きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(26)・TVドラマ「お母さんの骨をもらって歩けた」

2010年09月23日 | 思い出探し
 西多賀ベッドスクールの病室(教室)は6人部屋で、同室の患者がつまりは同級生である。
授業の時には、隣りの部屋(女子)との仕切りを移動させて大きな部屋にし、肺結核で歩ける子や、カリエスでも歩行が可能な子、あるいは当時は少数であった筋ジストロフィーの子は車椅子で、さらにはベッドごと、この部屋に移動してきて授業を受けた。

ここには4~5人の教師が常駐しており、ほかに生活指導の先生などがいた。
当時中学2年生は12~13人であったと思う。
とにかくベッドの上だけで過ごす長い1日の中で、この授業時間だけが楽しくて、ともすれば先行きの不安などを覚える毎日の単調な生活の中では、毎日勉強ができるということが大きな救いであった。

僕が入院してから程なく、同室のK君のことがテレビドラマになって放映されると言う話で持ちきりとなった。
このベッドスクールの設立には、療養所の所長、K君のご両親、設立前から個人的に子供達に勉強を教えていた患者さん(患者先生と呼ばれていた)などのほか多くの人たちの尽力があった訳だが、そのK君のお母さんが執筆した「お母さんの骨をもらって歩けた。」という本を原作に作られたテレビドラマで、なんとお母さん役が山本富士子、お父さんが北村一夫という豪華キャストであった。

放映当日の夜は、患者みんなでテレビ(勿論白黒)の前に集まってドラマを観賞した。
母の子に対する愛情と献身、苦難の闘病生活、ベッドスクール設立までの努力・・・と感動のドラマだった。
しかし、同室のK君がモデルというあまりにリアルな状況と、そのK君のその時の状態は、脊椎カリエスの後遺症で下半身両側麻痺となっており、装具を付けてのリハビリを未だ必死で続けていて・・・、その現実はドラマほどハッピーではなく思えて、ドラマを見終わった僕には、口にこそ出さなかったが、「僕はあんなふうにはならないぞ。絶対に病気を完治させるぞ。」という変な闘志が湧いてきたのを覚えている。

昭和38年、秋のことでした。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>