きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

2013年5月26日・道寸まつり・流鏑馬

2013年05月27日 | 居合・日本刀
先日は、予定通り新井浜の道寸まつりへ出かけました。

普段は入れない東大地震研究所と東大臨界実験場の敷地内にある新井城本丸跡の見学から始まり、神事や三浦太鼓、横須賀甲冑隊の行列を見物し、お目当ての武田流の流鏑馬が始まったのが午後1時半。

 鎌倉鶴岡八幡宮の流鏑馬は何度も見ているが、砂浜での流鏑馬は全国でもここだけだそうで、海を背景にし、カーブした馬場での流鏑馬は、鎌倉のものよりも迫力があり、見物もし易く、大満足だった。新井城址も空堀跡なども有り、また自然保護区域で、普段は人が入れない場所だけに、樹がうっそうと茂り、眼下に見おろす油壺湾の景色も最高でした。





案内図



油壺湾



小網代湾



三浦道寸を祀る祭壇にお参り



横須賀開国甲冑隊



いよいよ流鏑馬開始・・・武田流一門






この写真をクリックすると、流鏑馬の動画が見れます。


 夢さそう、相模の武士(もののふ)たち・・・・・・

 三浦氏は平氏の流れをくみ、始祖為通が前九年の役の功により、源頼義から三浦半島を所領しました。
四代義明の時源、頼朝の源氏再興に味方して平家討滅、鎌倉幕府の再建に功があり、幕府に重きをなしました。一族の和田義盛は、幕府の侍所別当として、三浦義村は数ヶ国の守護を兼ねるなど、一門は隆盛を極めましたが、鎌倉の覇権を北条氏と争い、1247年泰村の時に亡びました。

 その後、三浦一族の佐原氏が三浦介を継、以来270年、新井城の三浦道寸が小田原の北条早雲に亡ぼされるまで450年もの間、相模に君臨した坂東の名門でした。




三浦と会津との関係とは?


戦国大名会津・芦名(葦名)氏と三浦一族の関係は?

三浦一族と中世会津地方の関わりは、三浦大介義明の子・佐原十郎義連(よしつら)が文治5年(1189)の奥州合戦での戦功により源頼朝から会津4郡(会津・大沼・河沼・耶摩)を与えられた時から始まるといわれています。

観応3年(1352)頃に義連の子孫である芦名直盛が会津地域で活躍していたと思われ、14世紀半ばには芦名氏が会津を拠点としていたようです。
後世の系図によれば、康暦元年(1379)に直盛が会津を本拠地とし、至徳元年(1384)黒川城(後の若松城)を居城としたとされています。
16世紀・芦名盛氏の頃には東北地方有数の大名として米沢・伊達家や常陸・佐竹家と並び称されるほどの力を有し、天正17年(1589)に芦名義広が伊達政宗との決戦に敗れるまで約200年間にわたり会津に君臨しました。
三浦一族と会津の関わりは、佐原義連から数えれば実に400年間の長きにわたりました。