが湧いたし、汲み取り式の便所を覗くと蛆虫がクニクニ蠢いていた。蚊帳は夏の必需品だったが、母に教えられた通りにいくら上手に蚊帳の中に入っても、いつも1~2匹の蚊が付いて入って来て往生したものである。ある程度の歳になると子供はみなノミ捕りの名人となった。

 毎晩、天井裏で運動会をするネズミは「ネズミ捕り」で毎晩つかまえてもいなくならなかった。なにしろ鼠算式に増えるのですから・・・。ネズミ捕り器のまま水に漬けて水死させるのはチョッと可哀相だったが、そんなことも言っていられないし・・・。

 年1~2回は天気の良い日に畳を上げて天日に干し、床板の上に敷いた新聞紙の上に殺虫剤を撒いて、乾いた畳を敷き戻す作業も一家総出でやっていたし、たまには市役所(保健所かな?)の消毒班みたいなのが各戸を回っては、小型発動機がついた機械からボボボボボと白い煙を家の中に吹き込んで、家全体を消毒・殺虫していたが、今思えば殺虫剤は今は禁止されているDDTやBHCだった訳で、そんな内で暮らしていたのだからなんと恐ろしい・・・。
まあ、今元気で生きているのだから問題ないと言えば問題ないのだが・・・。

 近所に街頭テレビが設置されたのは私が小学校へ上がる頃だったろうか、昭和30年ごろと思うがはっきりしない、設置されたのは周辺では1番大きな食料品店(今で言うスーパーかな)の前で、この店は蒲鉾を作る工場を併設していて、工場の建て前のときには撒かれる餅や五円玉を必死に拾ったものだが、笹かまぼこなどを手焼きしていて・・・現在の仙台土産「鐘崎の笹蒲鉾」の会社である。

 蓮坊小学校への入学は昭和30年(1955年)であるが、校門の前にはいろいろな物売りがきた。一番多かったのが「針金細工屋」で、ピストルや三輪車などを目の前で作って売っていた。粘土細工用のゴム粘土と型も売りに来た。半割にした型にゴム粘土を詰めて、押し合わせて、型を開いて、はい亀やウサギや大黒様の出来上がり。
「樟脳船」はセルロイド製の小さな船のお尻に樟脳の欠片を乗せて水に浮かべると、ふしぎやふしぎスイスイ、クルクル走りだすというもの。他に「サワガニ」「ヤドカリ」「色つきヒヨコ」「カメ」などの動物などなど、学校帰りの一時を物売りのおじさんを囲んで、キャッキャッ、ワイワイと楽しかった。

 休みの時は母と、父が都合の良いときは両親とともに、近くの公園で遊ぶことが多かった。八木山、野草園、西公園、榴ヶ岡公園、仙台城址、広瀬川の河原、県庁前の広場、夏にはモーターボートをチャーターして松島の桂島に海水浴にも行った。
お弁当を持って出かける場所は沢山あった。七夕祭りや広瀬川での花火大会は今ほど豪華ではなかったが、市民のお祭りで、人出は多かった。そんな家族での楽しみができるようになったのも戦後10年という月日のせいだったかも知れない。 
ちなみに、東京タワーが完成するのは1958年(昭和33年)10月14日であるが、この年の8月には一家は仙台市を離れ、気仙沼市での新しい生活が始っていた。

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思い出探し(5)・母

2010年09月16日 | 思い出探し

母と私(抱かれている)と兄。昭和25年正月か。

母は優しく、美しく、賢く、頑張り屋で、私には理想の母親像として心に残っている。

理想の女性像といって良いかもしれないが、これは私が両親とともに暮らせたのが、私が腰椎カリエスを患い、家から遠く離れたサナトリウムに中学2年生の夏に入院するまでの13年間という短い期間だったこともあり、そのため心の中である意味で理想化されたためでもあろう。

残念なことに、少女時代に患ったリウマチ熱の後遺症で心臓が弱かった母は、正月に子供をつれて帰省した私たち夫婦をいつもと変わらず元気に迎えてくれた翌月に58歳で急死してしまうのであるが、当時33歳の私にとってはまさに人生最大のショックであった。母が死ぬなんてことは全く考えていなかったから・・・。

母は、王子製紙の社員で樺太(おそらく泊居の工場と思うが)の工場に勤めていた祖父の次女として大正14年に生まれた。姉が1人、弟が3人である。当時は社員(ホワイトカラー)と職工(ブルーカラー)とでは厳然とした格差があったようで、母は社員様のお嬢さんとして良い環境で何不自由なく育ったようだ。

仙台市の女学校に内地留学し、卒業後10代で泊居の小学校で代用教員をしていたそうだが、女学校時代の写真には健康的で目の大きい可愛い少女が写っている。祖父も背はそんなに高くはないがガッチリした体をした目の大きな美男子で、なにしろ母の弟の一人が戦後日大の学生だった時に、映画俳優を目指して長谷川一夫に弟子入りしようとしたくらいであり、他の姉、弟も皆美男美女であったから、家系なのであろう。
その血筋は私の兄にも引き継がれて・・・。残念ながら私は父親似だそうで、後年 父の葬儀に参列した父の小学校時代からの友人の方に「父親にそっくりだあ~!。」と何度も言われたのを覚えている。

少女時代はノルディックスキー(距離競技)の選手で、樺太の大会で活躍したほど健康だったが、リウマチ熱を患い、多くの人がそうであるように心臓に後遺症を残したためか、私の記憶にある母は色白で細面のもの静かな人であったが、友達を作るのが上手な明るい人であった。

代用教員をしている時に、戦地から帰還し営林署に勤務していた父と見合い結婚をしたのである。
すぐに敗戦、ソ連の赤軍の侵攻、樺太からの引き上げ、出産と2~3年間に様々なできごとが起きたが、その後も父の仕事の関係での数多くの転居や父の闘病生活や私の闘病生活などなど・・・次々と起こる一家の大事にも一家を守り、苦労ばかりの人生だったと思う。それに報いることもできずに早世してしまい、今でも思い出すたびに心苦しくなるのである。

母についてはこの後の私の生い立ちの記載の中で書いていきたいと思っている。

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思い出探し(4)・兵役そして帰郷

2010年09月15日 | 思い出探し

父は軍隊での話を子供達に聞かせることは少なかったが・・・。

召集令状に従って、大阪の第八連隊に入隊し、福知山の内務班で教育訓練を受けたと記憶しているが定かではない。祖母の本籍が大阪にあったのかも知れない。

その後、輸送船に乗せられて中国大陸に渡ったようだ。
南京攻略が昭和12年であり、父の部隊が南京城に入ったのは大分後のことと聞いている。
父が二十歳になったのは昭和15年であり、少し調べてみると昭和15年に八路軍(共産軍)の大攻勢があって、その後ゲリラの掃討戦が続いていた頃だから、昭和16,17年頃のことであろうと推測できる。

父も何度かは戦闘を経験したのだろうが、その詳細は一切話したことがない。
良く聞いたのは、父の部隊が南京に到着した際の出来事で、部隊は隊列を組んで整然と行進して入城したのだが、その時一人の中国人が隊列の前を横切りってしまい、その中国人がその場ですぐに取り押さえられて首を撥ねられたのを目にしたという話であった。「中国人をチャンコロと呼んで、日本軍はひどい事をいっぱいしたなあ・・・。」ということも話してくれた。

足の速い父は軽機関銃を受け持たされたが、軽機関銃の担当は戦闘の時は常に部隊の最前面で部隊の進軍を援護射撃しなければならず、重い機関銃を持って先頭を走っては伏せて射撃し、味方が追いついてくるまで頑張って、また走って、伏せて、射撃しての繰り返しは、体力的にキツイし、敵から最も狙われ、狙撃される役割で大変であったこと。

日本軍の軽機関銃はダッダッダッダと射撃の回転速度が遅いが、中国軍はチェコ製の機関銃でタタタタタタと速くて、とても敵わないと思ったこと。

内務班での下士官は全く暴力的で、事あるごとに皮製のスリッパでビンタを食らったが、戦場に来ると態度がまるで変わって、兵を理由無くいたぶる様なことは無くなった、なぜなら「戦場では、恨みを持った味方に戦闘中のドサクサに紛れて背後から撃たれることもあったから。」・・・などである。

なんでも負けず嫌いの父は、幹部候補生試験に合格し、少尉に任官するまでの間に肋膜炎を患って退役することとなるのだが、この時の経緯についてはよく話してくれた。
体調を崩して野戦病院で肋膜炎と診断された父に対し、陸軍の看護婦長さんがこう言ったというのである。「あなたは、母一人子一人なのですね。ここにいなくて良いから、早く故郷に帰りなさい。」と。
この一言で即内地送還が決まったということである。

泣く泣く送還された父は内地の陸軍病院で治療を受けることになるが、父の所属部隊は、その後フィリピン等へ転進し、レイテ島での戦いなどで兵の多くが戦死することになる。
当時の幹部候補生上がりの少尉は消耗品扱いであり、小隊長として戦闘の前面で指揮をとるため、その多くが戦死したという事実がある。
父が繰り返し話したのは「あの婦長さんの情けに命を救われた。陸軍病院の婦長さんにはすごい権限があった。あの婦長さんはどうなったかなあ。」と言うことである。

少尉任官を前にしての内地送還で気落ちし、どの面さげて故郷へ帰るのか・・・と思っていた父を迎えたのは、まだ勝ち戦(と思わされていたとも言えるが)に国民が酔っていた時期でもあり、最前線から帰還した傷病兵に対する周囲の丁重な扱いと歓迎であったそうで、半分は冗談で「若いし、白衣が似合っていたし、あの頃は看護婦さんにもてたなあ・・・。」というのが父の思い出となっていた。

 故郷の樺太へ帰還した父は、営林署に復帰し、その後 王子製紙の社員を父に持ち、仙台市の女学校を卒業後泊居で代用教員をしていた母と結婚することになるのだが、そのあと日を待たずしてロシア軍(赤軍)の樺太侵攻が始るのであった。

思い出探し(3)・新米の営林署員、そして徴兵

2010年09月15日 | 思い出探し
私の父の話である

樺太の泊居(とまりおる)に営林署の署員となって帰郷した父は、まだ10代後半の若者であったが、制服に短剣を下げた立派なお役人であり、年齢に関係なく世間ではそれなりの扱いを受けたようだ。

当時、樺太は資源の宝庫であり、漁業が盛んであったほか、炭鉱があり、ピート栽培などの農業も盛んであったようだが、森林が豊かで林業が盛んであり、王子製紙や富士製紙などの製紙工場が幾つもあった。
国有林の管理が営林署の仕事であり、父もデスクワークだけでなく森林伐採の現場にも良く出かけたようだ、というより新米の職員は現場仕事がメインだったのではなかろうか。

父は、「当時は林業だけでなく他の産業でも労働力は朝鮮人労働者に依存していた。強制的に連れて来られた人も多かったと思うが、近くの社宅にも住んでいて日本人とも結構仲良く付き合っていた。自分も若かったから良く朝鮮の若い人とピンポンなどをして遊んだものだ。ほかにもロシア人もいたし、原住民のオロチョン族の人もいて、皆仲良くやっていたよ・・・。」と話していた。ただ、森林伐採の現場はまた違っていて、「労働者はタコ部屋のようなところに押し込められていて、長い丸太を枕に寝ていて、朝はこの丸太を槌でガンガン叩いて起こすんだよ。」といった話をよく聞いた。
子供向けの話半分としても、かなり過酷な労働が強いられていたようだ。

「伐採現場を視察に行くと、いつもヤクザの親分か山賊の首領のような恐ろしげな現場監督に出迎えられ、上座に座らされて、下へも置かぬ歓待を受けた・・・。」といったことも話していたが、二十歳前の若造とはいえ、官吏であり「お役人さま」なのであるから、当時としては当たり前のことだったのかも知れない。

仕事を始めてまもなく二十歳の徴兵検査で甲種合格となった父は、まもなく徴兵され戸籍上のことだと思うが、大阪の福知山連隊(と記憶しているが?)で訓練を受けた後、北支那方面軍の兵士として中国大陸へ送られることになる。
内務班での訓練のこともたまに話してくれたが、「とにかく事あるごとに殴られた、しかも革製のスリッパで殴るなんてまったく人間じゃないよ!」ということで、新兵の人間性を喪失させるための「内地での訓練期間はとにかく酷かった。」ようである。
これに対して前線に派遣されたとたんに上官は皆優しくなって、いじめられることはなかったようだ。「だって下手にいじめたりして、皆の恨みをかっていたら、戦闘中に後ろから撃たれてしまうこともあるからだよ。」という話は子供心に説得力があって、いまでも覚えている。

思い出探し(2)・木曽のタイガー

2010年09月14日 | 思い出探し
父は、木曽山林高等学校に入学するため、単身 樺太の泊居から布団袋と柳行李を一つを持ち、連絡船と夜行列車を乗り継いで長野にやってきた。

初めて内地(本州)にやってきたのである。
旧制の高等小学校を卒業したばかりということは、現在の中学3年生ということであり、今更ながらに当時の人達(子供達も含めて)の人としての力強さを思わずにはいられない。

子供を送り出す親も親だが、それに応えて旅立つ子も子であり、現在のような子離れのできない親、親離れのできない子ばかりの状況からは想像もできない時代があったのである。
強い目的意識というか、現状から這いあがろうとするパッションが国家だけでなく一般庶民のレベルにも強く感じられる。一言でいえば「昔の人はアグレッシブだった」。

入学後の父は、内地の奴らには負けないという強い意志を持って、猛勉強とともに剣道部の主将として活躍し、「成績はトップだった。二段の昇段試験は京都の武徳殿で受けた。長野県内では山林学校は強い方で自分も木曽の虎(タイガー)と呼ばれて、周辺では鳴らしたもんだ・・・。」が父の口癖であったが、昔の写真に写っている学生帽に丸縁メガネ、色黒で、細面の精悍な顔をした好男子を見ると、いかにもリーダーという貫録で、さぞや女学生にもモテたのではないか?と思われるのである。

父と共に写っている学友達も皆、大学生だと言われても不思議でないくらいしっかりした体つきと顔をしているのであった。

木曽山林高等学校を無事卒業した父は林野庁に奉職する。
樺太に帰郷し、泊居での営林署の新米署員としての生活がいよいよ始るのである。

思い出探し(1)・父母のこと

2010年09月14日 | 思い出探し
母が残してくれた写真から、生まれたばかりの私。
もこもこに綿入れの着物を着せられて、昭和24年、群馬県沼田市。

思い出を探す旅の始まりは、今は亡き父と母のことからになる。
両親ともあまり昔のことを話さない人達であったが、たまに夕飯の食卓を囲んで、父が酒を飲みながらポツポツと昔話をしてくれることはあった。
多くは忘れてしまったが、今でも記憶に残っている切れ切れの話を思い出し出し書いてみるところから始めてみようと思う。

父母の一生に大きく影響したのは戦争であった。
両親が終戦の日を迎えたのは樺太の泊居(とまりおる)であったが、連合軍に無条件降伏した前後にロシア軍(赤軍)が樺太に侵攻し、追われる様にして両親やその一族が樺太を去ったのは昭和22年であった。 
その時には私はまだ生まれていなくて、兄が母のお腹の中にいた。
本土決戦というと沖縄と言うことになるが、本土最後の地上戦は樺太で行われたのである。当時の樺太在住日本人は約40万人という。

大きなお腹で、樺太から取りあえずの落ち着き先の青森県浅虫までの道中はさぞ大変だったと思うが、ロシア軍や強制労働をさせられていた朝鮮人の暴動などで殺された人達や病気で亡くなった人も多くいるわけで、また引き上げが適わず現地に残った人達も少なからず居たわけで、そのことを思うと不幸ではあったが運が良かったと言えるのかもしれない。
ちなみにその時 父は27歳、母は22歳であった。

父の母親は滋賀県の人であり、大阪で商売をしたあと樺太に渡ったと聞く。
母ひとり子ひとりの経済的には苦しい生活であったが、父はスポーツ万能で、勉強も良く出来、祖母には随分可愛がられたようだ。 
当時の国民の多くがそうであったように祖母も大変教育熱心で、父は泊居高等小学校を卒業してから、一人で遠く離れた長野の木曽山林高等学校へ進学した。ちなみに、私自身も気仙沼中学校を卒業してから、仙台第一高等学校へ進学して下宿生活をしたが、父が経験した樺太から長野の距離には比べようもない。

父の小学校の同級生の仲良しに歌手のさだまさしさんのお父上の「さた君;父はそう呼んでいた」がいて、戦後も同窓会などがあり、後々まで交流があったようで、さだまさしさんが製作した映画「長江」の発表記念パーティーで長崎のさださんの家(島)に招待されたりしていたのを記憶している。そのお父上も先ごろ他界されたようである。

家の裏には戦後人気があったシャンソン歌手の高英夫(「雪の降る町を・・・」で有名)も住んでいたということも良く話していたのを思い出す。
樺太時代はつらいことも沢山あっただろうに、当時のことを話す父母はいつも楽しそうであったと記憶している。

父母にとって樺太は夢の故郷のままで終わってしまったなあ・・・などと考えていると私もなにか胸が熱くなってしまうのだが、これも歳のせいかな。
学校に進学した後の父の話は、次回に・・・。

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