きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(5)・母

2010年09月16日 | 思い出探し

母と私(抱かれている)と兄。昭和25年正月か。

母は優しく、美しく、賢く、頑張り屋で、私には理想の母親像として心に残っている。

理想の女性像といって良いかもしれないが、これは私が両親とともに暮らせたのが、私が腰椎カリエスを患い、家から遠く離れたサナトリウムに中学2年生の夏に入院するまでの13年間という短い期間だったこともあり、そのため心の中である意味で理想化されたためでもあろう。

残念なことに、少女時代に患ったリウマチ熱の後遺症で心臓が弱かった母は、正月に子供をつれて帰省した私たち夫婦をいつもと変わらず元気に迎えてくれた翌月に58歳で急死してしまうのであるが、当時33歳の私にとってはまさに人生最大のショックであった。母が死ぬなんてことは全く考えていなかったから・・・。

母は、王子製紙の社員で樺太(おそらく泊居の工場と思うが)の工場に勤めていた祖父の次女として大正14年に生まれた。姉が1人、弟が3人である。当時は社員(ホワイトカラー)と職工(ブルーカラー)とでは厳然とした格差があったようで、母は社員様のお嬢さんとして良い環境で何不自由なく育ったようだ。

仙台市の女学校に内地留学し、卒業後10代で泊居の小学校で代用教員をしていたそうだが、女学校時代の写真には健康的で目の大きい可愛い少女が写っている。祖父も背はそんなに高くはないがガッチリした体をした目の大きな美男子で、なにしろ母の弟の一人が戦後日大の学生だった時に、映画俳優を目指して長谷川一夫に弟子入りしようとしたくらいであり、他の姉、弟も皆美男美女であったから、家系なのであろう。
その血筋は私の兄にも引き継がれて・・・。残念ながら私は父親似だそうで、後年 父の葬儀に参列した父の小学校時代からの友人の方に「父親にそっくりだあ~!。」と何度も言われたのを覚えている。

少女時代はノルディックスキー(距離競技)の選手で、樺太の大会で活躍したほど健康だったが、リウマチ熱を患い、多くの人がそうであるように心臓に後遺症を残したためか、私の記憶にある母は色白で細面のもの静かな人であったが、友達を作るのが上手な明るい人であった。

代用教員をしている時に、戦地から帰還し営林署に勤務していた父と見合い結婚をしたのである。
すぐに敗戦、ソ連の赤軍の侵攻、樺太からの引き上げ、出産と2~3年間に様々なできごとが起きたが、その後も父の仕事の関係での数多くの転居や父の闘病生活や私の闘病生活などなど・・・次々と起こる一家の大事にも一家を守り、苦労ばかりの人生だったと思う。それに報いることもできずに早世してしまい、今でも思い出すたびに心苦しくなるのである。

母についてはこの後の私の生い立ちの記載の中で書いていきたいと思っている。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

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