きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

韓国の剣道のっとり計画に一言

2005年06月27日 | 居合・日本刀
「剣道は韓国を起源とするものである。」とするプロパガンダが活発なようです。これに反発する日本側の意見も多くのブログに見られます。その背景には韓国の民族主義の高揚という政治的背景が存在すると思いますが、いわゆるスポーツとしての「剣道競技」の実力が日本、韓国、フランスの間で伯仲してきて、日本のお家芸が危うくなってきていることも一因となっています。ところで現在行われている「剣道」と真剣で殺しあうために生まれた剣術とを同一視すると大きな間違いです。日本の剣術、というより剣術、槍術、棒術、柔術・・・などの総合武道の発祥は香取神宮、鹿島神宮にあるのは事実でありそこから多くの道統がうまれ発展してきたわけです。草創期は室町時代ですので主力武器は弓と長刀であり、騎馬戦が主ですので刀も長く彎曲の強いものを馬上から片手で扱うのが主だった訳です。それ以前に鉄器は中国から朝鮮を経由して伝来しましたので、武術的体系の有り無しは置いといて、聖徳太子の肖像画にみられるように刀は中国式の直刀、片切り刃の太刀であり、当然片手剣法だった訳です。グリーン・デスティニーやヒーローなどの映画にでてくるような、飛んだり跳ねたりしながら目にも留まらぬ速さで片手で刀を扱う「中国剣法」のそれだったのでしょう。室町末期~戦国時代~江戸時代初期には中国、朝鮮との交易も盛んで、日本からの代表的輸出品は数打ち物と称される、大量生産された粗悪な日本刀であり、中国、朝鮮でも日本刀は良く使われたのでしょう。戦国末期から江戸時代になると甲冑を着ての切りあいではなく、いわゆる素肌剣術になり、刀も長い太刀から2尺3寸5分を定寸とする打ち刀へと推移し、このころから両手剣法が主流となりました。薩摩の示現流を代表とするように、日本剣術の真髄は一撃必殺であり、刀同士をチャりんチャりんと打ち合わせてやり取りするのは、スポーツ剣道の悪しきイメージであり、本来は「無拍子(相手の刀を受けない)で切る」のが理想であり、技の劣るものは「相手の刀を撥ねてから切る」、さらに技が至らないものは「相手の刀を受けてから切る」と言われています。真剣は竹刀の2倍の重量があり、厚みは6~8mmで空気抵抗が小さい分だけ、竹刀よりも早く切り下ろせて、しかもチョッとどこかに触れればざっくり切れてしまう凶器なのです。3本勝負などといってボカボカ打突を行うスポーツ剣道を剣術と同一視すると大間違いで、その凶器を「俺の死に様を見ろ(俺の生き様などという考えは侍の世界にはありませんでした)」といって振るっていた剣術は明治以降に廃れ、現在では古武道と言う文化遺産として苔むしてしまっていることの方を日本人としては寧ろ嘆くべきではないでしょうか。剣術として日本で創生され体系化された武術に対して韓国が何か物申す余地はまったくありません。一方武術から乖離しスポーツとして大衆に迎合した剣道は、いくら「武士道」などと軍国主義的精神論で日本文化の象徴として位置付けようとしても詮無いことであり、国際大会で常勝することこそが日本文化(というのであれば)を守る唯一の方法であろうと思っている。がんばれ日本剣道、韓国に負けるな、ましてやフランスにおいておや!