きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(7) ・1955仙台

2010年09月16日 | 思い出探し
写真;幼馴染の悪童たち、遊び場だった家の前の石置き場にて

 私が仙台で過ごしたのは3歳(1952年)から小学校3年生の夏休み(1958年)までの6年間で、当時は終戦から10年ほど経過したとはいえ、まだ米国の占領・統治下にあり、市内にも進駐軍のキャンプがあって、家の近所の新寺小路の道を時々米兵を乗せたジープや野砲を引いたカーキ色のトラックが未舗装の道路を砂埃を巻き上げながら走っていた。そればかりか、たまには戦車もキャタピラで地面を削りながら、ゴゴゴゴゴと地響きをたてて走ることもあった。

 私の住んでいた東八番町は駅裏の赤線地帯とは少し離れていて、すぐ側の新寺小路を挟んで両側にお寺が並んでいる静かな町であり、あまり事件らしい事件は起きなかったが、たまにウーウーウーとサイレンを鳴らしながら、米軍支給の不釣合いな大型拳銃を腰に吊った警察官を乗せた白塗りのジープ(パトカー)が走ってくると、外に出て眺めたものである。

通っていた幼稚園はお寺さんの経営だったが、クリスマスには米軍の楽隊とお菓子を背負った背の高い本場もんのサンタクロースがやってきて園内でクリスマスパーティが開かれた。これもGHQの占領政策の一つだったのだろうが、子供達には楽しいひと時だった。

 仙台市の中心部には路面電車が走り、トロリーバス(電気自動車)が走り、タクシーもあったが、自転車と人力車が合体したような「輪タク」も特に夜間などは良く利用された。
 私の住まいも含めて周囲には木造平屋または二階建ての家が多く、大体が大人の背丈より高い板塀で囲まれており、それなりに庭などもあり、花壇や庭木もあったりして、建物は古かったが、住宅事情は現在より良かったような気がする。現在、新寺小路も道幅の広い立派な舗装道路になり、お寺や墓地もそれによって削られて、よく遊んだ蓮池なども姿を消して、一戸建ての家はマンションへと変っている。

 ハエ、アブ、ダニ、ノミ、シラミ、蚊などの虫たちやネズミには手を焼いた。
ちょっとした水溜りにはすぐボウフラが湧いたし、汲み取り式の便所を覗くと蛆虫がクニクニ蠢いていた。蚊帳は夏の必需品だったが、母に教えられた通りにいくら上手に蚊帳の中に入っても、いつも1~2匹の蚊が付いて入って来て往生したものである。ある程度の歳になると子供はみなノミ捕りの名人となった。

 毎晩、天井裏で運動会をするネズミは「ネズミ捕り」で毎晩つかまえてもいなくならなかった。なにしろ鼠算式に増えるのですから・・・。ネズミ捕り器のまま水に漬けて水死させるのはチョッと可哀相だったが、そんなことも言っていられないし・・・。

 年1~2回は天気の良い日に畳を上げて天日に干し、床板の上に敷いた新聞紙の上に殺虫剤を撒いて、乾いた畳を敷き戻す作業も一家総出でやっていたし、たまには市役所(保健所かな?)の消毒班みたいなのが各戸を回っては、小型発動機がついた機械からボボボボボと白い煙を家の中に吹き込んで、家全体を消毒・殺虫していたが、今思えば殺虫剤は今は禁止されているDDTやBHCだった訳で、そんな内で暮らしていたのだからなんと恐ろしい・・・。
まあ、今元気で生きているのだから問題ないと言えば問題ないのだが・・・。

 近所に街頭テレビが設置されたのは私が小学校へ上がる頃だったろうか、昭和30年ごろと思うがはっきりしない、設置されたのは周辺では1番大きな食料品店(今で言うスーパーかな)の前で、この店は蒲鉾を作る工場を併設していて、工場の建て前のときには撒かれる餅や五円玉を必死に拾ったものだが、笹かまぼこなどを手焼きしていて・・・現在の仙台土産「鐘崎の笹蒲鉾」の会社である。

 蓮坊小学校への入学は昭和30年(1955年)であるが、校門の前にはいろいろな物売りがきた。一番多かったのが「針金細工屋」で、ピストルや三輪車などを目の前で作って売っていた。粘土細工用のゴム粘土と型も売りに来た。半割にした型にゴム粘土を詰めて、押し合わせて、型を開いて、はい亀やウサギや大黒様の出来上がり。
「樟脳船」はセルロイド製の小さな船のお尻に樟脳の欠片を乗せて水に浮かべると、ふしぎやふしぎスイスイ、クルクル走りだすというもの。他に「サワガニ」「ヤドカリ」「色つきヒヨコ」「カメ」などの動物などなど、学校帰りの一時を物売りのおじさんを囲んで、キャッキャッ、ワイワイと楽しかった。

 休みの時は母と、父が都合の良いときは両親とともに、近くの公園で遊ぶことが多かった。八木山、野草園、西公園、榴ヶ岡公園、仙台城址、広瀬川の河原、県庁前の広場、夏にはモーターボートをチャーターして松島の桂島に海水浴にも行った。
お弁当を持って出かける場所は沢山あった。七夕祭りや広瀬川での花火大会は今ほど豪華ではなかったが、市民のお祭りで、人出は多かった。そんな家族での楽しみができるようになったのも戦後10年という月日のせいだったかも知れない。 
ちなみに、東京タワーが完成するのは1958年(昭和33年)10月14日であるが、この年の8月には一家は仙台市を離れ、気仙沼市での新しい生活が始っていた。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

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