きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(31)・初めての手術

2010年09月30日 | 思い出探し
入院した夏から秋へ、秋から冬へ、季節は巡ってもベッドのなかから見える窓越しの景色からは季節の変化はさほど感じられず、単調な毎日が続いていた。

国立西多賀療養所・ベッドスクールで寝たままの正月を迎えてしばらくして、やっと手術の日取りが決まった。

これまで、ギプスに固定された寝たきりのままで、抗生物質(ストレプトマイシン)の注射とパスを飲むだけの、治療と言うよりはとにかく安静の療養生活が数ヶ月続いて、飽きてきたというより、先行きに不安を覚えていた僕は、これでやっと回復できる、気仙沼に戻れる、という期待が膨らんだ。

ただし、この間に股関節の手術を受けた隣り部屋の女子が手術中にショック死したことがあり、その時は看護婦さんが廊下をばたばた走り回り、また若い看護婦さん達が泣き崩れていたりで・・・そんなことも頭をよぎって、期待と同時に、自分だってもしもということがある訳で、死ぬことがとても怖かった。

手術の前日から、絶食となり、夜には下剤も飲まされて、朝まで何度か下痢をして当日の朝を迎えた。夜が明けると決められた段取りにしたがって作業が進んで、何も考える暇もなくあっという間にストレッチャーに乗せられた。

まず、レントゲン室で腰に局所麻酔を打たれて、なにかクギ状のものをハンマーで打ち込まれた。
それが骨に当たるたびに頭までガンガン衝撃がきて、幸い痛みは感じない。
それが刺さった状態でレントゲン撮影し、何のことは無いこのクギが手術をするときのマーカーになったようだ。

うつ伏せのままストレッチャーで手術室に移動し、手術台にうつ伏せに乗せられて、背中に白い布が被せられて、周りには何人か医師と看護婦さんがいたが、僕には彼らの足しか見えなくて、頭の上にいる婦長さんだけがいつもの優しい声で「大丈夫だからね。怖くないからね・・・大丈夫だからね。」と励ましてくれた。僕はただ「早く、無事に終わりますように。」と祈るだけだった。

手術は局所麻酔で行われたため、一部始終は身体と耳で分かった。
メスで切られた感覚は無かったが、ノミとハンマーのようなもので骨を削っていく作業の時だけは、身体全体への衝撃とカンカン、ガンガン、ゴリゴリの音が聞こえて、辛くて、怖くて、ずっと婦長さんの手を握り締めていた。
腰椎の破壊された部分を削りとって、腰椎の3番と4番を固定するというのが、手術の内容で、何を使って固定したんですか、と後日医師に聞いたら、「豚の骨」といって笑っていた。そんなこと有るはずがないが・・・。

手術は3時間ほどで終わった。終わり近くには麻酔がきれて来て、傷口を縫われる時の痛さは並み大抵ではなかったが、医師は「もうすぐ終わるから、我慢して」と言うだけで、この時間が長かった。
ストレッチャーの上のギプスに戻され、運ばれてそのままベッドに寝かされた時には、痛みもほとんど無く、手術後だけに出される慣例になっていた夕食のお子様ランチ風の特別食もおいしくいただいて、「なあ~んだ手術もたいした事無いなあ・・・。」などと思っていたのはここまでで、元気な僕を見て安心した両親が帰った後の、夜はまさに地獄であった。

鎮痛剤は2時間ほどしか効かず、薬が切れてきたときの痛みは、傷口が裂けてしまったのではと思うほどで、看護婦さんを呼んでも特に何かをしてくれる訳でもなく、医師に来てもらって「出血していないから安心しなさい。」の一言で少しは落ち着いたが、痛みが無くなる訳でもなく、その夜はまんじりすることもなく夜明けを迎えてしまった。
次の日も痛みで身体を動かすことができない状態が続き、食欲も全く無かった。

3日目の朝、目覚めると昨夜までの苦しみがなんだったのかと思うほど、痛みが全く無くなっていた。思わず鼻歌が出るほどうきうきした気分になってしまう自分が不思議だった。この日の朝食はいつもと同じであったが、入院してから一番おいしかった。
1週間後に抜糸をしたが、この時がまた快感で、それまで痛みは無くても、何か重苦しい感じが傷口にあったのが、抜糸される毎に霧散していき、アルコール綿で消毒された時などはサーと涼風が背中を吹きぬける感じだった。
これからまた寝たきりの生活がしばらく続き、梅雨明けの頃から徐々に歩行訓練が始ることになる。

昭和39年2月、14歳。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(30)・ダラスの金曜日

2010年09月28日 | 思い出探し
 入院して4ヶ月ほど過ぎた1963年(昭和38年)11月22日は忘れられない。

 この時、日米間の通信回線が初めて引かれて、日米でテレビの同時中継が可能となった訳であるが、そんなことより、番組の予定を変更して第一番の中継で入ってきたのが「ケネディ大統領暗殺」の報であり、これにはビックリした。

 病院でも、みんなテレビの前から離れられずに、その成り行きを見守ったが、同日狙撃犯のオズワルドが逮捕され、2日後に今度はオズワルドがジャック・ルビーに公衆の面前で射殺されるという、まるで映画を見ているような展開に驚いた。
 その後に続く葬儀の模様なども次々にリアルタイムで報道され、しばらくの間はベッドの上でテレビにクギづけ状態だったのを覚えている。

 その後、事件の顛末を速報的にまとめた「ダラスの金曜日」という本を年が明けてからすぐに買った。
その本にも当時の写真が載っていて、その中でもオズワルド射殺の発砲の瞬間の写真が強く印象に残っている。
撃たれた腹を押さえたオズワルドより、実はオズワルドの隣りで驚きで仰け反って目をむいているFBI(保安官?)がスーツとネクタイにテンガロンハットを被っているということの方に妙な違和感を感じて、アメリカって進んでいるのか遅れているのか、なんか分からない国だなと思ったことが今でも思い出される。

思い出探し(29)・singular ? plural ?

2010年09月25日 | 思い出探し
 西多賀ベッドスクールは、国立療養所の中に中学校があって、子供達が病気療養しながら勉強することができる、当時全国でもまれな施設であった。

昭和38年に、僕が入院してすぐに、このベッドスクールが舞台の山本富士子と北村一夫主演のテレビドラマ「お母さんの骨をもらって歩けた」が放映され、それから一層見学者が増加した。

 授業中や放課後に、ぞろぞろ列を作って廊下を通りながら、ベッドの上の僕たちを好奇の目や憐れむような目(と当時の僕には思えた)でジロジロ見ていく見学者達に、イライラがつのった挙句、見学をさせないで欲しいと先生に訴えたことがあったが、先生から「こんな学校が増えていくためには、多くの人たちに現状を知ってもらう必要がある。その為の見学なので、我慢して欲しい。」と諭され、「見られる患者の身にもなって欲しい」と反論したかったが、できなかった。
見学する側もされる側も何か気まずい雰囲気があったのは、そこが病院であるからで・・・致し方ないことである。

 窓から覗き込むようにして通り過ぎていく見学者達とは別に、毎週末や夏休みには様々な人達が慰問やボランティアで病棟を訪れていた。
私が入院していた1年間の間でも、全日本プロレスの外人レスラー達、宮城県立第一女子高等学校(一女高)の合唱部や東北学院大のグリークラブの皆さん、などは特に記憶に残っている。病室から東北放送ラジオの生中継(音楽のリクエスト番組)などもあった。

 その中でも、東北学院大学セツルメント会のボランティア活動の学生さんが良く訪問していた。病院の中庭にプールを作ったり、裏山に車椅子でも行ける遊歩道やアーチェリー場を作ったり、大学の夏休みを利用して、大汗をかきながら土木作業をしている学生さんたち(お兄さん達といった方が良い)がいて、作業の合間に子供達と遊んだり、交流も盛んだった。
現在でもセツルメント会と西多賀ベッドスクールとの交流はしっかり続いている。

 忘れてならないのが、東北学院大学、英文科4年生のUさん。
毎週のように病室に訪れて、皆を集めて学習塾のような形で英語を教えていた。
色白の痩せ型で、スリッパをつっかけて小走りで歩く姿や、甲高い大きな声で話す、ちょっとオネエがかった話し方も、何となく女性的だったが、授業は厳しくて、singular?(単数形は?)、plural?(複数形は?)などと甲高い声で質問されると、ピリピリ緊張したものである。
 今までいた中学校の英語の授業とは違って、なんかレベルの高い勉強をしているようで、面白かった。なにしろ、中学2年の教科書にディケンズの小説「デビッド・カパーフィールド」を使っていたのだから・・・僕が洋書を買ったのはこれが初めてだった。おかげで英語の読解力が上がったせいで、退院後に戻った中学校でも、英語は得意科目になっていた。

 なにしろ元気が良くて、指導に熱心で、「僕の好きな先生~」だったが、他の生徒達にも慕われ、看護婦さんたちにも人気があった。
翌年、静岡県の高校の教師になって、仙台を去ったが、僕が退院する直前に、夏休みを利用してベッドスクールに来られた時がU先生にお会いした最後で、今は70歳前後になっているはずだが、ずっと御無沙汰のままである。
お元気でいることをただ祈るだけである。あらためて感謝いたします。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(28)・気仙沼の竹スキー

2010年09月24日 | 思い出探し
チョット年代が遡るが、急に思い出したので、竹スキーのことについて書いてみます。

少年期を過ごした気仙沼の冬の思い出は、田んぼで滑ったスケートと山やちょっとした坂道で遊んだ竹スキーです。特に太平洋に面して北に位置する割には雪が少ない気仙沼では、10~20cmの積雪やそれが押し固められた道路に竹スキーが最適で、よく遊んだのを覚えています。

竹スキーなるものは全国にあるようですが、形態はそれぞれ特徴があって異なるようです。
気仙沼のはちょっと独特で、なかなか良くできていました。今は道路でそんなもので遊んでいたら危険で、禁止されているのでしょうが、まだ車も少ない、馬車で荷物を運んでいたりもした当時は全く問題ではありませんでした。

そもそも気仙沼は漁港で、当時は「東洋一の魚市場」などといわれていたものでした(今でもそう言っているかは分からないが)。
サンマの水揚げもたしか日本一ではなかったかと思います。当然、魚を運搬する入れ物が必要なわけですが、当時の主流は竹篭だったのです。ということで街中には何件かの竹細工屋(竹篭以外にいろいろなものを作っていた)があり、子供達は雪が降ると小銭を手に竹細工屋に出かけていって、その場で竹スキーを作ってもらっていました。「竹スキーください」というと、おじさんたちは「はいよ」と、仕事の手を休めて、すぐにサッサッと作ってくれたものでしたが、その作っているのを眺めるのがまた楽しみでした。

 作り方
1、節の間隔が足の大きさ(長さ)の倍くらいで4~5cm径の青竹を選ぶ。青竹でないと作れません。
2、節の手前と次の節の手前の二箇所を鋸で切断し、つまり片側に節があり、他方に節のない竹筒を作り、これを鉈で縦に二つに割る。
3、節の無い側から1.5~2cm幅となるように、反対側の節から6~10cmのところまで短冊状に斬り割りを入れる。
4、節に近い斬り割りの端の部分を火であぶり(当時は作業場の中のストーブを用いていた)、適当にあぶったら、両端をやけどをしないように雑巾で持ったまま、斬り割りの端の部分で二つに曲げ(これで短冊上の部分が平らになる)そのままの形を保持したまま水にジューッとつけて、冷ます。
5、充分に冷めたら、出来上がり。つま先側に節がついてそり上がった部分と、足で踏まれる平らな部分がついた竹スキーの出来上がり。

 坂の上に2個のスキーを平行に並べ、長靴を履いた片足を載せ、次に慎重に他の足を別のスキーの上に載せたら、すり足で前に進んで、後は滑り降りるに任せます。ショートスキーよりさらに短い、マイクロスキーで、長靴とスキーは固定されていないので、慣れるまでちょっと大変ですが、滑りながらすり足で方向をかえることもできました。
子供達はみな上手でした。
昭和30年代の話です。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(27)・チキンラーメンの味

2010年09月24日 | 思い出探し
西多賀ベッドスクールは仙台市の郊外にあり、病気療養をしながら中学校の授業が受けられる国立の療養所である。

私が入院していた昭和38年当時は肺結核と脊椎カリエスの患者さん(子供達)が多くて、筋ジストロフィーや骨髄炎の患者さんも少数在学していた。
結核が国民病であった時代である。
現在は肺結核やカリエスは少数となり、主体は筋ジストロフィーの生徒に移行しているようだ。

当時のクラスの仲間は皆仲が良かった。
それぞれ親元を離れて、長期療養している身であれば、その辛さや寂しさ、健常者に対するコンプレックスなどを共有していて、不自由な病院生活の中でも、協力し合いながら闘病生活を送っていた。
歩ける子は歩けない子の面倒をよく見たし、特に女の子達はみんな優しくて面倒見が良かった。
所長が父親、婦長さんが母親のような存在で、看護婦さんの中には学校出たての準看護婦さんもいて、自分達と年齢もそんなには変わらず、お姉さんみたいな感じであった。
子供達はけんかをしたり、遊んだり、いたずらしたり、まるで病院全体がが1つの家族のような生活を送っていた。

病院の食事は何処でもそうであるが、通常よりはかなり早い時間に食べることになっている。
特に夕食の時間は早くて、5時ごろからであったろうか。消灯は8時か9時だったと思うが、当然ながらすぐに寝る子はいなくて、消灯後はラジオを聞いたり、病室の子どうしで話をしたり、他の部屋に出かけたり、廊下で鬼ごっこしている子もいたりで、巡回してくる看護婦さんに見つかっては怒られていた。

当然、早く食べた夕飯が寝るまでもつ訳は無い。
お腹が減ってきて、ごそごそ、がさがささせながらベッドの中でお菓子を食べたりしていたが、当時は「日清のチキンラーメン」が発売されてまもなくで、このインスタントラーメンには大分お世話になった。

入院患者のシーツ、パジャマ、衣服などを消毒するために、病棟のリネン室には蒸気や熱湯がいつも準備されていて、お湯を注ぐだけで食べられるインスタントラーメンは恰好の夜食となった。
僕のような寝たきりの子の分は、歩ける子が看護婦さんの目を盗んでは作ってくれた。
丼なんてものは持っていなかった僕は、お絞りを入れておくプラスチック製の丸い透明な容器をもっぱら利用した。
それにはチキンラーメンが丸ごと1つは入らず、いつももがしゃがしゃと半割りにして、半分だけ食べていた。

忍者さながらに、廊下の暗闇にまぎれて、すばやくリネン室からもどってくる友達の手の内の美味しそうなラーメンも、残念ながらプラスチックの容器では、お湯はすぐに冷めてしまって、結果、いつもモソモソしたラーメンを食べるはめになったのだが、薄味の病院食になれた舌には刺激的なしょっぱさのモソモソ・チキンラーメンはいつも物凄く美味しかった。

現在のインスタント・ラーメンは、あの、ただただしょっぱい醤油味のチキンラーメンの味とは雲泥の差であるが、食べるとあの時のあの懐かしい味をいつも思い出してしまう。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(26)・TVドラマ「お母さんの骨をもらって歩けた」

2010年09月23日 | 思い出探し
 西多賀ベッドスクールの病室(教室)は6人部屋で、同室の患者がつまりは同級生である。
授業の時には、隣りの部屋(女子)との仕切りを移動させて大きな部屋にし、肺結核で歩ける子や、カリエスでも歩行が可能な子、あるいは当時は少数であった筋ジストロフィーの子は車椅子で、さらにはベッドごと、この部屋に移動してきて授業を受けた。

ここには4~5人の教師が常駐しており、ほかに生活指導の先生などがいた。
当時中学2年生は12~13人であったと思う。
とにかくベッドの上だけで過ごす長い1日の中で、この授業時間だけが楽しくて、ともすれば先行きの不安などを覚える毎日の単調な生活の中では、毎日勉強ができるということが大きな救いであった。

僕が入院してから程なく、同室のK君のことがテレビドラマになって放映されると言う話で持ちきりとなった。
このベッドスクールの設立には、療養所の所長、K君のご両親、設立前から個人的に子供達に勉強を教えていた患者さん(患者先生と呼ばれていた)などのほか多くの人たちの尽力があった訳だが、そのK君のお母さんが執筆した「お母さんの骨をもらって歩けた。」という本を原作に作られたテレビドラマで、なんとお母さん役が山本富士子、お父さんが北村一夫という豪華キャストであった。

放映当日の夜は、患者みんなでテレビ(勿論白黒)の前に集まってドラマを観賞した。
母の子に対する愛情と献身、苦難の闘病生活、ベッドスクール設立までの努力・・・と感動のドラマだった。
しかし、同室のK君がモデルというあまりにリアルな状況と、そのK君のその時の状態は、脊椎カリエスの後遺症で下半身両側麻痺となっており、装具を付けてのリハビリを未だ必死で続けていて・・・、その現実はドラマほどハッピーではなく思えて、ドラマを見終わった僕には、口にこそ出さなかったが、「僕はあんなふうにはならないぞ。絶対に病気を完治させるぞ。」という変な闘志が湧いてきたのを覚えている。

昭和38年、秋のことでした。

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思い出探し(25)・寝たきりの生活・1963・夏

2010年09月21日 | 思い出探し
写真;母の見舞いを受ける入院直後の僕、13歳。昭和38年夏。

付き添いの母が帰った後の2、3日は何もすることが無くベッドでごろごろして過ごした。

「はい、上を全部脱いで」という医師の指示でパンツ1枚になった僕の身体を見て、付き添っていた若い看護婦さんが「すごい身体ネ~」、「腹筋がすごい~」などと騒ぐものだから、周りの看護婦さんたちも集まってきて、「何のスポーツしていたの?」、「力入れてみて?」などと言いながらお腹に触ったりして、中学2年生の僕は恥ずかしく思いながら、反面チョッと自慢でもあって、「機械体操です」などと小さな声で答えながら、思わず全身の筋肉に力をいれてみたりして・・・。
中学生のくせにマッチョなのも当然で、何しろチョッと前まで体操競技の選手だったのだからネ。

 国立西多賀療養所のベッドスクールに入院してくる子供達のほとんどは、脊骨が変形していたり、足の長さが違っていたり、それまでに他で何度か手術をしていたり、下半身麻痺だったりと、かなり長い病歴と重い症状を持っているのが普通で、僕のように外見上は全く病気とは見えない子が入院してくるのは珍しかった訳だが、腰椎カリエスがこんなに早期に発見できたのも、体操競技をしていたからで、激しい練習の中で異常が発見できたわけで、普通の生活をしていただけでは、病気の発見はずっと遅くなったであろう。
ただし、激しい練習もこの病気の原因の一つであるから、なんとなく複雑な気持ちではあるが・・・。


 「はい、真っ直ぐ立って、万歳して上のバーにつかまって。そのまま動かないで。」・・・後は医師が慣れた手つきで、ギプス用の包帯で頚の付け根から尾骶骨までの間をぐるぐる巻きにして、巻かれた包帯はすぐにカチンカチンに固まって、西洋の鎧を着たような、というよりは甲羅から頭と手足を出した亀の子一匹できあがりと言ったほうが合っていて・・・。

 片足にギプスを巻かれただけでも往生するのに、これはいったいなんなんだ!!!、と思ったが、続いて 両脇をギプスカッターでウイーンと縦に切って、腹側と背中側の2つに分割して、背中側のみ使用して、これをベッドに敷いて、それに背中からお尻までピッタリはまり込む形に寝るのだそうだ。

 なあ~んだ、それなら何とかなると一安心したのもつかの間、これをベッドに敷いて実際に寝てみると、自分の身体から造った雌型なのに、なんか合わない。
 すごい違和感を覚えて、それも当然で、立位での脊柱の彎曲具合と、仰向けに寝た時の自然の彎曲具合は異なっていて、ギプスは立位での脊柱の彎曲を維持させるためのものだから、つまり立った姿勢のままで寝なければならないということに違和感を覚えないはずが無い。

 「動くと骨が崩れてしまうから、絶対動かないように。」という医者の言葉に忠実に従って、理想的な患者になったのも、人生で最大のピンチから少しでも早く脱出したいためだったが、以後、食事も排泄も、歯磨きも、洗面も、勉強も、この亀の甲羅に収まって、ひっくり返った亀の状態で行うことになり・・・それはきっちり丸1年間続くことになる。
今の年齢の自分には1年間なんてあっという間に過ぎるわけだが、中学生にはとっては正に気の遠くなるような長さに思えた。

 進化の過程で2足歩行となったヒトが1年間寝ていると、身体にどんな変化が起きてくるか?、医学的に言う退行性変性がどんな形で起きるか?
また、再び2足歩行に戻るまでに、どんなに苦労するか?、については、また別の機会に・・・。

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思い出探し(24)・カリエスそして西多賀ベッドスクール

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;当時の国立西多賀療養所の全景。

夏になると毎年思い出す中学時代の苦い思い出・・・その後の私の生き方に大きく影響を与えた、忘れられない事件。

話は、中学校体育連盟主催体操競技の本吉地方大会で個人総合優勝した直後から始る。



中学校2年生の夏である。
ミンミンと蝉の声がうるさい坂道を登って毎朝の体育館通いが続いていた。
仙台市で開催される中体連主催体操競技の県大会が目前に迫っていて、皆汗だくで必死で練習した。
たまにある、父兄や先輩からのスイカの差し入れなどがものすごく美味しかった。

私は、苦手な鉄棒の点数を少しでも上げようと、車輪や前方宙返り降りの技を繰り返し練習していたのだが、何となく身体全体がだるくて、今ひとつ腰に力が入らない状態が地方大会の前からあって、思うように技が上達しないのが気になっていた。
それでも、毎夕練習後に膝をがくがくさせながら坂を降り、家のトイレでしゃがむのも侭ならないほどの大腿部や全身の筋肉痛の方が強くて、腰の重だるさにはそれほど注意が向かなかった。

腰の重だるい感じは日増しに強くなって、座っていても腰がだるくて、家でもついつい横になってしまうことに異常を感じた母の「掛かりつけの内科の先生に一度みてもらいなさい。」の言葉に、すなおに従ったのも、自分でも「これはチョッとおかしいな。」という思いがあったからである。

小学校の時からたびたびお世話になっていた診療所で腰部のレントゲン撮影や血沈などの検査を受けた後、医師から、これも手の怪我などで何度か通ったことのある近所の整形外科で精密検査を受けるよう指示があり、すぐにそちらに行って、同じような検査をしてもらった。
診断結果は「腰椎カリエス(腰部結核性脊椎炎)の疑いがある」と言うもので、「骨が崩れてしまう」病気であるという言葉だけがやけに気になったが、当時は「カリエス」などという病気のことなど知るはずも無く、怪我をした時のように痛いという訳でもなく、数日間家で安静にしている間も、体操部の仲間が顔をみせても、顧問の先生が見舞いに来られても、自分が病気であるということがまだピンとこなくて、ただただじっとしていなければならない身体とイライラする気持ちを持て余していた。

その間、両親は医師や学校の先生などといろいろ相談していたのだろうが、気仙沼からは少し遠い、仙台市にある国立西多賀療養所で精密検査を受けることになった。
両親は、父が結核を患ったこともあり、カリエスがどんな病気かも、治療に長期入院が必要であろうことも考えて、中学校の分校があるこの療養所を選んだものと思う。
両親のこの即断、即決に対しては未だに感謝している。
この療養所は、肺結核やカリエスの子供達が病気療養とともに中学校の授業が受けられる、当時は全国でも希な療養所で、「西多賀ベッドスクール」と呼ばれていたが、一般にはまだあまり知られていなかった。

療養所は、仙台市から秋保街道を下った郊外の緑豊かな山の中にあった。
レントゲン写真を撮ったり、いろいろ検査をうけた結果、医師はさらりと「即、入院しましょう」と言ったた。
ある程度覚悟はしていたものの、「入院」という言葉にかなりショックを受けたのは確かで、両親が医師といろいろ話をしている間、薄暗い廊下の長椅子にすわって待っている間、初めて涙がポロポロこぼれた。
悲しいとか、不安だとかではなく、「なんで僕が病気になるんだ」、「なんで僕なんだ・・・」、とただただ悔しくて流した「悔し涙」だった。

隣りに座った看護婦さんが、私の背中を撫ぜながら、なぐさめや励ましの言葉をかけてくれたが、そんな優しさを感じる余裕は無くて・・・、そんな言葉をかけられることが、また悔しくて・・・私はただ黙って俯いて、涙だけがポロポロこぼれて何時までも止まらなかった。

こんなに涙を流したのは、この時と後年母が亡くなった時だけである。

昭和38年7月、13歳の暑い夏のことだった。

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思い出探し(23)・気仙沼中学校体操部

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;
昭和38年夏、気仙沼中学校体操部、最後列向って左端が2年生の私。痩せているけど、結構腹筋は割れていたのです

 昭和37年(1962年)気仙沼中学校に入学し、すぐに体操部に入部した。
小学生の時から運動は得意な方で、中学でどの部に入ろうか悩んだが、ユニフォームがなんとなくオシャレな感じがして、中学校の出来たばかりの体育館も、世間で良く見るかまぼこ型のそれではなく、正方形の洒落たデザインのコンクリート製の立派なもので、設備や器具も充実していたからだが、当時はオリンピックでも体操競技で日本は大活躍していたりして、「体操日本の将来を担うぞ!」・・・などという大層な思いも多少はあったりして・・・。

 ちなみに、体育館完成の折には、たしかテレビの何かのショー番組の公開録画があり、当時人気があったコメディアンの伴淳三郎(ばんじゅん)などが出演したりして、町全体で祝ったものである。

 新人の練習はきつかった!。
なりたて中学生の体は全然体操用に出来ていなくて、毎日毎日筋トレにあけくれて、それでも夏休み前には、床でのバク転、バク中や鉄棒の基本技もそれなりに出来るようになっていて、手はマメでがちがちで、腹筋も割れてきて、多少は体操選手らしい体になってきていたのでした。
放課後に暗くなるまで練習し、膝をがくがくさせながら坂道を降りて家路に着く毎日で、家ではバタンキューだったが、結構学校の成績は良く、父からは「文武両道が大切」と言われたが、とにかく何につけても負けたくなかったのは確かである。

 2年生の夏に行われた中学校体育連盟本吉地方大会で個人総合優勝するのだが、その直後に「腰椎カリエス」となり、1年間の闘病生活に入ることになってしまうが、この当時はまだ知る由もなかった。

思い出探し(22)・はじめての北海道

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;支笏湖の湖畔にて・・・今見ると、日活映画か児童映画の宣伝用スチール写真みたい・・・「太陽の季節」?・・・みたいな、そんな気分でいたのか、みんなやけに気取ってポーズをとっている。私5年生、兄と従兄弟は中学1年生。昭和34年。

 札幌で開かれた女学校の同窓会に初めて出席する母のお供で、兄と私は生まれて初めて北海道に旅した。気仙沼を出発して、チョッとわき道にそれる形で秋田の脳卒中で自宅療養中の祖父を見舞った。
 祖父に会うのは10年振りくらいだったろうか、片麻痺で言葉が不自由ではあったが、とても喜んでくれた。秋田に住んでいる母方の親戚とも会い、従兄弟たちとも久しぶりに顔を合わせたが、初めて見る顔もあった。

青森までは蒸気機関車の引く列車に乗った。
乗客も少ないため私たち兄弟は車内を独占して遊びまわった。
 手動で開けられる(今では想像できないが)デッキのドアを勝手に開けてちり紙を飛ばし、列車に沿って後方に飛んで来るちり紙を、後ろの開けた窓からもう一人が体を乗り出してキャッチするなどという、今思えば恐ろしい遊びに熱中した。なんかこんなことは鮮明に覚えているから不思議だ。
青森に着く頃には鼻の穴から目の周りまで機関車の出す煤で真っ黒になってしまった。青森からは青函連絡船「十和田丸」に乗って函館へ、そこからまた列車で札幌へ。

 札幌には母の姉が暮らしていて、そこで何日間か泊めてもらった。
母が同窓会にでている間はいとこ達と遊んで過ごした。いとこは兄より年上の女の子(写真に写っている賢そうな美人)と、兄と同い年の男の子がいて、北大のプールで泳いだり(これが緑色をした水の物凄く汚いプールで、良くこんなプールで泳げるなあと思ったのだが)、片平川でヤツメウナギを採ったり(従兄弟が言いだしっぺだったが、結局一匹も捕れなかったのだが)した。



写真で私はなんかおしゃれな服を着ているが、これは母の手作りである。
女学校の家政科だったせいか(と思うのだが)母は和裁、洋裁、編み物が上手で、当時はどの家でもそうだったのかもしれないが、セーターをはじめとして私の着るものの多くは母の手作りだった。もちろん兄のお下がりも多かったのだが。

 同窓会の後の1日、皆で支笏湖まで遊びに行った。
こんな大きな湖を見たのは生まれて初めてだった。「支笏湖はすごく深くて、水も冷たいので、おぼれ死んだら、死体は浮き上がってこないんだそうだ・・・」などと、いとこが遊覧船の中で話したので、想像力の豊かな私は水底に沈んで水面を見上げている死体の群れを想像して、恐ろしくなったものである。
家に帰ってからも、そんな夢を何度かは見たような気がする。

思い出探し(21)・崖から転落

2010年09月20日 | 思い出探し
確か小学校5年生だと思うが、気仙沼の家の前の山で例によって近所の悪童達と遊んでいた時、崖から転落するという事件を起こしてしまった。

 山は段々畑になっていて、夏にはバライチゴ、春にはバッケ(フキノトウ)などが畑の畦に生えて、そんなのを採ったりした場所だが、男の子達にはもっぱらチャンバラなどして駆け回るフィールドとなっていた。

 その日も、山の上の方から皆で速さを競うようにして、段々畑を飛び降り飛び降りしながら駆け下りてきたのだが、私は勢いがつき過ぎて下の狭い道で止まれずそのまま道幅を飛び越してしまった。
 その道は切り立った崖の上にあって、崖の高さは7~8mはあったから、私はもんどりうって落下したわけである。
 前のめりになって崖から落ちる!・・・までは、しっかり目を開いていたようで、崖下が見えたところまでは記憶に残っているが後は目の前は暗転して、そのまま背中からスーと下に落ちる感覚があって、これが結構長い時間に感じられて・・・突然、それまで経験したことがない強さで背中全体をドカンと叩かれて、丸まっていた体が瞬間的に大の字に開かされた感じになって、息が詰まって・・・気絶してしまったようだ。

 どれだけ伸びていたのかは分からないが、目をさますと側に母がいて、兄がいて、周りに近所の人や悪童達がいて、しばらくは状況が分からなかったが。仰向けで寝ている先に崖の縁が見えて・・・あ~落っこっちゃた・・・、と納得した。
 落ちたところは、瓦礫に覆われていて、崖はほとんど垂直で、私は勢い良く前に飛び出したため、そのまま真っ直ぐに地面に落下したようだ。友達は声を掛けても応答しない私を見て、てっきり死んだと思って、青くなって走って母に知らせたらしい。

 幸いにして、しばらく休んでいたら何とか手足も動くようで、母に助けられながら歩いて家に帰った。
 家に帰ってすぐ、着の身着のままで寝かされて、「痛いところは無いか?」「具合はわるくないか」「良く助かった!」とか、一杯心配され、「大丈夫、大丈夫、なんともない・・・」などと言っていたが、しばらく経つうちに、体のあちこちが痛み出してきて、特に左足の脛の部分が痛いので、ズボンをまくってみたら、なんと脛の半分くらいの長さの切り傷ができていて、だらだらと言う感じで血が出ていた。

 こんな状況で医者にも行かないで済んだのは不幸中の幸いで、赤チンを塗って済ませてしまうのが当時は当たり前だったのかもしれないが、一つ間違えば命を落とすか、歩けなくなったかも知れない訳で、今思えば恐ろしい限りである。
「死ぬ・・・!」と思ったのはこれ以降何度かあるのだが、幸いにして生き延びて、昨年還暦を迎えたのである。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(20)・ホンダ・ドリーム号??

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;
昭和35年ごろかな? 気仙沼の自宅兼父の事務所の前で撮影
ここに写っているオートバイは父の愛用したホンダのドリーム号だと思うのだが・・・?

 気仙沼に来てから、父は仕事でオートバイ(確かホンダのドリーム号だったと記憶しているが)を使うようになっていた。乗用車を買うのはさらに3~4年先のことで、それまでは暑い夏も、凍える冬も、もっぱらこのオートバイに乗って出かけていた。冬には体全体に氷が張ったようになって、がたがた震えながら帰って来たものでした。

 肺結核の手術で片肺が無く、腕もまだ良く上がらない体で、山道をこのオートバイでぶっ飛ばしていたのだから感心するというか、呆れてしまう。
 当時は道路だってまともに舗装されていない時代だし、オートバイだってそんなに走っていませんでした。

思い出探し(19)・安波山からの初日の出

2010年09月20日 | 思い出探し
写真;平成22年7月。同窓会で気仙沼に行き安波山に久しぶりに登る。山頂から市街、気仙沼湾と大島を望む

 

モノクロ写真は昭和40年頃の同じ場所からの風景。一見現在と全く変わらない風景に見えるのだが・・・、2写真を比較して良く見ると湾に面した海岸近くが埋め立てられて、昔に比べて道路が拡幅されたり家が増えているのが分かる。

安波山(あんばやま)は気仙沼市街の北に位置する標高239mの山だ。
山というほどの高さではないが、私が気仙沼に引っ越した昭和30年代半ばには、植林後間もない、子供の背丈程の杉の木に覆われて、道と言える道も無い状態で、子供達には恰好の遊び場所だった。

 夏冬の区別無く、何かにつけてみんなで登って、チャンバラごっこや栗拾い、杉鉄砲での戦争ごっこ、竹スキーやアベック探検(?)・・・と遊んだものだ。また開校記念日や市制記念日など、全校や全市民が登るというような行事もあった。

 気仙沼に引っ越してすぐに近所の子供達に誘われたのは、初日の出を山頂から拝むというものであった。缶詰の空き缶で作ったカンテラに蝋燭をともして、元旦早朝の寒い、暗い、怖い・・・の山登りは、子供達にとってはまさに肝試しでもあった。

 今ではクルマですぐに行けてしまうようだが、当時はちゃんとした登山道がある訳でもなく、獣道みたいな山道をカンテラの薄明かりを頼りに麓から登るのは結構大変だった。途中からは他の道から来た大人たちと合流して少し安心して登れたが・・・。

 山頂に着いてから日の出までの時間を山頂で寒風に吹かれながら待つのがこれまた大変で、今では考えられないが、杉の枯れ枝を集めてきて盛大な焚き火を山頂の広場で始める始末で、杉の枝はめらめらと勢い良く燃え、顔が熱くて側に寄れないほどだったのを覚えている。
 海からの「初日の出」を拝んだのはこれが生まれて初めてだが、その時なにを願ったのかは覚えていない。

 42歳の厄払いの同窓会に参加するため20数年ぶりで気仙沼を訪れた時に、安波山に登ってみようとふと思いたって、福美町から昔の記憶を頼りに登ってみたが、当時子供の背丈ほどだった杉も立派に育って、うっそうとした杉林に覆われた山の何処から登って行けるのかさえ分からず、諦めてしまった。大きく育った杉の木を見て、過ぎ去った年月の長さをあらためて思い知ったのでした。

還暦を過ぎてから毎年おこなわれているクラス会に今年も参加したついでに、天気にも恵まれてやっと安波山の頂上まで登ることができた。
気仙沼湾と大島のバランスの美しさは昔と変わらず、遠景からの町は昔と変わらない風情だったが、良く見れば田圃はずいぶん減ってしまっていた。

思い出探し(18)・気仙沼でのチリ地震津波

2010年09月19日 | 思い出探し
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気仙沼湾奥、平成20年8月、気仙沼魚市場見学デッキからの見晴らし

今日は敬老の日の慶祝事業の一環で横須賀市が毎年行っている「無料マッサージ」が近所の北下浦老人福祉センターで開催され、昨年同様市から委託を受けて1日施術を行って来た。
一人15分間のマッサージを20人、5時間連続でのマッサージは還暦を過ぎた身にはさすがにチョットきついのでは・・・と思われたが、なんてことはない。
自分の体力がまだまだ充分なのを自覚して、元気に今治療院に戻ってきたところであるが、ついでに昨日の続きで過去に書いたブログを整理しようと思った訳だ。

さて、気仙沼での話である・・・
人間を60年もやっていると、大きな事件や災害を何度かは経験することになる。
直接その現場に居合わせる事もあるし、間接的にでも何らかの影響を受けたことで、いつまでも記憶に残っているそれらの事件は、遠い昔のことであっても、自分の当時の学年などとリンクさせて何年の何月頃とすぐに言えるから面白い。

 1960年(昭和35年)5月23日、午前4時11分20秒(日本時間)に有史以来最大規模の地震といわれる「チリ地震」が発生した。地震発生から15分後に約18m高の津波がチリ沿岸部を襲い、約17時間後にハワイを襲い、そして約22時間後の5月24日未明に最大で6m高の津波が三陸海岸沿岸を襲った。結果142名が死亡した。被害が大きかった岩手県大船渡市で53名、宮城県志津川町で41名が死亡した。

 当日、遠くにサイレンが鳴っているような気がして、夢うつつの中でしばらくそののんびりした音を布団の中で丸まったまま聞いていたが、すぐに母に起こされた。「津波警報が出たよ、起きなさい!」。
 外は深夜の2~3時頃で真っ暗だが、数人の大人たちのグループが家の前の広場や道路に集まっており、何か話し声が聞こえたが、あまり切迫した感じは無く・・・何しろ家があった気仙沼市福美町あたりは海から2kmほど離れた場所で、そこまで津波が来る可能性は無くて、子供達の関心はどうやったら昔話に聞いていた「津波」を真近で見ることができるか・・・ということだった。

 両親からは海の近くには行かないように注意を受けたが、子供達は周囲が少し明るくなってくると、もう待ち切れず、いつもの悪童達と一緒に私も気仙沼湾が見晴らせる高台に向かって林の中を駆けていった。このとき私は小学校5年生になったばかりで、兄は中学1年生だった。

 高台のベストポジションに腰掛けて、湾内を眺めたが、いつもとは違う場所に牡蠣筏があったり、小型の漁船が漂ったりしていること以外に湾内には特に変わったことも無く、昔話にあるゴーと押し寄せる津波を期待していた私たちは、「あれ・・・?!」と言う感じで、待てど暮らせど何も起こらない。
 それも当然で、「津波の伝播速度と周期は反比例の関係にあり、太平洋の深い海を渡ってくる波は、スピードが速い代わりに周期は長いのである。」という結構高尚な物理的法則を習うのはもう少し大きくなってからなのだから。

 待つことしばし、「来たぞー!」という声で、また湾に目をこらすと、遠くの方から、牡蠣筏の残骸や、浮きに使う樽などがゆっくりゆっくり流れて来て・・・「なに!これが津波?」と思っていたら、次第に沢山の漂流物が流れて来て、良く見ると小型の漁船も流れて来て、加えて地の底から何かが転がるようなゴロ・ゴロ・ゴロ・ゴロという不気味な音もして、漂流物は遠目に見ても結構早い動きで、しかも見えている湾奥では大きな渦巻きに乗って回っているのが分かった。ザンブリ寄せる津波も恐ろしいが、今見ている津波も静かだけれど、何かすごい自然のパワーを感じて、恐ろしかったのを記憶している。

 当日は、小・中学校とも臨時休校になったため。兄のこぐ自転車の荷台に私が乗って、さっそく港の近くまで探検に出かけた。母もラジオのニュースや人づてに状況を掴んでいたせいか、「気をつけてね。」と言っただけで、なにしろ一生に一度会うかどうかの「津波」なのだから・・・良い経験になると思ったのかどうか・・・。

 港の近くは、舗装されていない道路のくぼみには水溜りがあちこちにできて、その中で小魚が泳いでいるような状況で、たまには道端にカツオが転がっていたりして(これは魚市場から流れてきたもの)、岸壁の際まで行って見ると、潮がすごく引いていて、岸壁から10mほどまで海底が丸見えで、ごつごつした岩だらけで、その潮溜まりには小魚やアメフラシなどもいた。岸壁の側の道路の上には小型の漁船がドンと乗っていて、この場所は船を揚げる場所でもなく、明らかに津波で打ち上げられたもの。
「津波のくる前は、大きく潮が引く。」のは子供でも常識だったから、何波かは知らないが、まだ津波の余波は続いているようで、「海の近くにいちゃだめだ。」と大人には怒られるし、少し怖くなって、内湾の入り口にある高台に移動した。ここは人だかりが多くて、大人も子供も「津波見物」状態だった。
 ここからは何波目かの津波を見た。じわじわと海面が持ち上がって、見ているうちに岸壁の高さを越えて、道路に面した商店の前まで海水に浸り、その内またじわじわと海水が引いてという風で、こう書くとあっという間のようだが、実は恐ろしく長い時間の中でのことであった。
結局、気仙沼では牡蠣筏に大被害が出たものの、人的被害はなかったように記憶している。

続きの話として。
翌朝起きてみると、昨日散々乗り回した父から借りた自転車はリムもチェーンもカバーも赤錆状態で、考えてみればあの水溜まりは全部海水だったわけで・・・おかげで、ワイヤブラシを使っての錆おとしの仕事が待っていたのでした。なぜか、父から怒られた記憶は残っていない。

最近第2回目のチリ地震津波を三浦海岸で経験した。
こちらは騒いだ程は大したことはなかったが、三陸ではまたもや牡蠣筏に被害が出てしまった。
それにつけてもハイチ、メキシコ、沖縄、チリと地震がたて続けに起きていることがとても気になる今日此の頃である。

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思い出探し(17)・番外編・カメラ

2010年09月18日 | 思い出探し
このブログには多くの写真を載せていますが、モノクロの私の少年時代の写真については既にネガが散逸してしまっているため、私のアルバムからデジカメで接写して載せています。写真が不鮮明になってしまって申し訳ありません。
モノクロの写真のほとんどは当時父が愛用していたマミヤV6(写真の左側のカメラ)というカメラで撮られたものです。

今回は、連載内容からチョッと離れて、カメラのことについて・・・・。

最近は常にバッグに入れて持ち歩いているポケット型デジカメが私の愛用のカメラである。
子供の時から写真を写すのが好きで、かといって自分で現像したり、トリミングをしたりするほどには熱中していなかったのですが・・・ 初めてカメラをいじったのは小学生の低学年の頃で、父が持っていたMAMIYA6(写真の左側)という完全マニュアル式で蛇腹がついた、6x6版のフィルムを使う古めかしいカメラで、家族の写真や運動会や何かの行事のときに父に借りて良く写真を撮っていました。
 
 私が大学生の時に偶然にも実家で、使われなくなっていたそのカメラを発見し、当時は一眼レフのニコンFがお気に入りだった父から譲り受けましたが、使ったのは風景のモノクロでの撮影に数回だけでした。 
 当時ではもはや骨董品でしたし、バシャンと開く蛇腹が好きだったので、大事に保管し時々手入れはしていましたが、父が亡くなった今では、形見のような気がして処分もできず、相変わらず時々出してはバシャンと蛇腹を開いたりしています。

 最初の一眼レフはコンタックスで、2台目が結婚してから家族写真をとるために買ったオリンパスNEW OM2で、こちらは交換レンズをあれこれ揃えたり、オートワインダーをつけたりと大分お金を掛けました(写真の右側)。このカメラも今では全く手にすることがなくなり、勿体無いないと思いつつお蔵入りの状態です。

 今はデジカメの時代でフィルム代を気にすることなくバシャバシャ手軽に取れて、軽量小型でとても便利で、後でパソコンで遊べるのも良いですね。
さすがに携帯電話で写真を撮る気にはなれませんので、いつも携帯電話とデジカメを持ち歩いています。今使っているのは、富士フィルムのFinePixA800で、値段が安くて、ずんぐりした形状が手に馴染んで、気に入っています。

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