きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

気仙沼震災写真展(8)

2011年05月27日 | 気仙沼
U君の「気仙沼震災写真展」の続きです

You Tubeにアップされている東日本震災復興曲「美しい日本に戻そう」EIKO歌も聴いてください

You Tubeを開いてタイトルで検索すれば出てきますし、ジャズシンガーEIKOさんのオフィシャルサイトからも聴けますよ

背景の写真はU君が撮ったものです
























<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

美しい日本に戻そう

2011年05月26日 | 気仙沼
「美しい日本に戻そう」という歌がYou Tubeにアップされています

東日本大震災復興曲として、ジャズ・シンガーのEIKOさんが歌っています

優しい旋律と力強い歌詩で、とても良い歌です

背景に使われている画像は気仙沼在住のU君が写したものです

ここのブログでも「気仙沼震災写真展」として掲載しているものです

是非一度歌を聴いてみてください


<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

ミニトマトの不思議

2011年05月26日 | 日々の暮らし
治療院のベランダで育てているミニトマト

順調に育って 実も日に日に大きくなっています

始めにネットで育て方を調べたら、実は同じ方向になるので苗を植え付ける(露地植えの場合は)時には収穫しやすいように植えることとあった

ひょろひょろ伸びて行く茎をみながら、茎も捻じれるだろうし、実が同じ方向に揃うなんてありえないなあ・・・と思っていたが

自然の摂理かトマトの力か、結果としてちゃんと同じ方向を向いて実が付きました

全く不思議です




2鉢(2本)育てています





根元から1段目の房はこんな感じで、まだ青いままです
以降の写真もすべて同じ方向から写しています





2段目、房の形が1段目とは違っていますが生っている方向は同じ





3段目、花がさいています





4段目、つぼみの状態です

なぜ同じ方向に実がなるのでしょうか?
日の射し方などの影響であれば分かりやすいのですが、始め植え付けるとき最初にできたつぼみが向いている方向にそれ以降の成長にしたがって出来る新しい実(蕾、花)が揃うというのは、いったいどんなメカニズムなのでしょうか

不思議、全く不思議?

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気仙沼震災写真展(7)

2011年05月25日 | 気仙沼
先日のニュースで、津波によって気仙沼港の岸壁に打ち上げられた大型鮪延縄船が海に戻されたとの報道があった

この件について、さっそく気仙沼在住のU君が写真を送ってくれたので、日付け順の震災写真を中抜きしてその写真を掲載します

それにしても、クレーン船の大きさに驚きました

















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震災前の気仙沼港の風景・2010年7月

2011年05月21日 | 気仙沼
震災前の気仙沼の姿を思い出したくなりました

昨年クラス会で気仙沼に行った時(2010年7月16日、17日)に私が撮った写真です

この日は東北地方に梅雨明け宣言が出た日で

大汗をかきながら安波山に登ったり、大島の龍舞崎に行ったのを懐かしく思い出します




安波山から気仙沼湾と大島を望む




少年のころ海を見によく来た、内湾にある御神明様と浮見堂




港に面した通りにはレトロな雰囲気の建物が並んでいます 
南町にあったステンドグラスが綺麗でレトロな雰囲気の「喫茶マンボ」も津波で破壊されてしまったのでしょうか




港に停泊している沢山の漁船




東洋一の魚市場といわれた時もありました




内湾にある船着き場は整備されてとても綺麗だったのですが




可愛い魚の絵が描かれたタンクも津波で流されてしまいました




ホヤを肴に冷えたビールが美味かった



これらの風景が今は見られないのが悲しいけれど・・・
きっとまたいつか綺麗な風景が見られるようになるでしょう!
美味しい海の幸が食べられるようになるでしょう!

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気仙沼震災写真展(5)

2011年05月19日 | 気仙沼
息子の体調も大分回復してきた

ほっておくと扁桃腺炎や敗血症を起こして命にかかわるぞ・・・と脅したのが効いて、耳鼻咽喉科に行ってもらった薬が効いたようだ

もうじき5回目の災害派遣があるようで、緊急時とは云えたび重なる出動を少し心配している

治療院の入り口脇のウインドウに被災地の写真を掲示することにした

これで人の目にもより多く触れることになるでしょう








以下の写真は気仙沼在住のU君が撮った写真の続きです






















一昨日は三浦市役所の震災募金担当部署にいって、U君の写真の活用を相談してきた

活用の仕方を考えたいとのことであったので、U君が送ってくれた写真(A4版、70枚ほど)を預けてきた

使えそうであれば、U君名で寄贈するつもりである


<鍼灸マッサージサロン・セラピット>



気仙沼震災写真展(4)

2011年05月17日 | 気仙沼
神奈川県警機動隊の一員として釜石市に出動し、一昨日帰宅した息子が熱を出し、風邪と思っていたのだが、医者で見てもらったところ、喉に潰瘍ができたせいとのことであり、今朝も喉の痛みを訴えている

震災直後から陸前高田に2回、大槌町と釜石市に1回づつの出動で肉体的、精神的ストレスが積み重なったせいなのかも知れません。早く元気になって欲しいものです。

今回も気仙沼在住の友人U君が撮った気仙沼震災写真の続きを掲載します






















たまたま気仙沼港に入港中に被災した他県の船もあります
陸に上がった400tクラスのマグロ船は今後どうなるのでしょう


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伸びる伸びる!ミニトマト

2011年05月15日 | 日々の暮らし
治療院の待合室で育てている鉢植えのミニトマトは

ぐんぐん伸びて、胸の高さくらいになったので、室内ではもうムリとベランダに移動







実の方は今は一本の幹に3房なっていて、1房には実が10個程度付いている

房の根元の方から順番に花が咲いて、実がなってくるため、房の先端部に向けて実はだんだん小さくなって

きれいに並んだ姿がなんともかわいらしい

実はまだ青いままである






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気仙沼震災写真展(1)

2011年05月14日 | 気仙沼
気仙沼中学校時代の同級生、といっても還暦をすぎているのだが、が震災直後から撮影した写真を大量に送って来てくれた。

「・・・できるだけ多くの人に、報道写真とは違う、市民目線で撮った写真をみてもらい、その惨状を共有していただくことが支援の第一歩になるものと考えています・・・」というのがご本人の思いである。

彼の写真は目黒区役所でも展示されているが、それは「目黒のサンマ」が取り持つ縁で相互交流を深めているからで、目黒サンマ祭りのサンマは気仙沼産なのですよ。友好都市協定も締結しているようだが、詳細は目黒区役所のホームページを見てください。

この貴重な記録写真を多くの人に見てもらえるよう私もやれる範囲で努力してみるつもりだが、取りあえずこのブログでも災害発生直後からの時間経過にしたがって公開していきたいと思っています。



























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気仙沼物産展

2011年05月14日 | 趣味・道楽
昨日は横浜市中央郵便局前で震災復興支援の気仙沼物産展が開かれた。
治療院を早めに閉めて出かけてみたが、到着した4時頃にはほとんど売り切れていて、お客さんもほとんどいない。

少しばかりの売れ残った商品を買い、暇を持て余している店の若い衆と震災の状況について話ができたのは収穫。

震災前に製造してあった商品をかき集めての開催だったようだが、大盛況だった一昨日でほとんど売り切れたようだ。

ふかひれの石渡商店が中心になって地元の商店の若い人たちが企画した物産展のようだが、私も少しばかりではあるが復興に向けて貢献できたか・・・な?。



市のマスコット「ほやぼう」だったかな





震災後の写真も展示されていました


地元での復興作業と合わせて、こんな取り組みが少しずつでも出来るようになってきたことが嬉しい。

皆さん被災地のことを忘れないようにしましょう。

被災地の産物を積極的に買いましょう。


東日本大震災に思う・思い出探し(41)私の事件簿

2011年05月10日 | 日々の暮らし
東日本大震災から早くも2カ月が過ぎようとしている。
「もう2カ月も経った」のか、「まだ2カ月しか経っていない」のかは人それぞれ感じ方が違うであろうが、私自身には「もう2カ月も経ったのか」という感じで、時間だけがどんどん過ぎて行ってしまうようだ。

被災地のみなさんは大変な状況が続いているが、これがわが身に起きた事だったらその瞬間どう対処できたか、今後どう対応して行けるのだろうかと考えてしまう。
いろいろ考えていたせいか、昨夜は自分が津波に会って・・・辛うじて逃げ切った夢を見てしまった。

気仙沼は小学校、中学校を過ごした私の故郷である。

事故、災害は一生の間に何度かは遭遇するものであるが、以前それらを振り返ってみて、忘れない内にと書いた文章を思い出したので、そのまま以下に載せてみました。
書いたのは2010年10月9日です。

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最近、世界のあちこちで大災害(人災もあるが)が起きていて、アイスランドでは火山も噴火して、天候も不順で、こないだまで温暖化を問題にしていたのに、火山に絡んで寒冷化、飢饉、氷河期の到来なども言われて、日本も猛暑・酷暑が続いたり、なにがなんだか分からない状況になっています。
日本でもあちこちでちょこちょこと大雨、土砂崩れ、地震などが起きていて何か気になります。

 地震、雷、火事、おやじといいますが、私もやっぱり地震が怖くて、一番恐ろしかったのは仙台市の西多賀ベッドスクールのベッドに寝たきりの状況で経験した新潟地震だが、チリ地震による津波も50年前の小学生の時に被災地の気仙沼で経験している。
一生のうちに2度の大地震に見舞われたチリの人たちには心よりお悔やみ申し上げます。

さて、今回あらためてこれまで私の身の回りで起きた、あるいは関係があって記憶に強く残っている災害や事故について整理してみました。
昨年還暦を迎えた歳にもなると、結構いろいろなことがあったんだな~というのが実感です。

1954年9月26日(私5歳);台風15号による青函連絡船「洞爺丸」の海難事故

秋田市の親戚の家でこの台風を経験しました。
1954年9月26日22時43分、青森と函館を結ぶ青函連絡船・洞爺丸(3800トン)が台風によって沈没し、1200名ほどの乗客・乗員が亡くなりました。

 当時私は5歳で、仙台に住んでいましたが、当日は脳卒中で倒れた祖父の見舞いのため母と兄(7歳)の3人で秋田市新屋(祖父は王子製紙の社員で当時は新屋の社宅に住んでいました)に行っていました。
当日は台風15号が四国から関西を横断して日本海に抜け、北海道へ向かっていました。
秋田市も夕方から夜半にかけてものすごい嵐となり、風がふくたびに雨戸が内側に反り返ってくるのを皆で必死になって押し戻したり、停電の暗闇のなかで瓦が飛んできて外壁にドンドンぶつかってきたりで、けして頑丈な造りとはいえない2階建ての家が吹き飛ばされて、死んでしまうのではないかと真に思ったものでした。翌日は台風一過の快晴で、道には飛ばされてきた雨戸や瓦やもろもろの残骸が散乱しており、そんな中で「生きてて良かった」という感じで、いとこ達と楽しく遊んだのを覚えています。

5歳だった私が今でも当日のことを鮮明に覚えているのは、この台風の恐ろしさのためで、大分後になって、この台風15号で洞爺丸が沈んだのだということを知りました。怖がりとは思えない私が、台風、特にゴー、ビューといった風音に結構神経質になるのは、その経験がトラウマとなっているからかもしれません。この時洞爺丸以外にも北見丸(70名死亡)、日高丸(56名死亡)、十勝丸(57名死亡)の3隻の貨物船が沈没しています。

1960年5月23日(私11歳);三陸海岸を襲ったチリ地震津波

 宮城県気仙沼市に住んでいてこの津波を経験しました。当日は小学校も休みになり、一日中港の近くの高台から、津波を見物していました。ゴロゴロという海鳴りが不気味でした。自転車であちこち走り回って、翌日海水のため自転車が真っ赤に錆びていて父親に怒られたのを覚えています。

1964年6月16日(私15歳);新潟地震

 宮城県仙台市の国立療養所「西多賀ベッドスクール」に入院して腰椎カリエスの治療を受けていました。寝たきりの状態で震度5を経験しました。ベッドも移動するぼどの激しい揺れで、起きて逃げるわけにもいかず、とても恐ろしかった記憶があります。このときは新潟で起きた地震だとは思われないほど、仙台でも強い揺れを感じました。

1981年10月13日(私32歳);米軍小柴貯油施設の燃料タンク爆発炎上事故

 横須賀市追浜の日産自動車電子研究所に勤務していて、この事故を目撃しました。丁度昼休みに入って、社員食堂に行く途中、ドーンという音がし、食堂の建物のガラス窓が一斉にガチャガチャ音を立てました。向いの岡の裏からすごい炎と真っ黒な煙が、天高く上がりものすごかったのですが、まさかこんな近くに(横浜市金沢区)米軍の燃料貯蔵タンクがあるなんてまったく思っていませんでした。

1988年7月23日(私39歳);潜水艦「なだしお」と釣り船「第一富士丸」の衝突事故

 TVニュースで事故を知り、勤務中でしたが、すぐに勤務していた日産自動車中央研究所の屋上にあがり事故後の状況を目撃しました。遠くに鯨みたいな潜水艦が浮かんでおり、周りに多くの船がうかんでいました。横須賀港北防波堤灯台の3キロのところでの衝突事故で、30名の方が亡くなりました。

1995年1月17日(私46歳);阪神淡路大震災

 当時、日産自動車は日本テレコムとのベンチャーで携帯電話ビジネスを展開しており(ツーカー・デジタルツーカー→現ソフトバンク)、私も研究所から日産本社の支援部隊に転籍したばかりでした。関西は大阪にあるツーカーホン関西のサービスエリアで、当日は社員の安否確認と通信網の被害確認で大変でした。

1995年2月28日(私46歳);オウム真理教・地下鉄サリン事件

 当日は、いつもの通勤と同じで、地下鉄浅草線の東銀座駅で下車してホームに出たときから大騒動で、地上に出ると、沢山のパトカーや救急車が走り回り、空にはヘリコプターが旋回していて、なんなんだ!とびっくりしました。この事件では日産の社員も多く被害を受けました。

これ以降、幸いなことに10年以上、身の回りに大きな災害・事件は起きていません。
これから起きるとすれば、地震でしょうが・・・、あと何回かは、何か経験するでしょうね。
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以上が2010年10月9日のブログ「きらくどう日記」に記載した文章ですが、この時の心配が現実のものとなってしまったのが残念です。負けるな気仙沼、まけるな東北。

ところで、神奈川県警に勤務する私の息子は震災直後から陸前高田市に2回、大槌町に1回、そして現在は5日から釜石市に出動しています。4~5日間横浜に戻っては出かけていく日々が続いていますが、身体に気をつけて頑張ってほしいと思います。

あらためて、全国から駆け付けて被災地で活動している自衛隊、消防、警察、ボランティアのみなさん有難うございます。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

ミッキーマウスの木+ミニトマト

2011年05月07日 | 日々の暮らし
4月末から咲き始めたミッキーマウスの木

いろいろな事件が起きたが自然の営みは何ら変わりなく続いており

開花は例年より10日ほど早い


昨年育てたゴーヤ(ニガウリ)に代わり今年はミニトマトの苗も鉢植えで育てている


家の方では昨年の経験を生かしてゴーヤの苗を4本と新たにピーマンの苗2本を露地植してみた

土にはあまり手を加えていないので、さてどこまで育ってくれるだろうか・・・?




ミッキーマウスの木の花は可憐です





ミニトマトの花はシャイな感じで・・・小さな実もなってきました


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